花園にて

 それから数日後、オリヴィエは馬車に揺られながらトリトマの森にある小径を走っていた。隣国のサルビア王国で開催される会食にアイリスが出席することになり、その護衛を務めるためだ。会食にはゼラも出席し、彼は別の馬車にグラジオと同乗している。カトレアは体調が優れないため欠席することになり、参加者はゼラとアイリスの二人だけだ。ゼラの馬車が先導し、アイリスの馬車が後に続く。御者を覗けば馬車に乗っているのはオリヴィエとアイリスの二人だけだ。


「ねぇ見て、オリヴィエ、ここからだと景色がとっても綺麗よ」


 アイリスが窓の外を指差しながら言った。隣に座るオリヴィエはその方を見た。新緑の木々を背景に季節の花が花弁を揺らしている。袋のような丸く小さな花弁が可愛らしい白のスズラン、ドレスのような柔らかな花弁が美しい桃色のアザレア、鮮やかな花弁が人目を引く黄色のフリージア。色とりどりの花が咲き乱れる光景はまるで絵葉書のようだ。


「ええ……実に見事な光景です。この森はいつ見ても美しい」オリヴィエが感嘆の息を漏らした。

「また散歩に来たいわね。前に来たのはいつだったかしら?」

「確か一ヶ月ほど前だったかと。私の訓練終了後、夜にお供いたしました」

「あぁそうだったわね。春先にしては冷える日だったからよく覚えてるわ」


 オリヴィエは無言で頷いた。ただし彼女がその晩のことを覚えていたのは、季節外れの寒さがあったためではない。寒空の下でアイリスにそっと身を委ねられたこと、月明かりに照らされた彼女の幻想的な姿、月下美人を捧げられた時の寄る辺ない表情。それら全てが忘れがたい記憶となって、オリヴィエの胸に刻み込まれていたのだ。


「それにしても時間がかかるわね。到着まであとどれくらいなの?」

「森を抜けた後は街道が続き、その先に国境があるようです。時間にすると一時間ほどになるかと」

「そう、結構長いのね。ずっと座りっぱなしだから疲れちゃったわ。ちょっと停めて休憩しちゃダメかしら?」

「いけません。万が一遅刻でもしようものなら、相手方に無礼を働くことになる」

「大丈夫よ。会食まではまだ時間があるし、遅れたらその分後で飛ばせばいいわ」

「そういう問題ではありません。我々の馬車が追尾していないとわかれば、陛下に無用な心配をおかけすることになる。どうかご辛抱ください」

「もう、わかったわよ。オリヴィエったら本当に硬いのね」


 アイリスがむくれた顔で言う。オリヴィエ自身、この美しい森でしばしの休息を取り、アイリスと共に花々を愛でたい気持ちはあったが、姫付きの本分を忘れるわけにはいかなかった。


「でも会食なんて久しぶりね。相手の王族はどんな方なのかしら?」

「私もお噂でしか存じ上げませんが、高名なご一族だと伺っております。特に陛下は民の声に熱心に耳を傾けられ、自ら民の生活を視察されることもあるそうで」

「立派な方ね。ご家族は奥様と、娘さんが一人いらっしゃるんだったわね?」

「ええ。殿下は御年おんとしが姫様と同じ十九歳ですが、多芸な方のようです。詩、音楽、絵画など、様々な分野において才能を発揮されておられるそうで」

「まぁ、すごいわね。私なんて一つもできないのに、何だか気後れしちゃいそうだわ」

「案じることはありません。アイリス様も十分輝くものを持っておいでです」

「あら、本当? 何かしら?」


 アイリスが興味津々な様子で身を乗り出してくる。窓から入り込む木漏れ日が瑠璃色の髪を照らし、緑色の瞳をエメラルドのように輝かせる。白い頬にはわずかに赤みが差し、瞬きをするたびに睫毛が扇形の影を落とす。少しだけ開かれた唇は蕾のようにふっくらとしていて、瑞々しい桃色の花を思わせる。

