第36話「課長も言っていただろ、俺に任せろって」
光陰矢の如しという言葉をこんなにも実感したのは初めてのことのように思う。
それほどこの一週間が過ぎるのは早かった。
気付けば出張当日の朝を迎えており、旅発つときが迫っていた。
これから仕事に追われる日々が続くとはいえ、幸いにして初日はまだゆとりがあった。
いつもより遅い時間に起床すると、朝の身支度を済ます。
使い古されたトランクケースには昨日のうちに着替え等を詰め込んでいたので、歯ブラシや洗顔料だけを後から入れれば、それだけで準備は万端だった。
「京都ってどういう所なのでしょうっ、楽しみです!」
「お前はほとんど指輪だから観光どころじゃねえと思うがな」
「む、景色くらいなら指輪のままでも楽しめますからっ!」
地団駄を踏んで頬を膨らますミコ。これから向こうで過ごすうちは大きく自由が制限されることを思うと、今のこの騒ぎっぷりも案外許せるものだ。
「京都には新幹線で向かう手筈になっている。八重樫を待たせるのも悪いしさっさと行くぞ」
駅で待ち合わせて行くことにしたが、万が一ここで俺が遅れでもしたら上司としての示しがつかない。
指輪に変身したミコを右小指に嵌める。
今となってはすっかり慣れた儀式だが、今日この日に限っては流石に緊張を抑えられなかった。
平日の昼であっても都市部の駅というのは本当に人混みが多い。
出張に行く俺と同類か、はたまた外回りの途中か。
皆一様にスーツに身を包み、脇目も振らず我が道を行く光景はいつ見ても慣れないものだった。
(うう……この場所、満員電車と同じくらい居心地が悪いです)
(電車に乗れさえすれば腰を落ち着けることができるんだがな……あいつ、一体どこにいるんだ? もう約束の時間を過ぎてるぞ)
待ち合わせ場所に指定した鈴のオブジェ、その周辺を探ろうとするも見知った姿は一向に見つからない。
人ごみに視界が覆われてしまっていたためだ。
「仕方ない、こうなったら電話で――」
懐から携帯を取り出そうとしたそのとき、視界の端で何かが動くのが見えた。
といっても辺りでは人が歩いているのだから動きがあるのも当然で、本来なら特に気にするものでもないはずだが。
それでは俺がその動きをわざわざ気に留めた理由が分からない。
違和感の正体を確かめるためその方に目を向けると、行き交う人の流れとは別の、縦の動きがあった。
(なんか、ぴょんぴょんと跳ねてらっしゃいますね)
端的に言うとミコの言葉通りで、何者かがホームの床を蹴って飛び上がり、頭をきょろきょろと見回していた。
(背が低くて辺りが見えなくなってるのか。あいつみたいな格好だとこういうとき待ち合わせに苦労するだろうな――)
と、他人事のように流そうとしたが。
「って、おい。まさかあいつ、八重樫か……!?」
よくよく目を凝らしてみるとその人物には見覚えがあった。
肩口を擽るライトブラウンの髪に、淡いベージュのレディーススーツ。
服に着られているような格好とあどけなさと綺麗さが同居した容貌。
間違いなく、俺の部下の八重樫玲奈その人だった。
「あっ……! 九原先輩、やっと見つけました!」
人の流れが落ち着いた頃を見計らって近づくと、俺の方へ手を振りながら朗々とした声で迎えてくれた。
往来で飛び跳ねたり、俺に向ける仕草だったり、普段の言動を考えてもやはり子供っぽい奴だと思った。
「ったく、もう少し落ち着きを持ってくれ。曲りなりにも社会人だろうが」
「それはそうですけど……その、先輩の姿が見えなくて、私また間違ってしまったらどうしようと……」
思いの外しおらしい態度に言葉が詰まる。いつもはこちらを煙に巻くような言動が目立つというのに珍しい。
失敗したらいけないという重圧が本心を引き出したのかもしれない。
(意外と根は素直なのか……?)
(お、ときめいてしまった感じです?)
(断じて違う)
どちらかといえばときめいているのはミコの方なのではないか。最後に会ったときは辛辣に振る舞っていたというのに、今ではすっかり優しげな口調だった。
「あの……予定の列車には間に合いますよね?」
「それは大丈夫だろ。少し合流に手間取っただけだ。何も気にする必要はない」
「そうです、か……」
スーツケースの持ち手を両手で握り、視線を落とす八重樫。
表情は見えないが、まさかあれだけ笑顔を振りまいていたというのに、今さらになって落ち込んでいるのだろうか。
「……はあ。それじゃそろそろホームに行くけどな、八重樫。そんな気負う必要はないんだぞ」
「え……?」
「入ったばっかのお前にそこまで仕事をしてもらうつもりはないってことだ。課長も言ってただろ、俺に任せろって。いつもの研修にちょっとした旅行がくっついたもんだと思っていい」
「でもそんな気楽でいいんですか……?」
「いいんだよ、こういうのは割と個人の裁量に任せられている部分も多いからな。非日常を楽しまないと、環境の変化によるストレスや仕事の重圧が一気に悪い方に作用するからな」
出張には何よりタフさが求められる。
緊張した八重樫を和ませる意味でも大袈裟に話をしてやったが、中々効果は覿面のようで。
すぐにいつもの小憎たらしさが戻ってきた。
「ふふふ……確かに、九原先輩はいっつもやる気なさそうなくせに、仕事が出来るって周りの人たちが言っていました」
「おいちょっと待て、誰がそんなことを言ってんだ。話せ、口封じるから」
「三浦さんと、一条社長は特にそうおっしゃっていました」
「どっちも上司だから手の打ちようがない!」
そうして雑談を楽しむうち、俺の中にあった八重樫に対するぎこちなさも次第に薄らいでいって。
新幹線の座席に座る頃には程よい空気が流れ始めていた。
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