第一部 美しくもなく、神聖でもなく、善でもないかわりに真ではありうる

第五話 きちんと整頓された秩序があるか、もしくは雑然たるこたまぜか

 ――大尉。大尉。――ルファル上級大尉。


「聞こえておられますか。ルファル上級大尉!」


 するどく衝くような声が耳朶を打ち、ルファルははたと我に返った。ひどく掠れた文字列とも落書きとも分からぬ黒インクの集合体から目を上げると、赤毛を肩のあたりまで伸ばした女が、両手を腰に当てて机越しに立っているのが目に映った。彼女はしばらくその姿勢のままであったが、下あごを突き出して深く溜息をついた。切りそろえた前髪がかすかに揺れた。


「またそんなものの解読を試みておられるのですか? 私たちの任務は大古文書パピルスの『回収』であって、『解読』ではありませんよ」

「もちろん、心得ているつもりだ。何せ文部卿からの直々のお達しだからな。とはいってもおれは司書官ゼカリウスだ、内容が気になるくらいは仕方ないだろう?」

「まあ、それは……大尉の性格を考えれば納得ですが……」と彼女は眉根を上げた。眉間の皺がいっそう深くなった。


「それは二の次です。今は、復興させたばかりの公文書館アルキフスを稼働させることが最優先ですからね」

「まあまあそう熱くなるな、メイリア准尉」


 ルファルは大古文書パピルスを崩さぬように慎重に巻き上げ、木箱に戻した。メイリアと呼ばれた女性は釈然としない様子で、尚も口を尖らせている。彼女は首に巻いたスカーフを正し、「いいですか、上級大尉」と腕を組んだ。


「私たちに課せられた任務は大きく二つ。

 一つ、散逸した大古文書パピルスの本物を、回収せよ。二つ、公文書館アルキフスの機能を東方戦役以前のレベルまで修復せよ。


 一つ目はまあ、無期限という所に鑑みても順調と言っていいでしょうね。それに、私たちも大尉の鑑識眼は信頼していますし……。しかし、しかしですよ、問題は二つ目です。『二年以内』というのが国王陛下のご要望のはずです。これを果たせなければ、私たち書誌隊は解散。その命を受けてから、一体どれほど経ったかご存知でしょう?」

「……まあ、半年だな」

 ルファルは苦笑しながら言った。それが気に食わなかったのか、メイリアは両手を机に叩きつけた。


「そうです! 半年ですよ! 四分の一を消費したんです! しかも、その殆どは大尉、あなたの無意味な古文書解読の時間です! あなたが雲をつかむ様にうだうだやっている間にも時間は過ぎていくんです。

 書誌隊のトップに就いているのであれば、少しは公文書館の業務を手伝ってください。書誌検索にしろ、教育にしろ、今は人手が足りていないんですから。たった十五人で、この大図書館を運営していかないといけないんですよ」


「承知の上だ。だから今、こうやって書物の解読に当たっているんじゃあないか」


 ルファルはあくまで飄々としている。掲げられた細長い陶器のマグには、隣国の特産品であるコーヒーが湯気を立てている。建物の最西端に位置する事務所の中に西日が斬り込み、メイリアの赤毛を一層朱く照らした。


「書物の解読と、私たちの優先業務と、まるでつながりがありません。私には……いえ、私たちには、あなたは国王の命をいとも容易く破棄する逆賊そのものに……」


「メイリア・レルヒェンベルク」


 ルファルは静かに言った。決して大きな声ではなかったが、メイリアが矢継ぎ早に放っていた言葉をぴたりと止めるほどの重みがあった。

 ルファルはあくまで静かに――しかし決して彼女から目を逸らさずに――立ち上がった。メイリアは出過ぎた発言に対してか、申し訳ありません、と居直ったが、大尉はそれを咎めなかった。

 わずか数秒であったが、その沈黙は上官の威厳を示すには十分すぎるものであった。


「図書館の六つの機能、覚えているな」

「き……機能ですか? もちろんです。資料の収集、整理、それから……」

「いや、ここで列挙する必要はない。覚えているのなら問題ないよ。ならば、図書館資料を利用者のために適切に整理することの必要性もわかっているはずだ」


 メイリアは上官の発言の意図を掴みかねているのか、首をわずかに傾げた。

「いいか、おれたち書誌隊が国王陛下から賜った任務の二つ目はなんだった。だな。それはいいだろう、しかし現状はどうだ」


 ルファルの視線が、明るい木製のドアの方へ向けられた。そのドアの先にあるのが実質的な「閲覧室」であったが、その状況は――その惨状は、お世辞にも良いものとは言えなかった。


 「東方戦役」と呼ばれる十五年の戦争が終結したとき、公文書館アルキフスの運用を知るものは誰一人としていなくなっていた。文民である司書官ですら、戦役に駆り出されたのである。

 主を失った公文書館アルキフスはもはや単なる倉庫となり、専門家の消えた倉庫を訪れる者は、次第に減っていった。ごく稀に、戦前からの利用者が――その大半が学者の生き残りか、物好きの老人であった――事務所の窓に顔をのぞかせるのみとなった。若者が書物に親しみ、上階で子供たちの笑い声が響く在りし日の公文書館の面影は、今やどこにもない。やがて国内最大規模を誇った公文書館の内部では、資料が雑多に入り交じっており、一冊を探し出すだけで一日を要することがあるほどまでになってしまった。


 国王は、これほどまでに失墜した公文書館の機能レベルを、東方戦役以前と同等に引き上げよ、と言いつけた。文部卿がこれでもかなり譲歩してくれたらしいのだが、公文書館の規模を考慮すると、かなり難易度の高い注文であることは明らかだ。


 地道に資料を整理し、提供していくだけでは絶対に間に合わないな。ルファルは確信した。業務を効率化していくことが重要だった。そのためには、いくつかの課題を同時にこなす必要があった。


「現状、それらの六つの機能はほとんど機能していない。ゼロに等しい。それらを同時に引き上げなければならない……そうなったとき、おれたち司書官ゼカリウスにおいて最も大切なのはなんだと思う」

「……頭のよさとか、使命感とかでしょうか」

「なるほどな。それも確かに必要だ」ルファルは笑いながら腕を組んだ。だが、と再び下士官の両目をしかと見据えた。メイリアは、たまに向けられるこの視線を無意識のうちに避けたがっていた。

 ――書物というものに対して向ける視線が、私と大尉とではまるで違うようだ。


「知ることだ。資料を知らねばならない。ここにどのようなものが、どのような人のために集められているのか。おれたちは知らなければならない。それが、公文書館の機能を引き上げる最短ルートだと信じている」


 だから准尉も励んで読書しろよ、と彼は最後に軽く付け加えた。短く返答したメイリアを見て、彼は満足げに腰を下ろし、コーヒーを一口含んだ。


「……ところで、そもそもの用事はなんだったんだ?」

「あっ……そうでした」


 メイリアは机に置いていたバインダーを取り上げ、薄茶色の紙の最上段に書かれたメモを読み上げた。ルファルにとっては日常的な検索の依頼である。


 だがその日は、何かが違っていた。


、そうです」

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