第9話 決意の跳躍


 月と地球の間の距離は38万キロ。

 1Gの加減速ならば約3.5時間で地球へ到達する、というのがミツキさんの計算だった。

 どんな宇宙船よりも圧倒的に速い。絶対に追いつかれないはずだ。


「なんでこんな計算が必要なの? どういうこと?」

「ミツキさん。コネで通信衛星の設定を弄ったらしいけど、この通話の履歴も消せる?」

「多分?」

「履歴を消して、何も聞かなかったことにして欲しい。ミツキさんまで危なくなるかもしれないから。今までありがとう」

「そ、そんな気遣いしなくても平気だよ! 危ないのは慣れてるし!」

「会ったばかりなのに優しくしてくれて、本当に嬉しかった。それじゃ」

「あ! ちょっと! 待っ」


 通話を切る。

 ……絶対、彼女は俺の能力や詳しい事情を知らないほうがいい。

 そのほうがお互いに安全だ。


「さあ。やるぞ」


 逆探知を防ぐために、スマホからSIMカードを抜き機内モードにしておいた。

 ……ああ、そうそう。SIMカードといえば。


「えーっと。座席のこのパネルを開けて……」


 あった、SIMカードスロット。

 さっきミツキさんに教えてもらったんだけど、この座席についてる緊急信号の発信機、設計コスト削減のためにそのまんまスマホみたいな仕組みらしい。

 SIMカードを抜けばスターネットとの通信は止まる。これでよし、っと。


 さあ。艦隊が到着するまで、あまり時間的な猶予はない。

 今すぐに脱出計画を実行しなきゃ。


「まず、水!」


 座席に備え付けの水パックを取り出す。

 魔法で補充されているらしく、内容量は実質無限。

 そして、空気のある場所から真空中へと放り出せば水は凍る。一気に蒸発して、気化熱で冷えるせいだ。


「それと……月の砂!」


 パイクリート、という素材がある。

 氷におがくずを混ぜた物だ。ちょっと軍事オタクが入ってる人なら、”氷山空母ハバクック”でお馴染みだろう。俺もそれで知った。


 おがくずほどじゃないにしろ、細かい砂を氷に混ぜることでも強度が上がって溶けにくくなる。

 サラサラとした月の砂レゴリスなら、きっとこれに使えるはずだ。


 ミツキのバックパックを使って、クレーターから月の砂を回収し、水と混ぜてから脱出座席の細かい穴を埋める。

 それから迷宮中から座席を押して真空中へと押し出していく。

 気圧差で水が吹き飛ばないように、穴のあるほうと反対側から徐々に空気を抜き、最後の最後に凍らせる穴を迷宮の外へ出した。

 一瞬だけボコボコ沸騰した末に、残った氷で穴が塞がれる。


 このプロセスを何回も繰り返し、小さな穴を分厚い氷で塞いでいく。気圧差にもちゃんと耐える強度があった。

 地球へ着くまでの3.5時間ぐらいなら、きっと保つはずだ。

 太陽光を受けたら、もっと短時間で溶けちゃいそうな気はするけど……。

 うーん。溶けた側から水を追加して凍らせる? でも気圧差で吹き飛びそうな……。


 それ以前の問題として、出入りのために開けた大きな穴が残ってる。

 外側から埋めるのは無理だから、中に入ってからどうにか氷で穴を埋める必要がある。

 大きな氷を作って中に持ち込み、周囲から水を流しつつ中から接着すれば、作れないこともない……けど、難しそうだ。

 なにかうまい具合に型を作れるようなものがあれば。


「あっ!」


 怪しげな文庫本が目に留まった。

 なにかの番組で、パイクリートの実験を見た覚えがある。

 新聞で作ったパイクリートが最も強かった。本でも代用できるかな。


 本をバラし、膜の無事な部分にページを並べて水で貼り付け凍らせる。

 いい感じに丸まった型が作れた。剥がして水をかけては外に出し、分厚くしていく。


「これ、太陽光を防ぐ覆いも作れるんじゃないか?」


 すぐ溶けそうだけど、無いよりはマシなはず。

 頑張って半円状の覆いを……。