 そうした表情一つ一つをオリヴィエは見つめながら、あなたの存在そのものが、と心の中で呟いた。


「あら、森を抜けたみたいね。知らない景色が見えるわ」


 アイリスがオリヴィエの背後を見ながら言った。オリヴィエも振り返って背後にある窓を見た。木々と花々に包まれた光景が一転し、なだらかな街道が広がっている。


「この辺りの景色はあんまり面白くないわね。お花も咲いてないみたいだし」

「では、少しお休みになってはいかがでしょう? 国境を越えた先には見事な薔薇園があるそうですから、そこで起こして差し上げましょう」

「あら、本当? 楽しみだわ。じゃ、お言葉に甘えて休ませてもらおうかしら」


 アイリスが嬉しそうに言い、二の腕にかけたショールを巻き直してさっそく目を閉じる。一分もしないうちに小さな寝息が聞こえ、そのままオリヴィエの方にもたれかかってきた。よほど疲れていたらしい。


 オリヴィエは苦笑してその様子を見つめた。あどけない顔には警戒心は全く浮かんでおらず、自分に気を許してくれていることが窺える。肩に乗った小さな頭の重みを感じながら、オリヴィエはいつまでもサルビア王国に着かなければいいのにと考えた。






 オリヴィエの願いも虚しく、馬車は予定通り一時間ほどでサルビア王国の国境を越えた。


 国境を越えた途端またも景色が一転し、オリヴィエ達を出迎えるように見事な薔薇園が出現した。白いアーチの下に石畳の道が続き、綺麗に剪定せんていされた生け垣が道の両脇に広がっている。アーチにも生け垣にも無数の薔薇が咲き誇り、白や桃色、赤といった鮮やかな花弁が主役の座を競い合うように大輪を広げている。色とりどりの花弁が深緑色のつるや葉とコントラストを成し、頭上に広がる蒼穹そうきゅうも相俟って実に壮観な光景を創り上げている。


「わぁ、本当に綺麗ね。どなたが手入れされているのかしら?」


 アイリスが窓の外を見ながら感嘆の声を上げる。オリヴィエは国境を越えてすぐに彼女を起こしたのだが、アイリスはぐっすり眠り込んでいて揺さぶってもなかなか目を覚まさなかった。だが、馬車が薔薇園に差しかかった途端に窓からかぐわしい香りが入り込み、それがアイリスの鼻孔に届いてすぐに目を覚まさせた。それを見てオリヴィエは、この方は本当に花を愛しておられるのだなと感じ入っていた。


「元々はこの近くに屋敷を構える貴族が所有していた庭園のようですが、当主の死を契機として一般に開放されたようです。ただし剪定については、その屋敷の庭師が今も継続して行っているそうで」

「そう。でもこんなに立派なお庭を作れるなんてすごいわね。お城の庭園の手入れもお願いしたいくらいだわ」

「あの庭園も見事なものではありませんか。特にあの薔薇は……」


 そこで不意に舞踏会の晩の光景がオリヴィエの脳裏に蘇ってきた。ダンスホールで行き場をなくし、庭園の噴水に一人腰掛けていた自分の前に現れたイベリス。彼に手を取られ、月明かりの下でダンスを踊ったこと。彼の着ていた白い夜会服。芳しい薔薇の香り。陰影のできた彼の顔。物悲しいバイオリンの音色。自分の髪に触れる彼の優しい手。降り注ぐ月光。頬から伝わる彼の胸板のたくましさ……。そうした記憶一つ一つがオリヴィエの胸をうずかせたが、努めて顔に出さないようにした。


「それよりも間もなく到着します。そろそろ下りる準備をなさった方がいい」

「あら、もう? 思ったより早かったわね」

「よくお休みでしたからね。到着したらすぐに陛下に拝謁はいえつすることになりますから、今のうちに身支度をされておいた方がよろしいかと」

「そうね。顔によだれの痕なんて付いてたら大変だものね」


 アイリスが心配そうに頬に手を当てて手鏡を取り出す。実際には涎の痕などついていなかったのだが、アイリスがあんまり真剣に手鏡を覗き込んでいるので、オリヴィエはそっとしておくことにした。

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