トトの誘惑

有明 榮

本編

プロローグ どうしておれは、不幸であることを自分に許すことができよう。

第一話 Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ

 アーネスト・ヘミングウェイがアバクロンビー・アンド・フィッチで購入したダブル・バレルのショットガンで自殺したのは、航空機事故の後遺症による、躁鬱などの精神的障害が原因とされている。一方で、川端康成がストーブから引き込んだガス管を用いて自殺した原因は明らかにされていない。


 もしもこの現代、彼らのような世界規模の大作家が自ら命を絶ったとあらば、その情報は瞬く間にして世界を駆け巡って大手新聞の号外と翌日の朝刊一面を飾るだろうし、テレビには蒼白になって臨時ニュースをお伝えいたしますと原稿を読み上げるアナウンサーが映るだろう。街がたとえクリスマスムード一色であったとしても沈鬱な面持ちの人を視界から外すことはできないだろうし、人知れず自宅で大量の睡眠薬を口にする者たちだっているだろう。


 翻って自分のような無名の、駆け出しですらない、都会の渦に流されているだけの個人作家が非業の死を遂げたとして、悲しんでくれるのはせいぜい、家族と大学以来のアマチュア作家仲間くらいのものだろう。ノートパソコンのディスプレイを音もなく閉じると、矢倉文也やくら ふみやは大きくため息をついた。


 人生、悪いことは重なる。四半世紀と少しばかりしか経っていない矢倉の人生の背骨に刻まれた、揺るぎない経験則だった。しかし予測可能回避不可能という文字列がその隣にいつだって並んでいるものである。この九文字が今まさに、彼の双肩に重く重く、のしかかっている。


「落……選……」


 フリーライター・麻美鶴あさ みつると名乗って早三年が経とうとしていた。個人のクライアントが支払い直前に蒸発したとか、単行本の装丁が連絡されていたものと違ったりとか、「ちょっとした」事件はそれなりにあった。だが三ヶ月前、小説を寄稿している出版社が、とある図書館の指定管理者――公共施設を期限付きで管理する法人などの団体をいう――の枠を巡る贈賄疑惑により不祥事を起こした、というニュースが夕飯を作っている最中にテレビから発せられたときには流石に肝が冷えた。有り得る中では最も有り得ないトラブルだったからだ。


 彼は流れ弾に被弾した。寄稿先の雑誌の受入数が減少し、発行部数も減らされたことで、収入が目に見えて下がったのである。

 人生、悪いことは重なる。その事件が影響したのか定かではない。いや、していないと思いたかった。とにかく、ことが起こったのは事実だった。

 某出版社主催・文学賞。二次選考にて落選。三次選考を通過し最終候補にまで挙がらない限り、講評のコメントすら返ってこない。昨年、一昨年と別の文学賞では講評が返ってきていただけに、魂の抜ける想いすらした。


 冷え切ったマグカップのコーヒーを流し込み、椅子の背凭れに体重を預けると、壁に張った横長の紙切れが目に入った。



 Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ



 ヘー・アレーテイア・エレウテローセイ・ユマース。『ヨハネによる福音書』に記された古代ギリシア語であり、国立国会図書館の理念でもある。意味は、「真理が我らを自由にする」。


 大学の一講義で雷に打たれたような気分になるのは初めてだった。文学など学んで何の意味がある、と実家に帰れば常々口を尖らせていた親兄弟や親戚の影が、昏く黒く心の奥底に落ちていた矢倉にとって、その言葉はまさに一条の光だった。


 文学を学ぶ意味? 学ぶという、それこそが意味なんだ。過去に積み上げられてきた思想という事実が、真理が、おれの心に翼を授けてくれる。真理がおれを自由にするのだ。矢倉はコピー用紙を切り貼りして、マジックで大きくギリシャ文字を連ねた。


 だが、矢倉は自由の翼を得られなかった。結局、彼は大学院へは行かなかった。巨人の体をよじ登れる者は大勢いるが、その肩の上に立てる者は少ない。彼は、独り挫折を感じて大学を離れた。とはいえ、その言葉を手放すことはなかった。希望を手放さなければならなかった矢倉にとって、その言葉だけが文学に、いや小説を書くという行為に縋る理由だったのだ。


 そのはずが、今更縋る理由すら消えかかっている。矢倉の目の前にあったはずの物語の宇宙は、砂の城が波に洗われるように崩れていく。


 もはや、おれには何もない。無性に苛立つ自分に嫌気を覚えながら、クローゼットからコートを引っ張り出し、テーブルのスマホを引ったくるようにポケットに突っ込むと、財布も持たずに彼は家を出た。

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