「駄目だ! そんなことしてる時間ない!」


 もう三十分近く経ってる。モチヅキの採掘船艦隊が到着するまで余裕がない。

 太陽光で溶けるのは諦めるしかないな。


 一応、この脱出座席の空調システムは超強力だ。直射日光を受けた状態で中の人間が生きられるんだから、温度調節能力はすごく高い。

 空気はエアコンの吹き出し口から出てくるから、エアコンの温度を最低に設定しておけば、多少は溶けるのを遅らせられる……かも。


「……完璧じゃないけど……これで行くしかないか……!」


 失敗して死んだって、このまま待つのと結果は変わらない。

 ……本当に、こんな小学生の理科みたいな工作で宇宙へ飛び出すのか、俺?

 あまりにも正気じゃない。怖くて足が震えてきた。


 ミツキの荷物を座席の荷物入れに放り込む。拳銃は服のポケットに。

 もしもコースが地球から外れたら、その時は……。


「考えたってしょうがない……!」


 本のページで作られた曲面の氷を持って、座席に入る。

 エアコンの設定は最低に。かなり冷たい風が出てきた。


「やるぞ……! 〈重力操作〉!」


 大きく開いた穴の部分を下にして、迷宮のすぐ外へ着地する。

 地面との隙間から空気が漏れて、月の砂が激しく舞い上がった。


 頑張って曲面の氷を穴に押し当て、パックの水を流し続けて接着する。

 数分後、ようやく空気の漏れが止まった。派手に水を使ったおかげで、とても分厚い氷が作れたのが不幸中の幸いだ。


「ふう……」


 バキッと壊れる様子もない。パイクリートの強度で耐えてくれてる。

 第一関門はクリアだ。


 クレーターの下で待機して、氷の温度をさらに下げていく。

 吐く息が白くなってきた。エアコンの吹き出し口に霜が付いている。


「これ、緊急時だからエアコンのリミッター切れてたりする……?」


 魔法で冷やしてるんなら限界はないはず。これなら氷が保つかも。


「……あ、来た……!」


 星々を背に、無数のロケット噴射炎が瞬いている。

 三隻の宇宙船が、減速しながら俺のクレーターへと迫ってきた。


「もう待てない……やるしか……」


 全身が震えている。怖い。

 ……窮地でこそ冷静になれ。冷静さを失えば死ぬ。

 探索者になりたいんだろ。


「絶体絶命のピンチぐらい切り抜けてみせろ……行くぞッ! 飛べッ!」


 スマホのタイマーを起動し、重力操作を全開にして、星々へと落ちていく。

 氷で覆われた球体がぐんぐんと加速して、瞬く間に艦隊の間をすりぬけた。


「抜けた!」


 上から見ると、太陽光に照らされた灰色の船体がはっきりと見えた。

 砲塔が旋回し、俺をまっすぐに見据えてくる。


「熱……っ!?」


 ザリザリと耳にノイズが走り、目の奥が激しく傷んだ。

 空中に浮いたままの水パックがぼこぼこと茹だっている。

 そして、視界が暗転した。何も見えない……!?


「れ、冷静になれ……冷静に……!」


 それでも踏ん張り、重力操作を続ける。

 やがて異常な感覚が消えた。血で滲んだ視界が戻ってくる。


「な、なんだったんだ?」


 少し考えて、答えに行き当たる。


「大出力のレーダーでロックされてたのか!?」


 イージス艦のレーダーを目前で受けると、人間は電子レンジでチンされたような状態になるらしい。

 電子レンジもレーダーも、使ってるのは同じマイクロ波だ、って聞いた。

 多分、宇宙船のレーダーを向けられたんだ。火器管制レーダーかもしれない。

 既にロックオンされて、撃たれる寸前だった……。

 モチヅキの連中は、俺を本気で殺そうとしたんだ。


「でも、逃げれた……!」


 ギリギリだったけれど、勝ったのは俺だ。

 あとは集中力を保つだけ。重力操作を切らさず、地球まで一直線で行こう!

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