第二話 猫乃歎息舉首仰睨吾顔
マンションの階段を降りると、矢倉は当てもなく歩いた。既に日はとっぷりと暮れており、矢倉はパーカーにコート一枚で外出した自分を少しばかり恨んだ。こじんまりとした一軒家と小さいマンションが立ち並ぶ住宅街に、革靴の音がやけに響いて聞こえた。
五分ほど歩き回っていただろうか。民家の庭から一匹の黒い猫が飛びあがり、塀の上に立ったのが見えた。こちらにむかって滑るように歩いて来る。
「よお、お前もお出かけかい」
「とんでもない、待ってたんだよ」
「そうか。……なんだって?」と、思わず矢倉は後ろを振り返った。この猫、いま人語を話した……?
「おいおい、そんなに驚くことじゃあないだろう」
三歩先、同じ目線の高さにいる黒猫が、にっかりと音を立てるように笑った。矢倉は思わず、この不思議な生き物に近づいた。
「おれは……夢を見ているのか?」
「いいや、夢じゃあない。君の目の前に立っているのは、正真正銘の本物の猫だよ」
「……」
「まあ、正しい反応だね。喋る猫に出逢ってはいそうですかと直ぐに受け容れるのは、童話の哀れな小娘か、稚拙な小説のニヒルぶった主人公だけさ」
「もしもこれが現実だとして」
そう言って彼は言葉を切った。猫は目の前の人間が言葉を選んでいる間、退屈そうにくぁっと一つあくびをした。真っ黒な体毛の中にひかるクリーム色の環が、一瞬細い線になった。
「おれはこれからどうなる? どこかに連れていかれるのか?」
「ほほう、ご明察とはやるね。さすが、物語の道に深く根ざしている男なだけある。付いてきたまえ」
そう言って猫は満足げに喉をゴロゴロと鳴らすと、そろりと踵を返し塀の上を歩き始めた。矢倉はぼうっとその場に突っ立っていたが、五メートルほど先の街灯の灯りの下で猫が振り返ってこちらを見てきたので、思わず駆け足で追いかけた。
猫は住宅街を縦横に駆けて行った。後ろを振り返ることなく、まるで後に走る人間がきっと逸れないと確信しているかのように、軽やかに塀から塀へ、屋根から屋根へと飛び移って進んでいく。矢倉は夜の闇に殆ど同化している猫の足取りを見失わないようにするのが精一杯だった。
やがて黒猫はひらりと塀から飛び降りると、「ここだ」と言って目的地に顔を向けた。街灯のない中では暗くて色はわからなかったが、独特の形をした門が並んでいるのが見えた。その門をくぐるように石畳が続き、その終点には小さな家のような建物がある。こぢんまりとした稲荷神社だった。
ポケットのスマホを取り出して見ると、家を出てから二十分以上経っていた。矢倉にとっては、街中にこんな稲荷神社があったことよりも、そんなに長い時間住宅街の中を歩き続けられたことの方が驚きだった。周辺はもっとコンパクトな街だと認識していただけに、なおさらだった。
「ここを潜っていけば、いいのか?」矢倉は息を弾ませながら言った。
冷たい空気が呼吸をするたびに脳を駆け巡り、彼は冷静さを取り戻していった。喋る猫は相変わらず足元に立っていたし、自分は見たこともない神社の前に立っている。考えてみればみるほどおとぎ話のような事実が積み重なっているのにも関わらず、不思議と怖さはなかった。
「ああ。我々は君を待っている。だが行くも行かぬも君次第だ。これは、ある意味で君にとっては重大な選択だからね」
「選択……」
「そう。今のままやり場のない煩悶をちまちまと小説やジャーナルの原稿にぶつけるのか、それともこれまで身に刻んできた知識と感性を頼って新たな世界の扉を開くのか。大袈裟なようだけど、これはどちらも事実だ」
「もし、これを潜ったとして……『今の世界』のおれはどうなる?」
「心配ないよ、存在は消えない。ただ、認識されないだけでね。例えば君がある電車に乗っている時、別の電車は視界にないけれども、確かにその路線上に存在しているだろう? それと同じことだよ」
「……おれは、可能性があるのなら、新しい世界に行きたい」
矢倉は徐に口を開いた。一語一語噛み締めるように、あるいは自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を継いだ。
「今のおれには、もはやすがるものが何もない。学問も諦めて、さらには文学の道すら手放そうとしている。でもそうなったら、おれはおれでなくなってしまいそうな気がするんだ。ならば」
彼は一歩、また一歩と歩みを進めた。石畳が乾いた音を立てた。
「今のおれが持っている可能性を、この目で確かめたい」
背後で小さく、猫の声がした。「ああ、その心意気なら大丈夫だ」
最後の鳥居を潜り終えた時、彼は自分がベッドの上にいるのを感じた。木製の天井が、視界を覆っていた。彼は思わずぼやいた。
「……知らない天井だ」
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