指先の約束

 あれはそう、自分がまだ姫付きを拝命する前のことだ。当時のオリヴィエは十三歳で、騎士になるための修行を積んでいる時期だった。自宅の庭で昼夜を問わず訓練に励むオリヴィエの元に、ある日一人の客が現れた。それがアイリスだった。


『こんにちは、私、アイリス! あなたがオリヴィエね。お父様から聞いたけど、とっても綺麗な髪をしてるのね!』


 生け垣から身を乗り出してそう言った少女が、まさか一国の姫だとは夢にも思わなかった。オリヴィエが警戒しながら頷くと、アイリスは身軽に生け垣を乗り越え、オリヴィエの元に駆け寄って言った。


『私、髪結いに付き合ってくれる人を探してるの。ねぇ、あなたの髪を結ってもいい?』


 聞けばアイリスは、侍女から街で流行している髪型の話を聞き、自分でも試してみたくなったのだと言う。だが、自分の髪では上手く結えなかったため、まずは人の髪で練習することにしたのだとか。


『侍女は忙しいから付き合ってくれないし、お城には他に女の子がいないの。それでお父様に相談したら、あなたを紹介されたのよ』


 当時、オリヴィエの父は花騎士団の重鎮じゅうちんとして国王から重宝されていた。その関係でゼラはオリヴィエの存在を知っていたのだろう。話を聞いたオリヴィエは、そこでようやく彼女が姫であることを理解し、姫のご用命ならばと城に同行したのだった。


 そこで不意に窓の外から月光が差し込み、オリヴィエの追想を断ち切った。鏡越しに視線をやると、アイリスは未だ慈しむようにオリヴィエの髪を撫で続けている。自分のこの髪が彼女との出会いを紡いだのだと思うと、オリヴィエは不思議な心地がした。


「ねぇ、オリヴィエ、あなたの髪を結わせてくれない?」


 アイリスが出し抜けに言った。追想の中でその言葉を聞いたばかりのオリヴィエは、目を瞬かせてアイリスを見返した。


「あなたの髪を触っていると……昔のことを思い出して。久しぶりに結ってみたくなったの。ね、いいでしょう?」

「構いませんが……ご自分の髪を結われた方がいいのではないですか? あれだけ練習されたのだから、今なら難なくできるでしょう?」

「ええ。でもね、私はあなたの髪を結いたいの。あなた、普段は下ろしてるか一つに結んでるかのどっちかだし、たまには違う髪型を試してもいいと思うの」

「凝った髪型をしたところで、兜を被ってしまえば誰の目にも触れはしません。それに、私の髪型になど誰も興味はないでしょう」

「あら、そんなことないわ。私は見たいわよ? あなたの新しい髪型」


 アイリスが悪戯っぽく笑ってオリヴィエを見つめる。オリヴィエは軽く息をついた。


「わかりました。それで? 今日はどんな髪型を試されるおつもりですか?」

「今日はね、ギブソンタックっていう髪型をしてみたいの。貴族の女性の間で流行っているアップスタイルの髪型なんだけど、すごく上品に見えるんですって。ちょっと待ってね、今写真を持ってくるから……」


 アイリスはそう言って部屋の奥に駆けていき、抽斗ひきだしを開けて目当てのものを探す。オリヴィエはその姿を見つめながら、再び十年前の追想に身を委ねた。


『まぁ、素敵! とっても綺麗よ、オリヴィエ』


 完成したオリヴィエの髪型を見て、九歳のアイリスが感嘆の声を上げる。差し出された手鏡に視線をやると、右サイドの髪を綺麗に編み込んだ女と目が合った。


『さっきよりずっと女性らしいわ。ねぇ、これからずっとその髪型でいたらどう?』

『いえ、私には必要ありませんよ。私は剣を振るうのが仕事ですから』

『そう? 残念ね、すごく似合ってるのに……』

『見た目の美しさなど、騎士には無用の長物です。御用が済んだのであれば、これで失礼させていただきます』


 十三歳のオリヴィエは冷淡に言うと、一礼して部屋を出ようとした。新しい髪型への執着は少しもなく、城を出ればさっさと解いてしまうつもりだった。


『待って、オリヴィエ。これからもあなたの髪を結わせてくれない?』


 アイリスが呼び止めた。扉に手をかけていたオリヴィエが足を止める。


『私……あなたの髪が好きなの。あなたのその長い髪が。ずっと触れていたいくらい』


 アイリスはそう言うと、オリヴィエに近づいてきてそっと彼女の毛先に触れた。触れるのを怖れるような、それでいて触れずにはいられない、震える指先。


「あ、あったわ!」現実のアイリスが急に声を上げた。

「ふうん。写真で見ると簡単そうだけど、実際はどうなのかしら。ね、オリヴィエ、こんな風に結ってもいい?」


 写真を手にアイリスが振り返って尋ねたが、オリヴィエは返事をしなかった。アイリスの方に視線を向けてはいるものの、その目はどこか遠くを見つめているようだ。


「どうかしたの? オリヴィエ」


 アイリスが声をかけると、オリヴィエははっとして顔を上げた。すぐにいつもの真面目な顔になって答える。


「あぁ……これは失礼しました。少し考え事をしていたもので」

「そう。珍しいわね、あなたがぼんやりするなんて。よっぽど大事なことなの?」

「ええ……まぁ。それよりも写真は見つかったのですか?」

「ええ、あったわ! ほらこれ、素敵でしょう?」


 アイリスが笑顔で写真を見せてきた。後頭部の下辺りで髪をまとめた女性の後ろ姿が写っている。


「今度の舞踏会にこの髪型をして行きたいから、今のうちに練習しておきたいの。ちょっと時間がかかるかもしれないけど、付き合ってくれる?」

「構いませんよ。夜は特に用事はありませんから」

「そう。じゃ、始めるわね。上手くできるといいんだけど」


 アイリスはふうっと息をつくと、ドレスの袖をたくし上げてそっとオリヴィエの髪に触れた。テーブルに置いた写真との間で視線を左右させながら、ゆっくりと髪をまとめ上げていく。オリヴィエはされるがままになりながら、追想の最後の場面に思いを馳せていた。


 十年前のあの日、アイリスからこれからも髪を結わせてほしいと頼まれたオリヴィエは、最初は断ろうと考えた。自分は騎士を目指す身であり、女子の戯れに付き合う道理はない。

 だが、自分を見上げるアイリスの切なげな眼差しと、髪から伝わる彼女の手の温もりを感じているうちに考えが変わってきた。


『……わかりました』


 やがてオリヴィエは言った。口元を少しだけ緩め、声色を和らげて続ける。


『今日からこの髪はあなたのもの。お気に召すまで触っていただいて構いませんよ』

『まぁ……嬉しい』アイリスが表情を綻ばせた。

『それじゃ、ここで一つ約束して。私がいいって言うまで髪を切っちゃ駄目。あなたが髪を切るのは、私がいなくなった時。わかった?』

『いいでしょう。あなたのお傍を離れない限り、髪は切らないと約束しましょう』

『ふふ、よかった。じゃ、約束の証拠に指切りしましょ?』


 幼いアイリスが無邪気に言い、左手の小指を立てて差し出す。少しでも握ったら折れてしまいそうな、つくしのような可愛らしい小指。

 

 オリヴィエはその小さな指先を見つめた後、自分も静かに右手の小指を差し出した。




[第二章 たなびく髪は誰がため 了]

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