宴の影

 二人が到着すると、すでに広間は貴族で埋め尽くされんばかりになっていた。誰も彼もが立派な衣装を身にまとい、男はその威風堂々いふどうどうたる姿を見せつけるように背筋を伸ばし、女は優雅さを演出するようにドレスの裾を揺らして歩いている。部屋の両脇に並んだ長テーブルには白いテーブルクロスがかけられ、料理人が腕を振るった絶品が所狭しと並べられている。前方ではオーケストラが調律を始め、物悲しい弦の旋律が広間の空気を震わせている。誰もがこの舞踏会に期待を懸け、最高の一夜にしようと尽力している様子が窺えた。


 広間に入るや否や、貴族たちが一斉にアイリスに近づいてきて、オリヴィエは人の波に押されて脇に追いやられた。貴族たちはアイリスに招待の礼を述べた後、今日の彼女がいかに美しいかを言葉を尽くして伝えた。アイリスは笑顔でそれに応えてやりながら、一人一人に対して心の籠もった謝意を述べた。


 オリヴィエはその様子を遠巻きに見つめながら、これ以上主人と共にいることはできなさそうだと考えた。その可憐な容姿と、誰にでも分け隔てなく接する性格ゆえ、アイリスが貴族からも慕われていることは知っている。彼らはこの機会を利用し、自分たちが賛美する姫と少しでも近づきになりたいと考えているのだ。一介の騎士に過ぎない自分にそれを阻む権利はない。


 オリヴィエは小さくため息をつくと、アイリスから離れて壁際に移動した。






 その後間もなく舞踏会が始まったが、それはオリヴィエにとって愉快な時間ではなかった。


 一人で所在なくしているオリヴィエに、貴族の令嬢たちは無遠慮な視線を向けてきた。彼女たちはオリヴィエのドレスをじろじろと眺めた後、扇で口元を隠して囁き合い、時折忍び笑いを上げた。きっと衣装が地味なことを笑っているのだろう。


(ねぇ、あの人のドレスをご覧になって。レースもひだも何も付いていないわ)

(しかもよりによって黒だなんて。せっかくの舞踏会なのに陰気だわ。他に着るものがなかったのかしら)


 そんな令嬢たちの蔑みが聞こえてくるようで、オリヴィエは足早にその場から離れた。


 次いでオリヴィエは広間の西側に移動したが、そこはズオウとその仲間が警備をしている場所だった。彼らはオリヴィエの姿を見ると意地悪そうな笑みを浮かべて言った。


「よう、オリヴィエ。そのドレス、なかなか似合ってるじゃないか。そのまま娼館に出入りしてても違和感がねぇや」

「何なら後で買ってやってもいいぜ。いくらだ? お前のその成りじゃあせいぜい百ベリル(※)が相場だな」


 ズオウ達が口々に言って下卑た笑いを上げる。オリヴィエは咄嗟にグラジオの姿を探したが、彼は別の場所の警護を監督しているらしく、付近に姿は見られなかった。

 オリヴィエは唇を引き結んで屈辱に耐えると、彼らに背を向けて足早に広間を突っ切って行った。






 そんな調子で不愉快な時間が過ぎる中、舞踏会自体は滞りなく進んでいった。


 広間はどこもかしこもダンスに興じる男女の姿で埋め尽くされ、誰も彼もが甘美な一時を堪能していた。先ほどオリヴィエを嘲笑していた令嬢たちも、今は自分のパートナーをうっとりと見上げ、少しでも自分が魅力的に映るようにと様々なポーズを取っている。ズオウとその仲間たちは令嬢の姿に見惚れ、彼女たちが近づいてくると恭しく礼をして道を譲った。


 舞踏会の開始から数十分が経った頃、オリヴィエは広間の隅にある椅子に腰掛けて会場の様子を眺めていた。


 肝心のダンスについては、お世辞にも成功したとは言えなかった。だがそれは、オリヴィエではなく相手の男の方に問題があった。その男は人前で踊ることに慣れていなかったらしく、緊張で顔を真っ赤にして、三十秒に一回はオリヴィエのつま先かドレスの裾を踏んづけて一人で転ぶ有様だったからだ。おかげで周囲の失笑は全てその男が引き受けてくれ、オリヴィエ自身は醜態しゅうたいを晒さずに済んだ。


 一曲目を終えた後は当然のようにパートナーを解消し、相手の男は一人で食事のテーブルに向かった。ダンスを楽しむのは諦めたようだ。その後も彼女に声をかけてくる者はいなかったため、オリヴィエはようやく人心地ついて傍観を決め込んでいるのだった。


