英傑の魂

 その後、オリヴィエとルドベキアは約一時間にわたって稽古を続けた。人気のない訓練場の二人の剣戟の音が響き、未だ全体の訓練が続いているような錯覚を抱かせた。集中していたおかげで日が沈んだのにも気づかず、辺りが暗くなってようやく時間の経過を認識したほどだ。結果は三戦三勝。もちろん勝ったのはオリヴィエだ。


「やはりあなたはお強いですね、オリヴィエ殿」ルドベキアが感心した顔で言った。

「一勝でもできれば守備は上々と考えておりましたが、あなたはその機会さえ与えてくださらなかった。いや、まったくお見事です」

「お前の腕は悪くない。だが私に勝つには不十分なようだ」

「ええ。ですが、倒すべき敵が強ければ強いほど闘争心も育まれるというもの。今は及ばずとも、いずれ必ずあなたを越えて見せますよ、オリヴィエ殿」


 ルドベキアが淡々と、だがきっぱりと断言する。連敗直後であっても自信を失わずにいられるとは、この男はやはり只者ではないとオリヴィエは考えた。


「それにしても不思議ですね。私が知る限り、あなたは一度も敗北を喫したことがない。その強さの秘密は何なのでしょうか?」

「さぁな……。強いて言うなら、高みを目指す精神があるかどうかではないか? グラジオ隊長がおっしゃっていたように、慢心こそ騎士が最も唾棄だきすべきもの。この騎士団にはそれを理解していない連中が多すぎる」

「それに関しては同意見です。ですが私は、あなたの強さを形作っているのは精神の高邁こうまいさだけではないと思いますが」

「何が言いたい?」


 オリヴィエが訝しげに目を細める。ルドベキアは無言で彼女に近づくと、彼女の手に握られたままの剣をじっと眺めた。細長い剣身は刃こぼれ一つしておらず、やや弓なりになった形状は剣というよりも刀に近い。柄は森のような深い緑色をしており、握りの部分には蔓を模した金色の装飾が施されている。つばの中央部分には菱形のペリドットがはめ込まれ、その両脇から鳥の羽のような切れ込みの入った白い鍔が伸びている。


「実に美しい剣だ」ルドベキアが感嘆の息をついた。「初めて見た時から気になってはいたのです。これほどの名剣をあなたはどこで手に入れたのですか?」

「これは父の形見だ。名をエリアル・ブレードと言う」

「エリアル・ブレード……。空を斬る刃、というわけですか。命名もお父上が?」

「ああ。剣の軌跡が風を斬るように見えたことから命名したらしい」

「なるほど。なかなか詩情がありますね。お父上も騎士だったのですか?」

「ああ、グラジオ隊長とも懇意にしていたらしい。私に剣術の手解きをしたのも父だ」

「それは興味深い。あなたを育て上げたということは、お父上も相当な手練れだったのでしょうね」

「ああ、父は花騎士団の中でも傑出した実力を持っていた。蒼炎の騎士と同様、城に侵入した敵兵五十人を一度に倒したこともあると聞く。さらに部下への指導にも熱心で、時期隊長候補とも目されていた。結局その機会が訪れることはなかったがな」

「お父上はどうしてお亡くなりに?」

「戦死した。王城に敵勢が攻め入った時、警備が手薄になっていた箇所があってな。父は一人でそこに向かい、敵将と相打ちになった。結果として敵軍は殲滅せんめつしたがな」

「そうですか……。惜しい人を亡くしたものです。ご存命であれば、あなたのような素晴らしい騎士を何人も輩出されたでしょうに……」


 ルドベキアが深々と息をつく。オリヴィエは晩年の父のことを思った。厳しい指導を部下に課しながらも、その指導の確かさと自らの強さゆえに多くの騎士から慕われていた父、アルストロ。享年四十五歳という早すぎる訃報ふほうを知らされた時、多くの騎士が今のルドベキアと同じように悲嘆に暮れ、勇敢なる戦友の急逝きゅうせいを憂えていた。


 そんな中、オリヴィエ自身は意外なほど冷静でいることができた。葬儀の場で父の遺骸を見た時、母のメリアは父に縋りついて人目も憚らずに泣き、弔問客の悲涙ひるいを誘っていたが、オリヴィエはそのような真似をする気にはなれなかった。彼女にとっての父は血を分けた親というよりも師であり、師を亡くした哀しみを感じることはあっても、肉親の情に心を動かされることはなかった。


