白薔薇の貴公子

 広間を出て、オリヴィエはそのまま渡り廊下を通って庭園へと歩いて行った。幸い、警備の騎士はおらず、オリヴィエは誰にも姿を見られずに済んだ。こんな悄然しょうぜんとした顔をしているのを見られたらどんな揶揄やゆを浴びるかわからない。


 庭園には誰もいなかった。中央に佇む噴水からは静かな音を立てて飛沫が上がり、さぁさぁという水音が雨のように心地よく静寂を埋めていく。水蒸気は白いもやとなって垂れ込め、ヴェールに包まれたような空間はどこか幻想的な雰囲気を漂わせている。庭の隅では白い薔薇が大輪を咲かせ、月光を浴びて花弁が輝く姿は純白の衣をまとった乙女のようだ。その姿は清らかでありながらも、立ち上るかぐわしい香りが同時に妖艶ようえんさをも内包していて、まるで少女が大人の女性へと変化する様をその身に体現しているようだ。


 オリヴィエは庭園を見回した。薔薇の咲き乱れる庭園は、密事を交わした男女の逢引きに相応しい場所のように思えたが、意外にも周囲に人の気配はない。皆、舞踏会の熱に浮かされ、ほとばしる熱情の中で愛を確かめ合う方を選んだのかもしれない。ならば好都合だ。


 安堵の息をつきながら、オリヴィエは噴水に腰を落ち着けた。天を仰ぐと、濃紺の空に佇む満月が地上に優しい光を投げかけている。その光に心を洗い清められながら、オリヴィエは先ほど見た光景について考えた。


 舞踏会で大勢の男に囲まれるアイリス。それは彼女が人々から愛でられている何よりの証拠であり、自分はそんな主人を誇りに思うべきだ。それは理解している。

 だが、実際にオリヴィエの内側にくすぶっているのは誇りではなく、もっと低劣な感情だった。屈辱、悲憤、そしてそねみ――。自分の中にそんな下劣な感情があることをオリヴィエは認めたくはなかったが、だからといって他に説明する言葉を見つけられそうもない。


(無様なものだな……。性別一つで、これほど精神をろうされようとは)


 騎士の同僚にどれほど侮辱を浴びせられても、自分の存在に疑問を感じたことなど一度もない。自分が女であることは間違いなく、かといって女らしくない生き方を選んだことを恥じる気持ちもない。むしろ、性別という一点のみを理由に自らの優位性を主張する男の愚劣さを軽蔑し、自分がそうした愚かさと無縁でいられることを喜んでいた。だのに、主人が男に囲まれている姿を見ただけでこれほど心が搔きむしられるのはどうしてだろう。


(……私はあの方の騎士だ。他の男とは違い、常にあの方のお傍にいることを許された身。だが……一方で、ダンスのパートナーとして、あの方が私の手を取ることは永久にない。最初から、承知していたことだというのにな……)


 鬱屈とした感情と共に、口から深々と吐息が漏れる。こんな思いをするくらいなら、最初から舞踏会など出るべきではなかったのだろうか。我が身を包む衣が鎧であれば、たとえ男に囲まれるアイリスの姿を見たとしても、自らの特権を思い起こして恥辱に耐えることもできただろう。


 だが、今身体を覆うこの忌々しいドレスは、自分が決してアイリスの本物の騎士にはなれないという現実を突きつけてくる。薄手の生地の下にある胸の膨らみや、丸みを帯びた尻の曲線が、自分が一切望んでいないにもかかわらず、天が自分に与えたものの存在を思い出させてくる。


 オリヴィエにとってドレスとは、自分を美しく見せるための衣装ではなかった。


 それは、変えようのない現実を知らしめる、決して脱ぐことを許されない鎧に過ぎなかった。




 しばらく物思いに耽った後、やがてため息をついてオリヴィエは立ち上がった。夜は冷える。こんな薄い衣服でいつまでも外にいたら風邪をひいてしまうだろう。かといって広間に戻る気もせず、オリヴィエはこのまま宿舎に帰ろうと考えた。一刻も早く自室に戻り、この忌々しいドレスを脱ぎ捨てて本来の自分に戻りたかった。

 アイリスの話では、確か舞踏会の最後にも全員で踊るダンスがあったはずだが、オリヴィエはもはやそれに加わる気にはなれなかった。自分が広間を後にした時点で、舞踏会はすでに十分すぎるほどの熱気を見せていた。自分一人がいなくなったところで大した影響はないだろう。オリヴィエはそう自分を納得させて早々と庭園を後にしようとした。


