第九話 待て、シャイロック<後編>
もっとも著名な劇作家の一人であるウィリアム・シェイクスピアが『ヴェニスの商人』を執筆したのは、一五九六年から九七年にかけてだと推定されている。その明快な筋と胸のすくような大逆転劇の面白さから、学校の文化祭でしばしば演劇になる演目である。
ルファル――矢倉文也もまた、中学生の時に主人公アントーニオーの友人であるグラシャーノーの役を演じた経験があった。
商人であるアントーニオーは自分の胸の肉一ポンドを担保に高利貸しのユダヤ人・シャイロックから大金を借りた。しかし、商船は嵐によって難破し、シャイロックに返済するどころか全ての財産を失ってしまった。このままではアントーニオーの命がユダヤ人に奪われてしまう――そこでアントーニオーの友人たちは一計を案じ、法廷の場で証文の文言を逆手に、アントーニオーの命を救い、シャイロックを逆に追いつめるのだ。
グラシャーノーは、法廷の場でシャイロックに向けて随分と強い言葉を放つ。矢倉は中学生という多感な時期にあったこともあり、ステージの上ではすっかりグラシャーノーになりきっていた。終幕の後、多くの教師が矢倉の真に迫る演技を褒めた。学級の中心ではないが、聡明さでは誰にも引けを取らず、どこか達観して浮世離れした矢倉の豹変ぶりに、目を皿のようにして見入っていたのだ。
彼等は後日、口々に言った。
――あの様子なら、矢倉君も大丈夫ですね。
――ええ、子どもらしくないのがたまに気になりましたが、彼も普通の子でしたね。
――きっと元々内気なのでしょう。ナニ、ちゃんとしていますよ。今後は普通に指導して良さそうですな。
教員は面倒ごとや、出る杭を嫌う。矢倉をそれまでその雰囲気から性格にやや難ありと判断していたのだが、その憂いもなくなったという訳だった。
また一つうわべの平穏に浴していた教員の予想に反し、矢倉の態度や雰囲気が変わることはなかった。教師たちは、矢倉がステージの上で見せたあの快活さをその後も見せてくれると――演劇によって、彼は変わってくれたのだと信じていた。
当の矢倉は、確かにあの瞬間、法廷の場で大声を張り上げ、快活に物語を進めるグラシャーノーだった――そう、あの瞬間は。
グラシャーノーは立て続けに、シャイロックに言葉を浴びせる。「おい、聞いたかユダヤ人」――「おい、ユダヤ人!」――「おい、不信心者」――挙句は――「お頼みしてみろ、首をくくることを許して下さるようにな」。
グラシャーノーは――矢倉は――有頂天だった。おれが裁判官に変わり、正義を代行してやるのだ。そうだ、彼こそが裁かれるべきなのだ。そう告げる役割が、おれたちにあるのだ。
しかし、皆がシャイロックに与えたのは、正義ではなかった。
公爵は言った。「命は助けてやる、頼まれずともな」。
アントーニオーは言った。「この男の財産の一半にたいする罰金も、免じてやってくだされば何より」。
それを受けて、法学博士に扮したポーシャは言った。「お救いできて、私も満足」。
あの場でグラシャーノーだけが、それでもなおシャイロックに『正義』を下そうとしていた。それに気付いた矢倉は、背中に冷水をかけられたようだった。グラシャーノーだけが、孤立している。――おれは道化か。
それに気付いても、劇は止まらない。矢倉は一層感情的に、より大げさに役を演じたのだった。だが、ひとたび心に根付いた孤独感が消え去ることはなかった。
「あちらの世界」の十年以上前の苦々しい記憶が脳裏を過ったのは、ルーデルとフィオレールの参加した軍法会議が、『ヴェニスの商人』のクライマックスと大きく重なったためである。
フィオレールを謀反の罪で訴えたルーデルは、軍法会議の場で涙ながらに、王城より派遣された白髪の裁判官に向かって掟と軍神ラ=トゥールの名の下に弟の追放を訴えた。彼の手元には、フィオレールが目論んだとされる謀反の実行計画書があった。
ルーデルは言った。
「市民に危害を加えようと目論んでいたことが明白になった場合は、その物の財産の半分を公財として接収し、伯爵領外の地域へと移管することになっている。……フィオレール、おれは涙を呑んで、お前をズゴジェレツ伯爵領の外へと送り出すつもりだ」
しかし、フィオレールはあくまで冷静だった。証人として部下を召喚する許可を得ると、彼は部下より手紙の束が入った箱を受け取り、それを裁判官に差し出した。箱の中身を悟ったルーデルは一転して蒼白になった。聡明な弟は、余裕たっぷりで法廷の席に深く腰掛け、両の指を組んでおもむろに口を開いた。
「裁判官どの、そこにあるのは――手紙の束です。ああ、見てわかる通りですがね。先日、兄の部屋を掃除しておりましたところたまたま――それらを見つけてしまったのです。
