秘めた言葉

 シャガと別れた後、約束の時間を迎えたオリヴィエはアイリスの部屋の扉をノックした。すぐに鍵の外れる音がして、アイリスが勢いよく扉を開ける。


「まぁ、オリヴィエ! 訓練はもう終わったの?」アイリスがぱっと顔を輝かせた。

「はい。夕食も済ませましたので、外に出る準備は整っております」

「嬉しいわ。今日は月も綺麗みたいだし、何だかとってもロマンチックね」


 アイリスはふんふんと鼻を鳴らしていそいそと廊下に出てくる。散歩に行けるのが嬉しくて仕方がないようだ。


 見張りの騎士の目を搔い潜り、二人はこっそりと城を抜け出してトリトマの森へと向かった。森に近づくにつれて辺りは静謐せいひつな空気に包まれ、呼吸の音が鮮明に聞こえてくる。夜空は藍色に染め上げられ、星影が囁きを交わすように瞬いている。澄み渡る空には白い満月が浮かび、地上に優しい光を投げかけている。その清廉せいれんな光に照らされていると、謁見の際に生じた煩悶はんもんや、昼間騎士たちから受けた侮辱が全て洗い清められ、荒んだ心が浄化されていくような気がした。


「ねぇオリヴィエ、今日の訓練はどんな様子だったの?」


 アイリスが歩きながら尋ねた。ドレスの上にショールを羽織ってはいるが、それでも少し冷えるのか、しきりに二の腕を擦っている。


「特に変わりはありません。個々人で鍛錬を積んだ後、代表を選抜して皆の前で戦いました」

「もちろんあなたは勝ったんでしょう? あなたは誰よりも強いものね」

「ええ……。ですが、今日の対戦相手は少し変わった男でした。私に負けたことを意に介さないどころか、私に稽古をつけてほしいと申し出てきたのです」

「あら、そうなの? よっぽどあなたのことが気に入ったのね」

「どうでしょうか。他の騎士の軟弱さを目の当たりにして、やむなく私に助力を求めてきただけかもしれませんが」

「そんなこと言って、本当は友達ができたことが嬉しいんでしょう? 顔がいつもより優しいもの」


 アイリスが悪戯っぽく笑う。オリヴィエは咄嗟に自分の顔に手を当てた。自分は嬉しいのだろうか? 確かにシャガと話したことで、心が軽くなったような気はしたが――。


「あ、森に着いたわよオリヴィエ。うーん、やっぱりここは空気が美味しいわね」


 アイリスが両手を挙げて大きく伸びをする。ゼラが娘のこんな姿を見たら眉をひそめるだろう。アイリスがこんなにも自由な振る舞いをするのは、オリヴィエに心を許しているからに他ならない。


「この辺りにはあんまりお花は咲いてないわね。もうちょっと奥まで行ってみましょうか?」アイリスが尋ねた。

「奥まで行き過ぎると帰ってくるのが大変ですよ。城を抜け出していることが陛下に知れたら叱られてしまいます」

「大丈夫よ。お父様は就寝が早いから、朝になるまで気づかないわ。むしろ心配なのはお義母様の方ね。また殿方を部屋に連れ込んでないといいんだけど」


 アイリスが小さく肩を竦めた。カトレアと彼女は血が繋がっていない。アイリスの実母は七年前に病死し、ゼラは娘に新しい母親が必要と考えてカトレアと結婚したのだった。義母と娘の間に表立った確執はないようだが、それでも血縁ではないがゆえの遠慮や気まずさがあるのだろう。


