夜襲

 それからしばらく日々は平穏に過ぎた。日中は訓練に明け暮れ、夜になればアイリスの部屋に行って今日あった出来事を語り合う。アイリスはいつもどおり無邪気な様子で流行のドレスや髪型について話したり、ピアノのレッスンの愚痴を零したりしていた。


 オリヴィエはそんな彼女の姿を目を細めて見つめながら、これでいい、と自分に言い聞かせた。過分な望みを抱いてはいけない。こうして傍で彼女の声を聞き、彼女の姿を愛でていられるだけでも十分すぎるほどの幸福なのだ。下手に心中を打ち明けて関係が壊れるくらいなら、一生彼女の騎士のままでいい。オリヴィエはそう考え、先日のシャガとの会話で生まれた逡巡を胸の内に押しやろうとした。


 だが、天はオリヴィエの儚い願いさえも叶えてはくれなかった。シャガとの稽古から、三週間後のことだった。




 その日、日課を終えたオリヴィエは宿舎の自室で就寝していた。女騎士が一人である関係上、彼女には個室が与えられている。男の騎士は大部屋で就寝するため、寝相の悪い騎士に蹴り飛ばされたり、歯ぎしりの音に安眠を妨害されたりといったことは日常茶飯事らしいが、オリヴィエはそうしたことに煩わされることはなかった。自分が女であることを有り難く思う数少ない瞬間だった。


 夜半の宿舎に人の声はなく、時折窓から虫の鳴き声が聞こえるばかりで、深閑とした空気が辺りを包み込んでいる。窓辺から差し込む銀色の月光が室内を照らし、一日の疲労と荒んだ心を浄化するかのように、優しい光を投げかけている。暖かな銀色の光に包まれながら、オリヴィエは夢の世界へといざなわれていた。


 夢の中で、彼女はアイリスと隣り合って歩いていた。いつか二人でトリトマの森に向かったあの夜のように、寒風に身をさらされ、頬を上気させながら。

 一つ違うのは、アイリスが彼女の手を握っていることだ。篭手ガントレットを外した彼女の手の中にアイリスの小さな手はすっぽりと収まっていた。オリヴィエが遠慮がちに指を絡めると、アイリスはためらいなくその手を握り返してきた。触れた手のひらの柔らかな感触が、凍えた身体を芯から温めていく。


 やがて森の奥深くまで来たところで、二人はどちらからともなく立ち止まった。降り注ぐ月光の下では一輪の白い花が咲き、大ぶりの花弁を広げて一夜限りの命を輝かせている。その花を挟む格好で二人は向き合い、瞬きもせずに互いの顔を見つめ合う。


『……ねぇオリヴィエ、約束してくれる? 月下美人は一夜で枯れてしまうけれど……あなたは簡単には枯れないって。いつまでも強い騎士として……私の傍にいてくれるって』


 いつか聞いたアイリスの声が蘇る。弦が切れる前の楽器のような、不安げな響き。

 その声の余韻まで耳に刻みつけた後、オリヴィエはふっと微笑んだ。


『当然です。……ただし、騎士としてではなく』


 ゆっくりと告げ、彼女の華奢な身体をそっと抱き締める。アイリスは何も言わずにオリヴィエに身を委ねてきた。美しい瑠璃色の髪が月光を浴び、銀糸ぎんしとなって煌めいている。


 オリヴィエはアイリスの髪をそっと指先でいた後、目を細めて彼女の顔を見つめた。アイリスも応えるように視線を返してくる。言葉はなくても、互いの考えていることは手に取るようにわかった。

 オリヴィエは今一度微笑みを浮かべると、そっと身を屈め、花のように愛らしい彼女の唇に永遠の忠誠を誓おうとした。


「おい、オリヴィエ! 起きろオリヴィエ!」


 誰かが乱暴にドアを叩く音が彼女の美しい幻を取り払った。オリヴィエは弾かれるように寝台から身を起こした。


「誰だ!?」

「俺だよ、シャガだ! 開けてくれ! 大変なんだ!」


 切迫した声は確かにシャガのものだ。彼が自分の部屋を訪ねてくるなんて今までなかった。何か非常事態が起こったのだろうか。


「少し待て、今扉を開ける」


 声をかけてから、オリヴィエは自分がナイトシャツ姿であることに気づいた。肌を露出したデザインではないとはいえ、この格好で男の前に出るのはどうなのだろう。


 オリヴィエは少し迷ったが、今は些末なことに頭を煩わせている場合ではないと思い直した。それでも厚手のガウンを羽織ってから扉を開ける。すぐにじれったそうに足踏みしているシャガの姿が目に入った。夜中だというのに鎧を着ている。


「あ、オリヴィエ! 大変なんだよ! 俺、もうどうしたらいいかわかんなくて……」

「落ち着け。何があった?」

「ディモルフォセカの奴らが攻めてきたんだよ! それも大軍で!」


 さすがのオリヴィエも目を見開いたが、すぐに冷静さを取り戻して尋ねた。


「確かな情報なのか?」

「あぁ、全員金色の鎧着てたし、国章も入ってたから間違いねぇ! くっそー……最近大人しくしてたと思ったらこれかよ!」シャガが頭を搔きむしった。

「これも奴らの作戦のうちだったのかもしれんな。他国への侵攻を止め、我々を油断させたところで急襲を仕掛けた。夜に攻め入ったのも警備が手薄な時間帯を狙ったのだろう。まったく狡猾な奴らだ」

「なぁどうすりゃいいんだ? 今の金騎士団って昔よりずっと強いんだろ? 俺達やられるんじゃないのか?」

「落ち着け。他の騎士はもう起き出しているのか?」

「あぁ。夜警の奴らに全員狩り出された。今は城門と城壁で分かれて戦ってるよ」

「そうか。グラジオ隊長はどちらにいらっしゃる?」

「城門で指揮を執ってる。ルドベキアやズオウもそこにいるよ」

「ならば私も城門に向かおう。まずは隊長の指示を仰ぎ、それから戦闘に加わる」

「そっか。お前がいてくれたら心強いぜ! じゃ、俺は先に行ってるから!」


 シャガが片手を上げて廊下を走っていく。彼がいた剣がかしゃかしゃと鳴る音が宿舎の静寂を払っていく。


 オリヴィエは表情を引き締めると、鎧に着替えるために急いで部屋の扉を閉めた。

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