「……失礼、舞踏会に参加されている方でしょうか?」


 不意に背後から声をかけられてオリヴィエは振り返った。薔薇の茂みの間に男が立っている。長身を白い夜会服で包み、手には絹製らしい白い手袋を嵌めている。ジャケットの胸ポケットからは赤いハンカチーフがわずかに覗き、花をかたどった金色のブローチが襟元を飾っている。黒い革靴は新品のようにぴかぴかに磨き上げられ、泥一つ付いていなかった。群青色の頭髪は月光を浴びて天使の輪を描き、切れ長の瞳は海のように深い紺碧を湛えている。


 オリヴィエは目を眇めてその男を見つめた。服装からして舞踏会の招待を受けた貴族だろうが、広間にいた男の中に白い夜会服を着た人間はいなかったはずだ。それに、目の前にいる男はかなりの伊達男で、もし広間にいれば令嬢たちがもっと騒いでいたはずだ。


「そうだが、あなたは? 広間では姿をお見かけしなかったように思えるが」

「ええ、直前に急用が入ってしまいまして。先ほど片がつきましたので、急いで参上した次第でございます。私の名はイベリス・フォン・ブラウシュベルト。どうぞお見知りおきを」


 イベリスと名乗った男が胸に手を当てて恭しくお辞儀をする。オリヴィエもぎこちなく膝を折ってそれに応えた。


「舞踏会の会場は広間です。そこの渡り廊下を歩けばすぐだ。あなたが姿を見せれば、令嬢方もさぞお喜びになるでしょう。早く行って差し上げるといい」

「いいえ、私は舞踏会そのものにさして関心はないのです。誰も彼もが自身を着飾ることに執心し、見栄を張り合うだけの空間に辟易へきえきしていましてね。ただ、王家直々のご招待を断るのも失礼千万ですから、ご挨拶だけは差し上げに来た次第でして」

「であれば、挨拶だけ済ませてお帰りになればよろしいでしょう。最低限の礼節を果たせば、不本意な場に長時間留まる理由はないはずだ」

「ええ……私もそのつもりでした。ですが、あなたとお会いして気が変わったのですよ」


 イベリスが不意に微笑みを浮かべてオリヴィエの方に一歩近づいてくる。オリヴィエは警戒した表情で身を引いたが、自分の前に差し出された手を見て目を瞬いた。


「何を……?」

「私と踊っていただきたいのです。今、この場で。我々だけで」


 かけられたその言葉が信じられず、オリヴィエは瞠目どうもくしてイベリスを見つめた。てっきりからかわれているのかと思ったが、彼の表情は優美ながらも至って真剣だった。


「だが、なぜ私に……? 美しい令嬢をご所望なら、広間に行けば何人もおられる。私のような見窄みすぼらしい女を誘う道理などないでしょう」

「私は貴族のご令嬢に興味はありません。あの方々は自分を飾り立てることに必死になるばかりで、他の物事にまるで目を向けようとしない。

 ですが、あなたは違う。あなたは他の令嬢にはない、何か特別な輝きを放っておられる。身にまとうものだけでは図ることのできない、唯一無二の輝きを……。それが私を惹きつけてやまないのです」


 イベリスの手が誘いかけるように伸ばされる。オリヴィエは無言でその手を見つめていたが、すぐにゆっくりとかぶりを振って彼に背を向けた。


「……あなたは私を誤解しておられるようだ。私が他の女性と違うのは事実だが、それはあなたがおっしゃるような輝きゆえではない。私の生きる世界に光などない。争いと血、中傷と妬心。それが私の世界の全てだ。輝きなど、望むべくもない」


 胸の内からこみ上げる虚しさを押し戻しながら、オリヴィエは抑えた声で呟いた。そのまま庭園を後にしようとするが、背後から誰かの手がそっと右肩に触れた。うなじの辺りに吐息がかかり、染み渡るような低音が耳元に響く。


「……では、私があなたの持つ輝きを呼び覚まして差し上げましょう。大丈夫、怖がることはありません。全てを私に任せてくださればそれでよいのです」


 脳を麻痺させるような甘い囁き。それを耳にした瞬間、未だ経験したことのない、総毛立つような感覚がオリヴィエの全身を貫いた。得体の知れないその感覚から逃れようと咄嗟に駆け出そうとするが、それより早くイベリスの手が左肩にも伸ばされた。そのままくるりと身体が回され、イベリスの方に向き直らされる。ただ肩に触れられているだけなのに、まるで全身の自由が奪われたような感覚があった。


 イベリスは悠然と微笑むと、オリヴィエの両肩から手を離し、代わりにそっと彼女の右手を取った。左手を彼女の腰に当て、そっと自分の方に引き寄せる。


 オリヴィエは抵抗しなかった。なぜか彼の前にいると、自分が急に無力な小娘になったような気がした。

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