「何にせよ、あまり遅くなるのは避けた方がいい。花を見つけたらすぐに戻りますよ」

「わかったわ。……それにしても今日は冷えるわね。ねぇオリヴィエ、少しあなたの傍に寄ってもいい?」


 答えを聞くより早く、アイリスはオリヴィエに近づいていって彼女の鎧の胸に触れた。そのまま彼女に身を預け、目を閉じて呼吸を繰り返す。


「……不思議ね。こうしてあなたの鼓動を感じていると、身体が熱を帯びていくような気がするの。まるで男の人に抱かれているみたいに……どうしてかしらね」


 オリヴィエは何も言わなかった。アイリスの小さな肩に触れることもせず、彼女が身を委ねるに任せている。


 そうして一分ほど経った頃、アイリスは気が済んだようにオリヴィエから離れた。ショールを羽織り直し、オリヴィエに向かってにっこり笑う。


「ありがとうオリヴィエ、おかげで少し温まったわ。それじゃ行きましょうか」


 アイリスは前方に向き直ると、軽やかな足取りで森の奥へと向かった。オリヴィエは黙って彼女に従った。






 トリトマの森は、昼間とは随分その姿を変えていた。辺りにはもやが蜃気楼のように立ち込め、ヴェールのように木々を包み込んでいる。こずえに留まる鳥のさえずりも、花の間を飛び交う蝶の羽音も聞こえず、ひっそりとした空間は森全体が眠りについていることを思わせる。沈黙をさらうのは森の奥から時折吹き抜ける風で、その時だけ木々は目覚め、まるで夢を語り合うようにさわさわと枝葉を揺らしている。そんな中でも花は変わらずに咲き乱れ、青白い月の光を浴びて、昼間とは違う輝きをその小さな身体から放っている。


「わぁ……素敵。月の下で見るお花がこんなに綺麗だなんて知らなかったわ」


 アイリスが感嘆の息をついて草むらに腰を下ろす。目を細めてスミレやビオラといった小さな花々を見つめ、大切なものに触れるようにその花弁を慈しんでいる。


 オリヴィエはアイリスの傍に立ち、無言で彼女を見つめていた。月明かりがアイリスの姿を照らし、髪やドレスが銀色の刺繍を施されたかのように煌めいている。その姿は実に幻想的で、オリヴィエはこのまま時間が止まってしまえばいいと思った。


「……姫様、おたわむれのところ申し訳ありませんが、そろそろ帰りましょう。靄も出ていますし、このままでは帰り道がわからなくなってしまいます」


 オリヴィエが迷いを振り払うように言った。アイリスは名残惜しそうに花々を見つめていたが、すぐ頷いて立ち上がった。踵を返したオリヴィエに続いて歩き出そうとする。


「あ、待ってオリヴィエ。あれを見て」


 アイリスがある一点を指差して立ち上がった。オリヴィエがその方に視線をやると、白い花弁をつけた大輪の花が、人目を避けるように一輪だけひっそりと咲いているのが見えた。


「あれは……月下美人げっかびじんですか?」


 オリヴィエが尋ねた。月下美人。夜に咲き、明け方にはその命を終える短命の花だ。純白の美しい花を咲かせながらも、その美しさは一夜限りでしかないことから、儚さの象徴とも言える神秘的な花。


 アイリスはそっと月下美人の方に近づいていくと、花の傍に屈み込んだ。じっと花を見つめた後、おもむろにそれを草からむしり取る。


「アイリス様? 何を……?」


 オリヴィエが当惑した視線を姫に向けた。アイリスは両手で月下美人を持って戻ってくると、オリヴィエにその花を差し出した。


「これ……あなたにあげるわ」


 オリヴィエは困惑した顔でアイリスを見返した。アイリスは月下美人に視線を落とし、愛おしむようにその白い花弁を見つめた。


「月下美人は、一夜しか咲かない短命の花……。だから花言葉も儚さを表したものが多いわ。でもね、一つだけ儚さとは違う意味の言葉があるの。何だかわかる?」


 オリヴィエは首を横に振った。アイリスはふっと微笑んで言った。


「それはね、『強い意志』、よ。たった一夜の命でも、懸命に美しい花を咲かせようとする……。それが月下美人の花言葉。私はね、この花はあなたにぴったりだと思うの」

「私に?」

「ええ。だってオリヴィエは、いつだって強い意志を持って戦ってる。騎士団の中でどれだけひどい扱いを受けても、踏みにじられずに雄々しく生きてる……。そんなあなたに、私はこの花を贈りたいのよ」


