小さな優しさ
それから数日後の早朝、オリヴィエはシャガとの稽古のためにトリトマの森に来ていた。
稽古は今や三日に一度の頻度に増えていた。最初はオリヴィエの攻撃を避けるだけで手一杯だったシャガも、今では十回に一度は攻撃を受け止められるくらいには進歩していた。反撃することまではできずにいたが、それも時間の問題だろうとオリヴィエは考えていた。剣術の腕は一朝一夕で得られるものではない。どれだけ長い道のりに見えても
「いやー、やっぱり稽古の後の空気はうめえなぁ!」
一時間ほど剣戟の音を響かせた後、シャガが草むらの上で大の字になりながら言った。
「いつも思うけど朝の稽古っていいよな! いい汗搔いて頭も身体もすっきりするし、こうやって空見てるのも気持ちいいしな!」
木々の枝葉の間を流れる雲や、燦々と輝く太陽を見つめながらシャガが表情を綻ばせる。手足をいっぱいに広げて陽光を浴びる姿は動物が日光浴をしているようだ。
「にしてもやっぱりお前は強いよなー。もう三ヶ月くらい稽古してるのにまだ一撃も受けてくれないんだからさ。俺、いつになったらお前に追いつけるのかな?」
シャガが空を見上げたまま独り言のようにぼやく。オリヴィエが返事をしなかったので、シャガは首だけ彼女の方に向けた。オリヴィエは片膝を立てた格好で草むらに腰を下ろしていたが、その表情はなぜか険しく、心ここに在らずの様子で地面の一点を見つめている。
「オリヴィエ? どうかしたか?」
声をかけられてようやく我に返ったのか、オリヴィエがはっとした様子で顔を上げた。
「あぁ……すまない。少し考え事をしていた」
「へぇ、珍しいな。お前がぼーっとするなんて」
「そうだな。普段の私ならまずないことだ。このような虚けた状態になるなど……」
「何か悩みでもあるのか? 俺でよければ話聞くぜ?」シャガが上体を起こして言う。
「心遣いは有り難いが遠慮しておく。人に話して解決できるような問題ではないからな」
「はぁ、なんか深刻な悩みっぽいな。もしかして騎士団の連中に何か言われたのか?」
「奴らの悪口雑言など可愛いものだ。頭を煩わせるまでもない」
「はぁ……でも他にお前が悩むようなことあったっけ? 俺みたいに背が小っさいから悩んでるってわけでもないだろうし……」
シャガが難しい顔で腕組みをする。彼が自分の身長を気にしていたことをオリヴィエは初めて知った。確かにシャガは小柄で、見ようによっては少年のようにも見えるが、それでも平均より少し小さい程度だ。だから気にするほどのことでもないとオリヴィエは思ったが、彼にとっては重大な問題なのだろう。
オリヴィエにとっても同じことだ。自分の悩みは他人には理解しえず、解決できる見込みもない。だからこそ誰にも打ち明けず、一人で抱えて生きていくしかない。
「余計な心配をかけてすまなかった。今のことは忘れてくれ。私は先に戻っている」
オリヴィエはそう言って立ち上がると、一人で森の入口へ向かおうとした。それを見たシャガが慌てて立ち上がってオリヴィエの前に回り込んできた。
「あ、待てよオリヴィエ。お前一人で悩んでて苦しくないのか?」
「苦しい……?」
「そうだよ。どんな悩みかわかんねぇけど、一人で考えてたって答え出ないだろ? だったら全部ぶちまけちまえよ」
「しかし……これは私の問題だ。お前の頭を煩わせるわけには……」
「いいの! 俺はお前が悩んでるのを見るのが嫌なの!」
シャガが駄々っ子のような口調で言って拳を握り締める。その様子が可笑しくてオリヴィエは思わず笑みを漏らした。
どうやらこの男は本気で自分を心配してくれているらしい。野次馬根性からではなく、少しでも苦しみを軽減させるために声をかけてくれている。理解しえないと知りつつも、自分なりに痛みを共有しようとしてくれている。そんなシャガの優しさが伝わり、オリヴィエは自分も彼の誠意に応えたいと思うようになっていった。
「……わかった。だがくれぐれも他言は無用だ。特に騎士団の連中にはな」
「もちろんだぜ! 俺、こう見えても口は堅い方だから、墓場まで持っていくって約束するぜ!」シャガが歯を見せて笑った。
「そこまで長く抱える必要はない。だが……その心遣いには感謝する」
オリヴィエは心から言うと、再び草むらに腰を下ろした。シャガもその隣に並んで座り込んだ。
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