第十一話 複製技術は複製されるものを伝統の領域から解き放つ。
ビリングス王国には、「晴れ」を表す単語がないらしい。ドニゴール大陸東端に位置する王国湾岸には碧南流と呼ばれる温暖な海流が流れ込み、その影響は冬季に強く見られるようになる。特に湾岸諸都市では気温がそれほど低下せず、暖かな海水が運ぶ水蒸気は北東からの卓越風――ある地域で特定の方角から吹く風をいう――によって王国の諸都市に流れ込む。したがって、冬の特に風の吹かないとき、王国にはしばしば霧が発生し視界が閉ざされてしまう。
では夏は爽やかなのかというとそういう訳でもなく、卓越風によって水蒸気をたっぷり含んだ温暖湿潤な空気が流れ込み、特に湾岸の諸都市ではじっとりとした日々が続くのである。
このような気候のために王国では一年の半分から三分の二が曇天である。よって気候に関する王国の言葉は「
王国に来て半年、「あちらの世界」では今頃じっとりとした梅雨が続いていることだろう。こんな時期にはエアコンを除湿運転したところで部屋の湿度が一向に下がらず、本のページがしなびかけた野菜のように波打っていたが、そのような厄介ごとは「こちらの世界」でも変わらないらしい。
事務所の扉を開けたルファルは、ひんやりと冷たい濡れた空気が顔に張り付くのを感じて、わずかに顔をしかめた。やや遅れて事務所に入って来たメイリアもまた、湿度の高さに真っ先に反応した。
「今日はヤケに湿度が高いですね」メイリアが制服の首元のボタンをはずしながら言った。「機械室に言って、この部屋の換気を強めてもらいましょうか」
「ああ、それが良いかもしれないな。こんな状態じゃ、昨日言っていた『全史』の調査もままならないし、資料自体が傷む可能性が高い」
メイリアは短く頷くと、扉の向かいの壁際に備え付けられた電話で機械室を呼び出した。数分も経たぬうちに天上から低い音が聞こえてきて、コーヒーを淹れていたルファルは、空調が正常に作動しているのだと理解した。
「さて」と二人分のコーヒーをマグカップに注ぎ終えると、ルファルは口を開いた。「随分と嫌な天気だが、やらねばならない仕事がある。秘密を抱えていると思われる『全史』の調査だ」
メイリアはマグカップを受け取りながら、とはいえ、と口を挟んだ。「調査と言われましても、一体何をするんです?」
「今我々がここに持っている者は、盗品と思しき『王家全史』だ。しかしながら、資料が王室の書庫から盗まれたとかいう話は露ほども聴いていない。准尉、フィリア・ゲルリッツの依頼を覚えているだろう?」
「確か、書物の真贋判定……」
「そうだ。しかし、おれはこの仕事にもう一つの
「歴史的経緯ですか?」メイリアが明らかに怪訝な表情を浮かべていた。それと書物の真贋判定がどう結び付くのだ、とでも言いたげだった。しかしそれを見たルファルの目が、我が意を得たと言わんばかりにきらりと光った。
「そう。そこに貼ったルーズリーフを見てほしい――」ルファルは顎で壁を指した。昨日メイリアが貼った、八枚のルーズリーフがある。
「昨日おれたちは、ゲルリッツ家の追放にまつわる情報の間に、不自然な断絶があると判断したね。じゃあその不自然な断絶は、元をたどれば何に起因するものだったかい?」
「王家が情報を破棄したという、本来明らかになるべきではない噂……でしょうか」
「その通りだ」ルファルは満足げに頷いた。「おれは、その噂の真相を明らかにする鍵が、この資料にあると睨んでいる」
「『全史』とゲルリッツ家の追放が、どう関係するのでしょうか?」
「この書物の内容と、歴史的事実が噛み合えば、同時に二つのことが明らかになるだろう――この書物が本物なのか贋物なのか、そして、なぜ、どのようにしてゲルリッツ家は王家を追放されたのか。だからこそ、『全史』の調査が必須なわけだ」
「なるほど……とはいえ、どのように調査するのです?」