 父自身、娘に愛情を注ぐよりも、一人前の騎士に育て上げることを選んだため、その態度は自然と厳格なものになっていた。毎日剣術の修行に明け暮れては、手厳しい𠮟責と絶え間ない攻撃を浴びせられた。オリヴィエはそのことに不満を感じたわけではなかったが、自分が父に肉親の情を感じられないのは、父の態度に原因があることにも気づいていた。


 とはいえ、父に対する親愛が皆無だったわけではない。自分を一人前の騎士として育ててくれた父には感謝していたし、師として敬意を払ってもいた。だから葬儀の場でも相応の哀しみを抱きはしたが、母のようにそれを態度で示すことはしなかった。

 その時の彼女はすでに名実ともに騎士であり、騎士である以上、人前で涙を流すことは恥ずかしいと考えていた。父の遺骸を前にしても涙一つ流さないオリヴィエを見て、他の親族はなんと冷淡な娘だろうと眉をひそめたが、オリヴィエは意に介さなかった。自分にこのような振る舞いを覚えさせたのは他ならぬ父であり、常に気丈な態度を示すことは父の遺志でもあるようにも思えたからだ。


 あれからすでに四年、父のことを思い出す機会も少なくなったが、それでもこうして父の話題に持ち出されると、何とも言えぬ感情がオリヴィエを襲った。それが哀しみなのか、寂しさなのか、自分でもよくわからない。ただ一つ確かなのは、父は今でも自分にとって偉大な師であるということだ。


「あなたのその剣はお父上の形見。そこにはお父上の意志が宿っているのかもしれませんね」ルドベキアが言った。

「剣を通して受け継がれた魂が、あなたに尋常ならざる力を与えている。それがあなたの強さの秘密なのでは?」

「父が私を鍛えたのは確かだが、それはあくまで生前のことだ。剣に父の霊魂が宿っているなど、そのような迷信に縋って自分の実力を騙るつもりはない」

「それは失礼いたしました。私が申し上げたかったのは、あなたがお父上に匹敵する強さを備えた騎士だということです。誰もあなたがお父上の威光に縋っているなどとは考えておりませんよ」

「そうか。だがあまり私を称賛するのは止めてくれ。私は未だ父の足元にも及ばぬ身。下手に賛辞を受けて慢心を招くわけにはいかないのでな」

「あなたに限って慢心などないと思いますが……まぁいいでしょう。随分と長くお引止めしてしまいましたし、今日のところはこれで終わりにしましょう。いずれまた、ゆっくりとお父上との思い出話などお聞かせください」

「ああ、いいだろう」

「それでは私はこれで。長く付き合わせてしまい申し訳ありませんでした」


 ルドベキアが一揖いちゆうして訓練場を辞去する。彼がいなくなった途端、訓練場に沈黙の帳が落ち、濃厚な闇が周囲を黒く染め上げていった。銀色のもやが草原に垂れ込め、漆黒の空には月が音もなく佇んでいる。清雅な光が地上を照らし、エリアル・ブレードの銀色の剣身を煌めかせる。


 オリヴィエはしばらくその場に佇んだ後、ゆっくりと剣に視線を落とした。ルドベキアとの会話を反芻はんすうする。父の霊魂がこの剣に宿っているなど、今まで考えたこともなかった。これが父の形見だということさえ、意識しなければ思い出さないくらいなのだ。


 だが、現役だった頃の父は、この剣を手に数々の戦場を渡り歩いていたと言う。父が剣を振るうたびに銀色の軌跡が煌めき、まるで風が舞踏しているようだと何度も囁かれてきた。銀色の刃を閃かせて戦う父の姿は敵味方問わず多くの騎士の耳目を集め、いつしか父は『銀風ぎんぷうの騎士』という異名で呼ばれるようになった。


 父が没し、遺品と共にエリアル・ブレードを引き取った時、細い剣身からは想像もつかない重みにオリヴィエは驚かされた。それまで彼女が使っていたのは父のお古の片手剣で、実用性を重視した軽くて扱いやすいものだった。だが、エリアル・ブレードは手にした瞬間にずっしりと肌に食い込むような重量感があり、使い慣れるまでに相当な時間を要した。それは剣自体の重さというよりも、父に託された多くの期待と責任が刃に込められた結果だったのだろう。


 その剣を手にした時、オリヴィエは誓ったのだ。自分は必ず父のような騎士になる。剣だけでなく、その異名をも受け継いだ立派な騎士になるのだと。


(蒼炎の騎士……。いかなる強敵であろうと、私が必ず打ち倒してみせる。私は父からこの剣を受け継いだ、『翠色すいしょくの騎士』なのだからな)


 オリヴィエは心の内でそう決意すると、静かに剣を鞘に納めた。

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