第二章 たなびく髪は誰がため

憩いの朝

 早朝のトリトマの森。もやの晴れた森は再び緑の幕に覆われ、眠りから覚めた木々が、昨日よりもほんの少し伸びた枝を揺らして朝の挨拶を交わしている。木叢こむらの間から降り注ぐ日差しと、梢の先でちゅんちゅんとさえずる小鳥の声は、未だ眠りから覚めやらぬ木々を光の世界へと導いているようだ。地上で揺れる花々の間では新芽が顔を出し、金色の木漏れ日を全身に浴びながら、あふれんばかりの生命の輝きを小さな身体からほとばしらせている。


 一日の始まりを迎えたその森をオリヴィエは一人歩きながら、彼らの息吹を全身で感じ取ろうとしていた。心を無にし、沈黙の中に漂う彼らの言葉に耳を澄ませていると、森はたくさんの声を返してくれた。葉擦れの音を交わす梢や、木々の間を吹き抜ける薫風くんぷう、そして咲き誇る色とりどりの花々。そうした森の鼓動を感じていると、オリヴィエは自分が自然と一体となり、彼らの加護を受けているような気持ちになるのだった。


 彼女は騎士団の訓練場に行く前、森を散歩することを日課としていた。天からの祝福ともいえる暖かな日差しを浴びていると、全身の細胞が生まれ変わっていくようで、内側から活力が湧き上がってくる。だからこそオリヴィエはこの時間を何よりも愛し、誰にも邪魔されたくないと考えていた。


 オリヴィエは一人森を歩き続けていたが、ふとあるものに目を留めて立ち止まった。そこは昨日アイリスと訪れた辺りで、彼女が愛でていたビオラやスミレの花が無数に咲いている。


 オリヴィエは花々をじっと見つめた後、その傍にそっと屈み込んだ。青と紫紺しこんに彩られた可愛らしい花弁が、風に吹かれて小さく揺れる。その姿はアイリスを彷彿とさせ、オリヴィエはふっと笑みを漏らした。籠手ガントレットを伸ばし、繊細な花弁にそっと触れようとする。


 その時、不意に後ろから足音がしてオリヴィエは花から手を引っ込めた。素早く後ろに飛び退いて剣の柄に手をかける。だが、そこにいる人物を目にした途端に表情を緩めた。


「お前は……、シャガ、か……?」


 そこにいたのは先日訓練で戦った騎士、シャガだった。まだ鎧は装着しておらず、薄手のシャツに丈の短いズボンだけを身につけている。鎧を着ていないと身体の小柄さが目立ち、ますます少年めいて見える。


「シャガ、お前、ここで何をしている? 今日は手合わせの日ではないぞ」

「わかってるよ! 俺はな、散歩に来たんだ、散歩。いやー朝の森はやっぱり空気が美味えよなぁ!」


 シャガが腰に手を当てて森を見回しながら満足そうに頷いた。オリヴィエは気勢を殺がれたような顔で彼を見つめた。剣の柄にかけた手を外し、一つ息を漏らして続ける。


「……そうか。てっきり敵かと思って抜剣するところだった。すまない」

「いや、いいぜ。それよりお前は何してんだ? やっぱり散歩か?」

「まぁそんなところだ。宿舎にいるよりも、一人の方が落ち着くのでな」


 女の騎士が一人しかいない関係上、女性用の宿舎は作られておらず、騎士団の宿舎は男女混合だ。もちろん部屋は分かれているが、それでも玄関や廊下で他の騎士と顔を合わせることは避けられない。彼らが自分の姿を見るたび、妬ましげな視線を投げかけ、あるいは面と向かって嘲笑を浮かべることはオリヴィエにとっては日常茶飯事だった。


「そっか。でも意外だよな。お前が花を好きだなんて」

「花?」

「あぁ。今しゃがんで見てただろ? ただ散歩してるだけにしちゃあじっくり見てたから、てっきり好きなのかと思ったけど、違うのか?」


 シャガは不思議そうにオリヴィエを見つめてくる。好奇心旺盛な少年のようなその顔を見ていると、オリヴィエは素直に質問に答えてやるべきだと思った。


「そうだな。私は花が好きだ。それに花の傍にいる蝶や小鳥もな。こいつらを見ていると、些末な日常に頭を煩わせていることが馬鹿馬鹿しく思えてくる」


 男社会の中で嫉妬と蔑視に晒され、常に強く在ることを余儀なくされているオリヴィエにとって、森で美しい花を愛で、小鳥のさえずりに耳を傾けていられる時間は、唯一本来の自分に戻れる時間とも言えた。だが、そこまでの事情をシャガに明かす必要はない。


「確かに花や鳥はいいよな!」シャガが勢いよく頷いた。「いざとなれば食料になるし、鳥の声は目覚まし代わりになる。俺も毎朝鶏に起こしてもらってんだぜ。ま、たまにそれでも起きられなくて、遅刻してグラジオ隊長に怒鳴られるんだけどな」


 シャガが心底困った顔で肩を竦める。冗談みたいな内容を真面目に言う彼の口調がおかしくて、オリヴィエは思わず相好を崩した。


「そうか。だが、私が花を好きなことは、他の騎士には秘密にしておいてくれるか?」

「え、何でだよ?」

「奴らに弱みを見せたくないからだ。花が好きなどということが知れれば、奴らはこぞって私が女であることを取り上げ、侮辱してくるだろうからな。奴らに物笑いの種を提供する必要はない」

「はぁ、よくわかんねぇけど、お前がそう言うならわかったぜ! 二人だけの秘密ってことで!」


 シャガが歯を見せて親指を立てる。その他意のない表情をオリヴィエは眺めながら、目撃されたのが彼でよかったと心から思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る