 オリヴィエは言葉を返せなかった。アイリスはふっと微笑んで続けた。


「オリヴィエ、そこに屈んでくれる? この花はあなたの髪によく映えると思うの」

 

 オリヴィエはなおも困惑していたが、大人しくアイリスの指示に従った。地面に片膝を突き、アイリスの前に首を垂れる。アイリスは身を屈め、オリヴィエの右の側頭部に月下美人の花を刺した。


「うん。思ったとおり、よく似合うわ」アイリスが満足そうに笑った。「ね、それ、朝になるまで外しちゃダメよ」


「いや……城の中でこんなものを付けていたら目立つでしょう。森に行ったことが知られてしまいますよ」オリヴィエが立ち上がりながら言った。


「ううん……。じゃ、せめて城に帰るまでは付けててくれる? その後は持ち帰って部屋の花瓶に生けましょう」


「構いませんが、いずれにしても一晩経てば枯れてしまいますよ。そんな花をわざわざ摘まなくてもよかったのでは?」


「大丈夫よ。枯れるのは花だけで、あなたが一緒に枯れるわけじゃないもの」


 オリヴィエ目を瞬かせてアイリスの方を見た。アイリスは手を後ろに回し、上目遣いに自分の方を見上げてくる。


「……ねぇオリヴィエ、約束してくれる? 月下美人は一夜で枯れてしまうけれど……あなたは簡単には枯れないって。いつまでも強い騎士として……私の傍にいてくれるって」


 アイリスの瞳が寄る辺なく揺れる。先ほどまでの無邪気さが嘘のように、その瞳は脆く、頼りなげに見えた。沈黙のとばりが森を包み、風の音さえも聞こえない。


「……当然です」


 やがてオリヴィエがぽつりと言った。アイリスが不安げに小首を傾げる。


「私は決して枯れはしない。どんな誹謗ひぼうや中傷に晒されようと、一度拝命した騎士の任を降りる気は毛頭ありません。そして私が騎士である以上……あなたのお傍を離れることはありませんよ、アイリス様」


 オリヴィエが優しげな笑みをアイリスに向ける。それを見てアイリスも安心したのか、ほっと息をついて表情を綻ばせた。


「さぁ、そろそろ帰りましょう。あまり長く外にいると風邪を引いてしまいます」

「そうね。今日はありがとう、オリヴィエ。できればまた付き合ってくれると嬉しいわ」


 アイリスがにっこり笑って言う。オリヴィエは自分も笑みを浮かべて応えて見せた。






 月明かりの差し込む森の中を、二人は連れ立って歩いていく。オリヴィエが歩くたびに月下美人の花がかさかさと揺れ、先ほどの会話が夢ではなかったことを実感させた。


 アイリスの言葉一つ一つを思い返し、そこに秘められた意味を考える。どこまでが戯れで、どこまでが真意なのか、それを図る術はない。母のいない寂しさを埋めるため、身近にいる自分に甘えたかっただけなのかもしれない。


 それでもオリヴィエは構わなかった。アイリスにとって自分は騎士であり、それ以上の関係になることはない。それを知ってもなお、オリヴィエはこの小さな姫君に仕えたいと思った。彼女の傍にいられるのなら、他の何を失っても惜しくはないと思えた。


 もやに包まれたトリトマの森。花の名を冠するこの王国に相応しく、その森もやはり花から名づけられていた。そしてその花言葉は、オリヴィエ自身の秘めたる心を表していた。


 トリトマの花言葉――あなたを想うと胸が痛む、と。




[第一章 剣を携えし君の名は 了]

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