第十話 世界は、そうであることのすべてである。
ルファルとメイリアの間に沈黙が流れた。ややあって、ルファルは冷めたコーヒーが揺れるマグを机に置くと、右手の指をこめかみに添えて大きく息を吐いた。その視線はメイリアを捉えていた――否、メイリアの方には向けられていたが、中空を彷徨っていた。
「何かがひっかかる」ルファルは言った。
「確かに准尉、君の言う通り面倒な事態ではある。ゲルリッツ家の事情を熟知していると思われる、義兄のサムエル王が、大戦の時に玉座に就いていたというのはな。兄弟間の争いがあったのかもしれない。ゲルリッツ家を、その家に関する情報を全て抹消させた上で分離追放するには、大戦はとても都合がいい。だが」と、ルファルはそこで言葉を切った。「それにしては工作が雑すぎるとは思わないか?」
「工作が……雑すぎる、ですか?」メイリアは目を丸くしている。意図がわからない、とでも言いたげな目線を受けて、ルファルも苦々しげに口を開いた。
「今考えていることは、おれ自身もかなり飛躍が過ぎると思っている。だがそうだと考えるのが一番もっともらしいことなんだ。それを踏まえた上で聞いてほしい」
そういうと、手探りで机の上の箱から巻き煙草を取り出して火を点け、背後の窓の外に向けて大きく息を吐いた。紫煙がすべて外気と混ざり合ったのを確認すると、事務所の入り口のすぐ隣に置いてある燭台に煙草の火を使って灯りを灯した。煙草の煙は紙を傷めるため出来るだけ吸わないようにしていたのだが、事実があまりにも込み入っている現状で、ルファルは思考を整える時間を欲していた。
「そもそも歴史というものは事実の積み重ねでもあるが、同時に物語の積み重ねでもある……これはおれの、母国の先生がくれた言葉だ」
窓の外を見ながらルファルは言った。実際にこの言葉は、大学の研究室で教授が口々に言っていた言葉だ。彼は「あちらの世界」でフランス文学を学んだので、当然フランス語も勉強した。フランス語では、「
それにしても「異国からの召喚」という一見真っ当な口実を与えてくれたマハルはたいしたやつだ、とあの達観した表情を思い出し、彼はひとり肩を竦めた。
「この言葉を前提にここまでの話を振り返ってみると、『事実』と『物語』はそれぞれどうなっているのか、判断しないといけない。そのためには、まずは世界をいくつかの事実へと分解する必要がある……。准尉」
首から上で振り返り、ルファルは部下を指名した。メイリアは、彼が時折独特な言い回しを口にするたびに、ミッションが与えられるのを直感した。その直感は、今回も当たっていた。
彼女は機敏な動作で短く応答した。
「そこに積んであるルーズリーフに、ゲルリッツ家に関してわかっている『事実』を一つずつ書いてくれ。で、そこの壁に貼ってほしい。そうすれば整理がつく」
「わかりました」とメイリアは答え、一枚につき一項目の事実を次々と書いていった。
貼りだされたルーズリーフは八枚になった。
――いわゆる「刑事モノ」とか「探偵モノ」と言われる小説なりドラマなり映画なりではこういう場面が描かれていたが、まさか自分がやることになるとはな。ルファルは短くなった巻き煙草を陶器製の灰皿に押し付けて、メイリアが貼り付けたルーズリーフの前に立った。彼の後ろでは、ソファに腰かけたメイリアが、籠に入れられた小鳥のように小首を傾げていた。
①豪傑公には弟のズゴジェレツ伯がいた。
②ズゴジェレツ伯には二人の息子がいた。
③兄の名はルーデル、弟の名はフィオレールだった。
④フィオレールがズゴジェレツ伯の地位を継いだ。
⑤フィオレールは豪傑公の養子となった。
⑥豪傑公の息子はサムエル一世だった。
⑦サムエル一世は先の大戦時に王位にあった。
⑧サムエル一世はゲルリッツ家に関する情報を大戦時に破棄した(?)
⑨サムエル一世はゲルリッツ家をカデンツ家から追放した(?)
ルファルは、九枚のルーズリーフを睨み、低く唸った。「やはり、空白が大きすぎるな。⑦と⑧、⑧と⑨の間は特にだ」そう言って腕を組むと、半身でメイリアのほうを振り向き、ルーズリーフにむけて顎をしゃくってみせた。そうですね、とメイリアも腕を組んで賛同の意を示して見せた。
「⑦と⑧の間に、そうなるための必然性がないということでしょうか」
「そうだ。さっき君が話してくれた内容を思い返せば、③から④、そして⑤に至るのは明らかだな。加えて⑥と⑦も問題ない。⑥は⑤が発生した時の単なる状況で、⑦もそのあとに発生した事実だからだ。一方で……」
「一方で、⑦と⑧を裏付けるものがない。⑧と⑨も同様です。⑧はそうなのではないかと言われているものにすぎませんし、⑨だってどのような意図があって発生したのかも分かりません」
「そういうことだ。流石は司書官補」
「ダテに倍率五十倍を突破してませんから」とメイリアは両手を腰に当てて胸を張った。こういう少女らしい雰囲気を兼ね備えているのも、彼女が検索台で引っ張りだこになっている魅力の一つだった。ルファルは微笑を浮かべたが、ルーズリーフを見返した時には再び眼差しに全てを見通すような光が宿っていた。
「で、問題は、どうして謎のままに⑧と⑨が言い伝えられているのか、だ」
「と、言いますと?」
「簡単な話だよ。本当に重大な事柄なら、その情報を破棄したことすら外部に漏れないはずだ。逆説的に、その情報が破棄されたということが――噂レベルであっても――外に漏れているのだとしたら……」
「漏らした人物がいる、あるいは意図的に漏らされている、ということですか……?」
ありえない、とでも言いたげに両目を大きく開いて、メイリアは上官を見つめた。ルファルは微動だにしなかったが、まるで背後の彼女の表情が見えていて、あえてそれを見ないつもりにしているかのようだった。
「君の言いたいことはわかる。過去の事象は何らかの綻びによって存在が明らかにされるものだ。とはいえ、その綻びは往々にして『偶然』起きるものなのだ」
彼は一言一言をかみしめるように言った。
羊飼いが子ヤギを追いかけていなければ死海文書は日の目を見ることもなく、少年たちが飼い犬の救出に向かわなければラスコー洞窟の壁画は暗闇で眠り続けていただろう。もちろんそれほど古いものでなかったにしても、実家の倉庫から先祖の日記を見つけたり、絶版になっている小説の初版本が見つかったりするのも、偶然という名の引力によるものだ。
翻って、現在直面している謎はどうだ。
王国という、王家の権威が行く末を左右する政治体制にあって、「大戦時に王家が情報を破棄したのではないか」という噂は本来存在してはならないはずだ。それが今、自分たちという外部の人間に伝わっている。ということは――
「『偶然』を装って情報が漏らされた、と?」メイリアが眉をひそめた。ルファルは相変わらず、彼女に背を向けていた。
「そう考えるのが一番妥当だろう。『盗まれた』という『全史』の存在、ゲルリッツ家が分離された当時についての噂……おれには――こんなことを言うのも、随分おれらしくないとは思うが――王家の謎が、解かれるのを待っているような気がするんだ」
「大尉にしては、詩的な言い回しですね」
「だろう? 変な話さ……とはいえここまでの話もすべて、推論にすぎない。全ては持ち主の知るところにある。ここから先は長くなるから、明日に回そう。准尉は先に上がってくれ」
ルファルは首だけで振り返った。視線の先には、古ぼけた木箱がローテーブルに置かれていた。
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