魅惑の女王

 王の間を出た後、オリヴィエはすぐさま訓練場へ向かおうとした。今日は朝一番にゼラから招集を受けたため、訓練に参加するのはこれからだ。ゼラと謁見したことが知られれば騎士の妬心を刺激するのは目に見えていたが、オリヴィエにとっては些末なことだった。


「ねぇあなた、ちょっと待ってくれない?」


 背後から声をかけられてオリヴィエは足を止めた。振り返ると、王の間の扉の前でカトレアが一人で立っているのが見えた。艶やかな紫色のドレスに身を包み、ローカットの胸元から豊満な胸が惜しげもなく晒されている。


「殿下……。私に何用でしょうか?」オリヴィエが手を後ろ手にして姿勢を正した。


「あら、そんなに畏まらないで。ちょっとお話ししたいと思っただけなんだから」


 カトレアが艶然と微笑んでオリヴィエに近づいてくる。深閑とした廊下にドレスの衣擦れの音が響き、窓辺に飾られた花よりも芳しい香水の匂いが鼻孔をくすぐる。


「あなた、十人もの男を倒したって本当なの?」

「ええ……とはいえ、大半は傭兵上がりの雑輩でしたが」

「でもあなたの方は一人だったんでしょう? 女が一人で男を倒すなんてなかなかできることじゃないわ」

「それは奴らの実力が私より劣っていただけのこと。私の性別は関係ありません」

「そう……。でも本当に惜しいわね。どうしてあなたは男に生まれなかったのかしら? あなたが男だったら騎士団でももっと優遇されていたでしょうに」

「……天から与えられたものに意義を唱えるつもりはありません。自分が男であろうと女であろうと、私は騎士としての職務を全うするのみです」


 そう言ったオリヴィエの口調は普段と変わらず淡々としていたが、注意深く聞いていれば、その声が一段低くなり、押さえつけた感情が声色に滲んでいることに気づいただろう。だが、普段オリヴィエと関わる機会のないカトレアはそのことに気づかなかった。


「御用件はそれだけでしょうか? であればこれで失礼させていただきます。訓練に向かわねばなりませんので」


 オリヴィエは手短に言うと、カトレアに一礼してから辞去しようとした。これ以上会話を続けて、内心の動揺を悟られるわけにはいかなかった。


「ねぇ……待って。せっかく二人きりでいるんだから、もっとゆっくりお話しましょうよ」


 カトレアが手を伸ばしてオリヴィエの腕に触れる。振り返ると思いのほか近くにカトレアの顔があり、オリヴィエは咄嗟に後ずさって壁に背中を付けた。身動きが取れなくなったところでカトレアがぴったりと身体を寄せてくる。むせかえるような香水の匂いが鼻をつき、オリヴィエは思わず顔を背けた。


「私、前からあなたに興味があったのよ」


 カトレアが囁くように言った。


「あなたはとても綺麗な顔をしていて、殿方よりも男らしくて……一度部屋にお招きしたいと思っていたの」

「……正気ですか?」オリヴィエが顔を引き攣らせた。「私は女ですよ? 女同士が情事を行うなど……」

「あら、いいじゃない。あなたの精神は殿方そのもの。だったら肉体も女を求めるものではなくって?」


 カトレアがオリヴィエを見上げて言い、ますます身体を密着させてくる。押しつけられた乳房の膨らみが鎧越しにも伝わってきたが、オリヴィエは憮然として彼女を引き剥がそうとした。


