月下の舞

 イベリスの足がゆっくりと前に踏み出される。ダンスが始まったのだ。少しだけ空いた広間の窓からバイオリンの物悲しい旋律が聞こえ、次いでピアノが優しい音色を届けてくる。確かセレナーデという曲だ。以前アイリスから聞いたことがある。満月の夜に相応しい、恋人たちが愛を囁き合う曲。


 頭上から差し込む月光が、スポットライトのようにイベリスの姿を照らし出す。彼が顔を動かすたびに光が異なる陰影を作り出し、彼の顔を物憂げにも、神秘的にも見せていた。紺碧の瞳は光の加減によっては濃紺にも見え、時折月光を受けて煌めく様は、移りゆく夜空をその身に宿しているかのようだ。群青色の頭髪が彼の動きに合わせてさらりと揺れ、同時に柔らかな香りが鼻腔を突く。オーデコロンのような人工的な香りではない。甘やかな花の匂いだ。


 イベリスはダンスが上手だった。オリヴィエがどれほどぎこちない動きをしていても、彼はすぐさま彼女の動きを察知し、それとわからぬ程度にリードしてくれた。時折、彼が前に踏み出したのにオリヴィエが後ろに引くことを忘れ、彼に抱かれるような格好になって決まり悪くなったこともあった。そんな時もイベリスは落ち着き払い、自分が一歩引いて何事もなかったかのようにダンスを再開した。その態度はあくまで礼儀正しく慎ましやかで、差し出がましいところは一つもなかった。


 最初は居心地の悪い思いをしていたオリヴィエも、いつの間にか自然とイベリスに身を委ねられるようになっていた。腰に回された彼の手に淫靡いんびさは少しもなく、むしろ陶器でも扱うかのように丁重に、優しく抱いてくれた。


 そんな風に異性に触れられたことがなかったので、オリヴィエはどんな顔をして彼を見ればいいかわからなかった。薄いドレス一枚で隔てられた肌の上に、硬くたくましい男の手が乗っている。そのことを意識すると、自分がひどく無防備になった気がした。


「あなたのそのドレスは実によくお似合いですね」


 不意にイベリスが言った。オリヴィエは顔を上げて彼の方を見た。イベリスの視線がドレスに注がれている。決してみだらな眼差しではないのに、オリヴィエはまるで自分が裸にされたような気分になった。


「ええ。あまりにも無粋なデザインなので、これまで誰も着る機会がなかったほどです。であればこそ、私のような陰に生きる人間にも似合うのでしょう」

「私はそんな話をしているのではありません。余計な装飾を取り払えばこそ、かえって本来の美しさが際立つもの。その漆黒の色は、あなたの髪をそれは美しく見せていますよ」


 オリヴィエは咄嗟に髪を右耳にかけた。露になった耳元で、ダイヤのイヤリングが小さく揺れる。

 イベリスはふっと微笑むと、そっと右手を伸ばしてオリヴィエの髪に触れた。竪琴たてごとを奏でるように、指先が優しくオリヴィエの髪をく。アイリス以外の人間に髪に触れられたことはなかったが、不思議と不快には感じなかった。


 イベリスはオリヴィエの髪をしばらく撫でた後、再び彼女の手を取ってダンスを再開した。窓辺から聞こえる音色が賑やかなものに変わっている。ワルツだ。イベリスの動きも先ほどより軽快になり、オリヴィエの片手を持ち上げてはくるりと身体を回す。風がオリヴィエの髪をなびかせ、ドレスが漆黒の炎のように揺らめく。それはあたかも自然界の物質が共演を繰り広げているようで、オリヴィエは我知らず高揚感を味わっていた。