「……疲れたか? オリヴィエ」


 横から声をかけられてオリヴィエは顔を上げた。大柄な身体に立派な夜会服をまとった男が自分の隣に立っている。この舞踏会の主催者である国王、ゼラだ。


「陛下……。私ごときの体調をおもんぱかってくださるとは、誠に幸甚にございます」オリヴィエが立ち上がりながら恭しく頭を下げた。

「慣れない場ゆえの気苦労はありますが、警備の緊張感に比べれば易いこと。陛下のお気を煩わせるまでもありません」

「ならばよいがな。娘が無理を言ったのではないではないかと心配しておったのだ。アイリスは時々突拍子のないことを言い出すからの」

「確かに驚きましたが、それも賓客の皆様にご不快な思いをさせたくないという姫様の御心の現れ。私ごときが無碍むげにするわけには参りません」

「そうか。お前は相変わらず義理堅いな、オリヴィエ。お前が傍にいることで、わしも娘も大変助かっておる。改めて礼を言わせてくれ」


 ゼラが白髭に覆われた口元を緩めて一揖いちゆうする。オリヴィエも深々と礼を返した。


「それよりも、陛下はここにいらっしゃってよろしいのですか? カトレア殿下のお相手をなさる必要があるのでは?」

「あぁ……いや、わしは少し疲れてしもうてな。六十を過ぎた身にダンスは堪える。あれなら一人で楽しんでおるから問題はない」


 ゼラが肩を揉みながら前方に視線をやる。オリヴィエがつられてその方を見ると、広間の真ん中で若い男と踊っているカトレアの姿が目に入った。カトレアは身体のラインがはっきりとわかる濃紺のドレスに身を包んでおり、ローカットの胸元から豊満な胸が惜しげもなく晒されている。ドレスはスリットが入ったデザインで、彼女がステップを踏むたびに白い脚線美が覗き、周囲の男の視線を釘付けにしていた。蠱惑こわく的な微笑を湛え、しなやかに腰を振るその姿はぞっとするほど艶めかしく、彼女の前では令嬢たちの姿もくすんでしまっていた。


「あれはダンスが好きでな。何週間も前からこの日のために準備を進めておったのだ」ゼラが言った。

「特に招待客の選定には念入りでな。貴族の中でも、若い子息のいる家を率先して招くようにと所望していた。おかげで今晩は美丈夫揃いだな」


 ゼラが憂鬱そうにため息をつく。その間にもカトレアは相手の男の腕にしなだれかかり、少し大袈裟なくらいに身体をくねらせていた。腰に回された男の手が遠慮がちに下に伸ばされるが、カトレアは拒否する素振りを見せず、むしろ誘いかけるように身体を密着させていく。


「……陛下はよろしいのですか? 公衆の面前であのような放埒ほうらつな振る舞いなど……」


 オリヴィエが嫌悪感を隠せずに眉を潜める。だが、ゼラは悲しげにかぶりを振った。


「……わしではあれを満足させることはできん。わしのような老いさらばえた男が後妻を見つけるのは容易ではないが、アイリスにはどうしても母親が必要であった。あれはわしが老体であることを承知で、わしの妻になることを決めたのだ。多少の奔放な振る舞いは多めに見てやらねばならん」

「ですが、あの方がアイリス様の母君として相応しいとは思いません。王家の品格を貶めるような振る舞いが、アイリス様の将来に影を落とす可能性もあるのでは?」


 ゼラがゆっくりと視線を向けてくる。オリヴィエは自分の失言に気づき、表情を険しくして頭を垂れた。


「……出過ぎたことを申し上げました。此度の御無礼、お許しください」

「いや、構わぬ。お前の憂いももっともだ。だがオリヴィエ、わしがあれを妻として選んだこともまた事実なのだ。あれの心根がどうであろうと、わしはカトレアを愛しておる。そのことは忘れんでもらいたい」

「はい、肝に銘じます」


 オリヴィエが今一度頭を垂れる。ゼラはため息混じりに頷くと、オリヴィエに背を向けて広間から出て行った。しばし休息を取るつもりなのだろう。


 その時、後ろから賑やかな声が聞こえてオリヴィエは振り返った。視線の先にはアイリスがいた。ちょうどダンスを踊り終えたところらしく、息を切らしながらも満足げな笑みを浮かべている。相手の男はぜひもう一曲をとせがんだが、他の男が次は自分だと声を上げ、パートナーの座を巡って小競り合いが起きていた。アイリスは急いで彼らの間に割って入り、皆さんと順番に踊りますからと言って宥めていた。


 多数の男性に囲まれるアイリスの姿をオリヴィエは遠巻きに見つめながら、なぜかちくりと胸が痛むのを感じた。彼女が自分一人だけの存在ではない。その事実を思い知らされた気分だった。姫付きであればこそ自分は彼女の傍にいることを許されているが、その任を離れてしまえば代わりなどいくらでもいる。自分は彼女の騎士ではあっても、彼女のパートナーにはなれないのだから。


 オリヴィエはしばし視線を落としていたが、やがて踵を返すと、ゼラが出て行ったのと同じ扉を通って広間を後にした。


 もうこれ以上、一秒たりともアイリスの姿を見ていられそうになかった。




※1ベリルは約10円。ここでは1000円の意。

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