「……れ言を。私は自分の性を偽るつもりはありません。あなたがいかに色香を振りまこうと、私を屈服させられるなどと思わないが方がいい」

「そう? じゃあ相手が殿方ならよかったのかしら?」

「……騎士に色恋など不要。相手が男であろうと女であろうと興味はありません」

「そんなに禁欲的にならなくても。本能のままに誰かと愛し合うのはいいものよ?」

「あなたはご自身の欲望に忠実過ぎます。男をたびたび部屋に連れ込み、挙げ句私にまで声をかけ……。少しは貞操を守ってください」

「若い時代は一瞬なのよ? 身体が元気なうちに楽しまなくっちゃ」

「それが周りに与える影響を考えてください。あなたが淫らな振る舞いをするたびに陛下は心を痛められ、姫様も気を揉んでいらっしゃるのですから」

「あの人のことなら問題ないわ。お互い干渉しないって約束で結婚したんだもの。それにアイリスだってもう大人なんだから、女の嗜みだってことは理解してくれてるわ」

「そういう問題ではありません。あなたの振る舞いは王家全体の評判を落とし、ひいては姫様の将来にも影響を及ぼしかねない。それをお考えになったことがありますか?」

「あら……随分熱くなるのね。そんなにあの子が心配?」

「当然です。私は姫付きの騎士なのですから」

「それだけかしら? あなたの様子を見ていると、他にも理由があるように思えるのだけれど」

「どういう意味です?」

「そうね……。どう言えばいいのかしら。あなたにとってあの子は、ただの主人以上の意味を持っている。でも、あなたは自分が女であることを理由にして、その気持ちを封じ込めている……。それが頑な態度として表れているのではなくって?」


 オリヴィエが瞠目して息を呑む。カトレアを引き剥がそうと肩に置いていた手から力が抜け、金縛りにあったように彼女の顔を凝視する。その表情から何かを悟ったのか、カトレアが顎を引いて含み笑いをした。


「そう……あなたの精神はやはり殿方というわけね。でも残念だわ。まさか娘が恋敵になるなんてね」


 カトレアが悩ましげにため息をつき、自らオリヴィエから身を離す。そのまま紅を引いた唇に指を当てると、上目遣いにオリヴィエを見上げて言った。


「あなたの気持ちはよくわかったわ。あなたが私を拒むのは、自分が女だからではなく、他に情愛を捧げる相手がいるから。そうでなかったら私になびかないはずがないもの」

「……殿下、何か誤解なさっているようですが、私は姫様のことは何も……」

「誤魔化さなくていいのよ。あなただって気づいてるんでしょう?」


 オリヴィエが憮然として口を噤む。カトレアは唇の端を持ち上げてふふっと笑った。


「あの子には黙っておいてあげるから安心なさい。あぁでも、気が変わったらいつでもいらっしゃいな。寝室の鍵は開けておくから」


 オリヴィエは黙りこくったまま視線を落としている。カトレアは今一度艶然と笑みを漏らすと、オリヴィエの脇を通って廊下を歩いて行った。香水が残り香となって漂い、夢の中を彷徨っているような幻惑的な気分にさせられる。


 一人になったオリヴィエは、自分がひどく心を乱されていることに気づいた。花騎士団の同僚に中傷を浴びせられた時も、金騎士団の急襲を受けた時もこれほど動揺を覚えはしなかった。平常心を取り戻そうと窓辺に飾られた花を見やるが、可愛らしいスミレやビオラの花々も今日は心を慰めてはくれなかった。


 自分がアイリスに抱く思慕が、主君への敬愛だけを意味するものではないと気づいたのはいつからだっただろう。

 彼女があどけない少女から美しい女性へと成長する姿を見る中でか、幼い頃、自分の髪に触れた彼女の優しい指先を感じた時か。


 いずれにしても、それは決して表面化させてはいけない感情だった。自分の任は姫付きの騎士としてアイリスの身の安全を守ること。それ以上の役目は期待されていない。


 だけど、もし彼女の前に相応しい相手が現れれば、その役目すらも自分は失うだろう。エーデルワイス王国の王女として、アイリスは王の後継者に相応しい立派な相手を婿に迎える必要がある。だが、彼女の愛らしさと気立てのよさを以てすれば候補者はすぐに見つかるだろう。婚礼の式は大々的に行われ、アイリスの美しい花嫁姿を一目見ようと国中から貴族がこぞって押しかけるに違いない。その中で自分はアイリスの護衛として、彼女が花婿と共に祝福されるのを傍で見守るのだ。自らの思慕をひた隠しにして。


 オリヴィエはしばし思いを巡らせていたが、やがて首を振って虚しい想像を振り払った。取るに足りない思考に時間を費やしてしまった。早く訓練場に向かうことにしよう。訓練に邁進してさえいれば全てを忘れることができる。どこにも属せない自分の立場も、永久に報われることのない恋情も。


 オリヴィエは静かに息をつくと、重い足を引き摺るようにして歩き出した。

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