「あなたはダンスがお上手ですね。普段からよく舞踏会に?」イベリスが感心した表情で尋ねてきた。


「いや、ダンスを踊るのも、舞踏会に出るのも今日が初めてです。それも急遽きゅうきょ決まったことで、本来ならばダンスなど踊る機会はまずないと言っていい」


「そうですか。ですがあなたの動きを見ていると、とても今日が初めてとは思えませんね。私の動きにきちんと合わせてくださっている」


「それはあなたのリードがお上手だからだ。私の動きを察知し、次の動きを的確に指示してくださる。これまで多くの女性を相手にしてこられた経験が活きているのでしょう」


「私が多くの女性と踊ってきたことは否定しません。ですが、今晩のダンスはそのどれよりも素晴らしい。あなたとこうして踊っていると……めくるめくような感覚が身体中を駆け抜けていく。名前も身分も忘れて、ただこの時間に陶酔していたいと願う……。こんな経験は初めてです」


「それは光栄だ。ですが、私と踊る機会は二度とないでしょう。本来であれば、私はこの場に参加することを許されぬ身。あなたと会うことも、これで……」


 腰に回されたイベリスの手に不意に力がこもる。次の瞬間、最初よりもずっと強い力でオリヴィエは彼の胸に引き寄せられていた。当惑して顔を上げると、イベリスの紺碧の瞳が自分を覗き込んでいた。静かな光を湛えていたその眼差しが、今は熱を帯びて見える。


「……本当に、もうお会いすることはできないのでしょうか?」


 囁きと共に漏れた吐息が、オリヴィエの頬に熱くかかる。冷静だった物腰の中に一瞬、嵐のような荒々しさがよぎった。


「……あなたを一目見た瞬間から、私の中で何かが変わった。あなたは他の女性とは違う。あなたのような女性には、この先二度と出会うことはない……。そう考えると、湧き上がる感情をどうにも抑えられそうにないのです。できることなら、このままあなたを連れ去り、どこか遠くへ行ってしまいたい……。そう願うのは罪でしょうか?」


 オリヴィエは何と答えればよいかわからなかった。至近距離で異性に見つめられることも、熱情的な愛の言葉を囁かれるのも初めてだった。咄嗟に顔を背けようとするが、そのたびに彼の手に引き戻された。切なさを湛えた眼差しが、一心に自分を見つめている。こんな時、兜があったらどんなにいいだろう。そうすれば彼に顔を見られずに済む。経験したことのない事態を前にした困惑と、自分の内から不意に湧き上がった、彼に応えたいと願う本能を悟られずに済む。


 いつしか広間の演奏は止み、盛大な拍手が聞こえてきた。どうやら舞踏会が終わったようだ。早く彼から離れなければ、貴族たちにこの場面を見咎められてしまう。だが、イベリスの手は緩まるどころか、むしろたぎる情熱を抑えきれないようにオリヴィエの腰を搔き抱いている。自分が何か返事をしなければ解放してくれそうにない。


 オリヴィエはしばし瞑目した後、やがて吐息混じりに言った。


「……身に余る好意を示してくださったことには感謝を申し上げます。ですが、その好意に私は応えられそうもない」


「なぜです? もし、家柄のことを心配しておられるのであれば心配は御無用です。私は自分の身分には露ほども興味がない。必要とあらば、勘当されてでもあなたと共に生きる道を選びます」


「あなたは私を知らないからそのようなことが言えるのです。私は……そう、騎士だ。常に戦いの只中にあり、血と肉の中で生きることを定められた身。あなたのような華やかな世界に身を置く人間と共に生きる術はない」


「なぜ、そうまでして騎士の道にこだわるのです? あなたはこれほどまでに美しいのに、女性としての幸せを得ようとなさらない。なぜ男の中で生きようとするのです?」


「それが私の定めだからです。私は生まれながらにして騎士であることを義務づけられていたが、それを不本意に思ったことはありません。騎士であることは私が選んだ道であり、その道を全うするためなら、他の何を捨てても惜しくはない。あなたの言うような幸せなど、私にとっては無用の長物に過ぎません」


「では、私のことは……?」


「あなたに不要な恋情を抱かせてしまったことは申し訳ない。だが、何を言われても私の心は変わらない。私は騎士だ。騎士である限り、あなたの恋情に応えることはできない」


 オリヴィエの真意を探るように、イベリスがじっと瞳を覗き込んでくる。オリヴィエはまっすぐにその目を見返した。身にまとう鎧や兜はなくとも、その時の彼女はすでに騎士に戻っていた。

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