鍵が机の下に落ちておりまして、それがどうやら机の上に置いてある文箱のものらしいなとおもったわたくしは、つい出来心でその箱を開けてしまったのです。最初は、兄にもついに恋人ができたのだろうかという、若さゆえの好奇心ゆえでありました。ですがそこには、恐ろしい事柄が書き連ねてあったのです。
差し出し主は、西方の草原で暮らしております、ハンという騎馬民族の長だったのです。そこには事細かに、侵略と執政官地位の強制交替の手筈が記されていました。
それは大まかに言いますと、三つの段階で計画が組まれておりました。手始めに、わたくしを追放する。次に、騎馬民族が交易交渉に訪れる。最後に、交渉の最中に発生した衝突で戦死した父上に代わり臨時的に伯爵となった兄がハンと平和的通商を結び、王国の救世主かつ西方との外交の窓口として君臨する。『弟のフィオレールがそんな動乱があったとは露知らず、田舎の農村を長閑に平和に治め、平穏に一生を終えることができればよいのだが』、とハンは手紙の一部で記しておりました。
つまり兄者は、騎馬民族来訪の兆候を察した上で、弟のわたくしを被害が及ぶ前に、どこか遠くへ送り出すという、先手を打とうとしてくれていたのです。何と我が兄の聡明なことか……それすらも分からず、わたくしは何と愚かなことをしてしまったのでしょう。この軍法会議という場で、兄の必死の思いが詰まった文箱を皆様の前にお見せしてしまったのですから……。
裁判官殿、どうぞ私を伯爵領外へとお送りください。わたくしは喜んで、半分となった財産と共に、運命を受け入れましょうぞ。兄者、このズゴジェレツはお任せいたします。どうぞ……騎馬民族の僕として、カデンツの家名を背負う覚悟がおありなのならば」
フィオレールが言い終えて瞳を閉じた時、沈黙が法廷を満たしていた。裁判官が手紙を開き、閉じる音が響き、それ以外は誰も、身じろぎ一つ立てようとしなかった。真正面に相対する被告人と原告の席を囲うように、半円形に席が配置されていたが、そこから注がれる視線は、額に脂汗を浮かべ蒼白になったルーデルの顔を針のように刺していた。
ややあって、顔を上げた老裁判官は、全体を見渡して言った。「兄ルーデルを追放の身とする。彼の者の処分は、父アズリエルに一任しよう」
こうしてルーデルは、ズゴジェレツの遥か南東、カプローニと呼ばれる群島に移管された。フィオレールはルーデルに代わり伯爵領を継承したが、その二年後、一連の騒動を受けてズゴジェレツ領カデンツ家は所領を没収された。いわゆる「改易処分」である。ズゴジェレツは王家直轄領となり、行く当てを失ったフィオレールは姓を中央の読み方である「ゲルリッツ」に改め、人質として豪傑公の養子となった。彼は公の場で、「ゲルリッツ先王」と呼ばれた。
ゲルリッツ=カデンツ家の始まりである。
「……なるほどな。それで、直轄領が飛び地として存在していたのか」
「そういうことです。……そういえば、其処については特に疑問とかなかったんですか? 召喚の方とはいえ、異国からすればそれなりに異質な制度ではないかと……」
「まあ、それもそうだが……」江戸時代の天領が長崎、大坂、隠岐、飛騨など列島各地に存在していたことを考えると矢倉――ルファルにはそう珍しいことでもなかったのだが、「こちら」ではそういうわけでもないらしい。
「……聞く暇も無かったのでな。それに、調べようと思えば調べられることだろうと」
「まあ、大尉はそういう人ですよね。もっと補佐官の私を頼ってくれていいんですよ?」
「ああ、今度からはそうさせてもらうよ」そう言ってルファルはコーヒーを一口含んだ。メイリアが熱弁を振るっている間に冷めてしまったようだ。
「しかし気になるのはその後だな。なぜ、分離されたのか」
「そこが一番の謎なんです」
「何?」思わずルファルは顔を顰めた。王家からの分離となれば、王家自身にとっては大事件である。いくら王家の本筋にとって都合の悪い事件とはいえ、それほどの重大事件となれば記録を残している歴史家がいても良い筈だ。――よほど情報統制の強い国家なのか?
「何しろ、先の大戦で学問体系が荒れに荒れ果てたものですから……歴史系は特に。ゲルリッツ家が分離されたのも大戦のときらしく、それで資料がないんですよね。アマチュアの歴史家の中には、戦時のどさくさに紛れてゲルリッツ家分離に関する資料を王家が破棄したのではないかと推論する者もあるくらいで」
「確かに、戦時に資料が処分されるというのはよくある話だ。だが――それだけではないだろう。七十年たった今でも謎とされているのには、何か別の要因があるはずだ」
流石大尉、とメイリアは手を打った。カップのコーヒーを飲み干した彼女の口から発せられた言葉で、ルファルは眉間の皺を深くした。
「面倒なことに、その大戦の時に王の座に就いていたのが、先々代の王――ゲルリッツ先王の義兄――親学公ことサムエル一世なのです」
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