第三話 I’ve waited here for you Everlong.

「無事にこちらに来れたようだね」と、聞き覚えのある声がした。


 矢倉が体を起こして声の方を見ると、部屋の反対側、胸元が大きく開き、すらりと足元までを覆う黒の長衣トーガを纏った長髪の人物が、窓枠に寄りかかっている。手元には読みかけの本が載せられていた。装丁が「あっちの世界」でいうところのソフトカバーなので、目の前の人物が読んでいるのは小説か何かだろうか。


「あんたは……さっきの猫か?」と矢倉は彼、あるいは彼女に尋ねた。体つきが華奢で、顔立ちが中性的なせいで、見た目では性別が曖昧だ。

「ネコ……なるほど、私は向こうではネコという生き物の姿をしていたんだね」


 ああ、と彼または彼女が手を打った。「あちらの世界」と「こちらの世界」では容姿が違うらしい……にしては、違い過ぎるような気もした。何しろ、人間と猫とでは動物の種としてまったく別物だ。それにしても、

「おれの言葉がわかるのか?」と矢倉は目を丸くした。「あちらの世界」から「こちらの世界」に来たのにも関わらず、言葉が通じるのもおかしな話だ。「もちろん」と彼又は彼女は大きくうなずいた。


「私は――いや、私たちはここで君が戻って来るのを永いこと待っていたのだからね。……釈然としないかい? それもそうだろうね。何しろ、君の魂だけがこの世界に乗り込んできたのさ。だから、私が君の言葉を解るのではないよ。のさ」


 「魂だけ」という部分が殊更強調されていた。ぽかんとする矢倉を目の前に、彼または彼女は切れ長の目を少し細めた。


「まあ、追々分かってくるだろう。それで、ネコというのはどんな生き物なんだい? 君は向こうでの私の姿をよくよく知っているのだろう」

 彼または彼女は手に載せていた本を閉じると、目を丸くして言った。初めて知ったものについて母親に執拗に尋ねる幼児のようだった。

「猫……猫っていうのは……」


 本が書架に戻されるのを尻目に、矢倉は猫をどう説明しようかと考えていた。

 哺乳綱食肉目ネコ科に属する動物の総称であり、ヨーロッパヤマネコの亜種であるリビアヤマネコを家畜化したもの、つまりイエネコを指す。――ということを言ってもどうしようもないのは明白だ。彼または彼女の発言からするに、「こちらの世界」には「ネコ」という概念がないか、あるいはその概念に対応する動物を「ネコ」とは呼ばないのだろう。


「自由で、軽快で、かわいい生き物だよ。バネみたいに伸び縮みするし、液体みたいにふにゃふにゃだ」結局矢倉は、猫という生き物から生み出されるイメージを語った。


「へえ、そりゃ随分と……」奇怪な生き物だね、と「元猫」は顔をしかめた。思ったより反応が芳しくないのは、バネみたいとか、液体みたいとか表現したのがまずかったからだろうか。

「そうはいっても、可愛い生き物だよ。ペットとしても五千年くらい飼われているし」

 ふーん、と元猫はさして興味もなさげだった。そもそもあちらの世界には興味を持っていないのかもしれない。


「ところで、名前は何て言うんだ? あんたは男なのか? それとも女? それから、この世界のことも教えてくれ」と、矢倉は気になっていることを矢継ぎ早に尋ねた。元猫は書架の隣に置いてあった丸椅子を持ってベッドの側に静かに歩み寄ると、矢倉の隣に腰掛けた。陶器のように白く長い脚が、長衣のスリットから覗いていた。


「私の名は、そうだな……マハルと呼んでくれ。皆もそう読んでいる。それから私は男女のどちらでもない。『ウノ』だからね」

「ウノ……」

「そう。我々が暮らすドニゴール大大陸だいたいりくの人間には、オムファム、第三の性別としてウノがある」と、マハルは指を折りながら説いた。


「ウノは他の人間と同じように生まれるが、男や女のような生殖能力を持たない。それを犠牲に、脳機能が一部発達している。詳しく言うと、前頭葉、側頭葉、頭頂葉を繋ぐ神経回路が縦横無尽に張り巡らされ、かつ回路が増えて強力になっているのさね。これはイメージできるかい?」

 専ら文系の矢倉であっても、それくらいは理解できた。前頭葉は思考を、側頭葉は記憶を、頭頂葉は外界の感覚を司る部位だと高校の生物で教わった。ということは、

ウノという性別は通常の人間と比べて、高度な思考や柔軟な発想に長けている……ということで合ってる?」

「そういうこと。理性に特化した分情動とか感情の起伏はかなり乏しいから、周りの人間から見るとあまり面白くないらしいがね」

 マハルは右のこぶしを口元に当てると、ククッと短く笑った。


 その時、ドアをノックする音がした。マハルはドアの方を見やると、おっと、と驚く仕草をしてみせ、丸椅子から立ち上がった。

「丁度いいタイミングでお迎えが来たみたいだね。さて、行こうか」

「待ってくれ。おれは……おれは『こちらの世界』ではなんという名前なんだ?」

「矢倉文也。君の名は、『ルファル』。君はこれまでそう呼ばれていたし、これからもそう呼ばれることになる。覚えておきたまえ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る