愛の残り香

 そうしてどれくらい時間が経っただろう。やがてイベリスは深々と息をつくと、そっとオリヴィエの身体を離した。オリヴィエは数歩後ろに下がって彼から距離を取った。


「……あなたの決意が固いことはよくわかりました。では、せめて名前を教えていただけませんか? この一夜の記憶を永久のものとするためにも……あなたの御名みなを心に刻んでおきたいのです」


 未だ熱を帯びた瞳が、狂おしい眼差しをオリヴィエに向ける。オリヴィエは少し逡巡したが、正直に答えてやることにした。


「……オリヴィエ。オリヴィエ・ミラ・グリュンヒルデだ」

「オリヴィエ……。騎士に相応しい、立派な名だ」


 吐息混じりに漏れたイベリスの笑みが、月光の下で浮かび上がる。

 青白く照らされたその微笑みは、どこか寂寥せきりょうを帯びて見えた。


「ありがとう、オリヴィエ。あなたのおかげで楽しい一夜を過ごせました。いつか……今宵のような美しい月の下で、あなたと再びまみえる機会があらんことを」


 ひざまずいてそう言いながら、イベリスがそっとオリヴィエの右手を取って接吻する。少し長すぎるくらい唇を押し当てた後、名残惜しそうに唇を離して彼女の手を見つめる。

 令嬢たちの華奢で滑らかな手とは似ても似つかない、傷と肉刺まめだらけの無骨な手。それでも彼は、これまでに見たどんな手よりもその手を美しいと思った。




 イベリスはしばし彼女の手を見つめた後、やがて名残惜しそうに手を離して立ち上がった。今一度オリヴィエの方を振り返り、心境に変化がないかを表情から読み取ろうとする。だが、すでに騎士の心を取り戻した彼女の面を見て、徒花あだばなに過ぎないことがわかったのだろう、息を漏らして寂しげに微笑むと、踵を返して庭園を後にした。








 オリヴィエは放心したようにその場から動けなかった。イベリスとの間に起こったことが、彼からかけられた言葉の数々が、まるで現実のものとは思えなかった。


「あ、オリヴィエ! こんなところにいたのね!」


 背後から知った声が聞こえ、オリヴィエは急いで振り返った。アイリスが息を切らしてこちらに走ってくる。


「もう、オリヴィエったらどこへ行ってたの? 広間にいないから心配してたのよ!」


 アイリスが両手を振り下ろしてオリヴィエに詰め寄る。どうやら本当に心配してくれていたようだ。申し訳なさが込み上げると同時に、少しだけ心が温められていく。


「……申し訳ありません。少し、外の空気を吸いたくなってしまって……」


「それなら一言言ってくれればよかったのに。私、ずっとあなたのこと探してたのよ? あなたが怒って帰っちゃったのかと思って」


「私が怒った? なぜです?」


「ほら、私、お客様のお相手をするのに忙しくて、あなたの相手を全然してあげられなかったでしょう? あなたがあぁいう場は苦手だってわかってるんだから、もっと一緒にいてあげるべきだと思ったのよ」


「賓客をもてなされるのは当然でしょう。従僕に過ぎない私が怒る道理などない」


「そうだけど……騎士の人にもいろいろ言われてたみたいだったから心配だったの。ねぇ、嫌な気持ちにならなかった?」


 ならなかった、と言えば噓になる。だが、真実をつまびらかに伝え、主人に不快な気を起こさせようとも思わなかった。


「……まぁ、私のことはいいでしょう。それよりも、客の方々はもう帰られたのですか?」

「ええ、先ほど全員帰られたわ。帰る前にお庭を見ていきますかって勧めたんだけど、皆さんお疲れだったみたいで、まっすぐ馬車の方に向かわれたわ」


 馬車が停めてある門は庭園とは反対側にある。だから誰もこちらには来なかったのだろう。あの場面を見られなかったことにオリヴィエは心底安堵した。


「ねぇ、それよりオリヴィエ、あなた退屈じゃなかった? ずっと一人でいたみたいだし……やっぱり出なきゃよかったって思ってない?」


 アイリスが心配そうに尋ねてくる。貴族たちの相手をしながらも、この女主人はずっと自分のことを気にかけてくれていたのだ。それだけでオリヴィエの心は慰められ、ズオウ達に投げられた言葉の刃など物の数ではないと思えた。


「いえ……そうでもありません。私もささやかながら楽しませていただきました」

「あら、あなたがそんなこと言うなんて珍しいわね。何かいいことでもあったの?」


 アイリスが目をぱちくりさせてオリヴィエを見つめてくる。確かに普段の自分ならば、お世辞でも社交の場が楽しかったなどとは口にしないだろう。だが、今夜は――。


「それについては、いずれまたお話することに致しましょう。今夜は私も少々疲れました。できればこのまま宿舎に帰り、眠らせていただきたい」

「そうね。あなたには慣れないことさせちゃったものね。いいわ、今日は早めに休んでちょうだい。舞踏会のことはまた今度ゆっくり聞かせてもらうわ」


 アイリスがにっこり笑い、おやすみなさいと言って手を振りながら広間の方へ駆けて行く。次第に小さくなるその姿を見つめながら、オリヴィエは一人考えた。


(……私は騎士だ。騎士として護るものがある以上、私の心が変わることもない)


 忘れかけた鼓動が胸を鳴らす。それは、オリヴィエが騎士として生きることを決めた瞬間、とうに捨て去ったはずの感情だった。オリヴィエ自身、今の今まで、自分の中にそんな感情があったことを忘れていた。


 だが、胸を押さえずとも聞こえる確かな鼓動は、彼女の中で未だその感情が失われていないことを示していた。


(……あれは一晩のたわむれに過ぎん。あの方にとっても、私にとっても……。色事など、騎士にとってはかせでしかないのだからな)


 空は未だ濃紺に染まり、慈雨のような月の光が庭園を優しく照らしている。吹き抜ける風が薔薇の香りを乗せ、オリヴィエの翠色の髪をそよと揺らす。


 彼女の決意とは裏腹に、彼が触れた手の温もりが、未だそこに残っている気がした。




[第三章 月夜の宴は愛の芽吹き 了]

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