ルファルはマグカップを机に置くと、そうだな、と顎をさすった。今ある資料から得られる情報はかなり少ない。その中から何が得られればことの真相に近づきうるか――彼は、足場を固めることを優先とした。つまり、真贋はともかく、もっともらしさの有無である。
「まずは、この本そのものの信憑性を探ろう。使用されている文字の
そういうわけで准尉、今から言う内容の図書をこの部屋と閲覧室から集めて、壁際にあるあそこの臨時書架に並べてほしい。まずは辞書だな、それから古語辞書。次に東部戦争以前の戦史、こいつはなるべく詳細なものが欲しい。あとはこの国の伝統工芸の概説書……」
椅子に座ったまま、中空を見上げながらルファルは必要になると思われる資料を次々に口にし、メイリアはそれを手元のルーズリーフに素早く書き留めた。
一時間もたたぬうちに、ローテーブルには大小様々な本によって城壁が建設された。その高さはルファルの腰の辺りにまでなり、
*****
信憑性を探る作業は、予想より順調に進んだ。表記体系の概要と、使用されている羊皮紙の産地、製造時期がおおよそ判明したためである。
表記体系の構造を把握するのには、王国に生まれ育ち、書誌隊附属の大学で学んでいたメイリアが一役買った。『全史』を開いた彼女の目に真っ先に飛び込んできたのは、あからさまに装飾的な文字列であった。またそれらは全てが大文字であり、大文字と小文字を併用する現代から見ると些か読みにくいようだった。それに加えて、全編に渡り母音字の用法に混同が――ラテン文字のIとJ、EとH、UとVにあたる文字らしい――あると判明した。
メイリアが晴れ晴れとした顔で持ってきた報告を受け、「あちらの世界」の似たような事例をルファルは思い出した。
古代エジプトでは神官たちが用いたヒエラティックが世俗的な文書ではさらに簡略化されたデモティックに取って代わられ、フランク王国のカロリング朝では読みやすさを重視したラテン文字の小文字が普及した。第二次世界大戦を挟み日本語では「i」と「e」の音を表す「ゐ」と「ゑ」――厳密には「wi」と「we」だが口語上の違いは消失していた――が殆ど使われなくなり「い」と「え」に統一され、ドイツ語ではフラクトゥールと呼ばれるカリグラフィーを思い起こさせる
この表記の差異を以て、『全史』が形になったのは遅くても大戦の終結から十年以内だろうとメイリアは結論した。そもそも話し言葉が変わり続ける以上、表記体系が独立して全く変わることなく使われ続けることの方が珍しい。それは「こちらの世界」でも全く変わらない世界の
一方で羊皮紙の産地と製造時期にアタリを付けたのはルファルだった。彼は『全史』から木製の表紙と全体を綴じる革紐を丁寧に外すと、八枚一六ページでひとまとまりとなった羊皮紙の折丁をひとつ取り出した。
彼は王国の伝統産業の概説書を片手に、折丁のページを閉じつ開きつ、手の中で転がしながらつぶさに観察した。一口に「羊皮紙」といっても使われる動物の皮は羊だけではないらしい、という話を思い出したのである。
十五分ほど捲ったりさすったり拡大鏡で眺めたり燭台の火で照らしたりして判明したのは、ヤギの皮が用いられているということだった。始めは表と裏で質感が微妙に異なることに違和感を覚えていたが、書道で用いられる和紙もそうだったことを思い出すと、その違和感に納得した。動物が分かったことで、産地もおのずと特定された――王国北西部のローバウ高地である。この地は古来ヤギの牧畜が盛んであり、ローバウ
かくして、『全史』の信憑性が白日の下になった――この本自体はこの王都で、大戦の時期周辺に製造されたものである。つまり、その辺の素人が頑張って作っただけのいたずら品ではない。
「問題は――」ルファルは折丁と表紙を元に戻し、革紐で再び綴じながら言った。
「中に書かれた情報の真偽だな」
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