第18話「あれはわたくしの決意の、願いの、理想の象徴であるのですから」

 結論から言ってしまうと、一条彩萌が探している猫のポーチはここにはないようだった。

 休憩用のベンチから茂みの中まで隈なく探したように思うのだが。


「一条さん、よければお茶でもどうぞ」


「……お気遣いありがとうございます」


 沈みつつある夕陽よりも深く沈んだ表情の彩萌が、綾鳶あやとびと印字されたラベルの飲料を目も合わせずに受け取った。

 公園に来るまでもどこか様子がおかしかった彼女だが、これは明らかに異常だった。


(一条様、とても悲しそうです。晃仁様の予想ならここにあるはずなのに……)


(そうだな。だがこれは恐らく――)


 ここにはないのなら、恐らくは別の所にあるのだろう。そしてその居場所というのもおおよそ検討がつくものだが。

 俺はいったんそれを置いておいて、とりあえず彩萌が腰掛けるベンチの隣に深く座った。

 片手に持った無糖の缶コーヒーを開け、一気にあおる。冷たく慣れない苦さを滲ませるそれに、今日はどうも珈琲に縁があるな日だなとふと思った。


「……あの、私が必死になってひとりで探していた理由ですが」


 ついさっきしていた話題を蒸し返す彩萌。俺はそれに口を挟むでもなく聞いていた。


「あのポーチはわたくしのご学友と一緒に選んだものでして。家族でない方々と買い物をしたという貴重な経験もあって、とても気にいっていたのです」


「でしょうね。上手く取り繕っていましたが、やはり心配を抑えきれていませんでしたから。しかし一条さんがそこまで落ち込んでいる理由は、それだけではないですよね?」


「……本当に鋭いですわね。お父様が気にいっているのも頷けます」


「え、それは初めて知りましたけど。まあ、とにかく。俺が入社してからの付き合いですから、多少は分かりますよ」


 初めて出会ったとき、彩萌はまだ小学生だったか。

 いま目の前にいる美しく成長した彼女を見ていると、時の流れを自覚させられて何となく嫌になった。

 それと同じだけの時間、あるいはそれ以上を、俺はただ立ち止まって過ごしてしまっているものだから。


「あのポーチは大切なものですから、中にもわたくしの大切なものを入れて持ち運ぼうと思いまして。いつかの誕生日にお父様から貰った懐中時計を」


「ああ……」


「幼いころから兄姉と比べて出来が良くなく、落ち込みがちだったわたくしを励ますために。飛躍的ではなく一歩一歩等間隔にしか歩めない時計の針であっても、確実に前へと進んでいる。だからわたくしにも、たとえ遅くても前に進んでいけるという自信を持ってほしいと、お父様が」


 気障な一面があるあの社長がやりそうなことだと思った。そしてそれが彩萌にとってかけがえがなく大事なのだということも。


「だから執事にも連絡しなかったんですね。家にバレてしまいたくなかった」


「その通りですわ。あれはわたくしの決意の、願いの、理想の象徴であるのですから。それをあの頃からなんの成長も感じられない、愚かな不注意で無くしただなんて……!」


 後半の方は声が震えていた。だから俺は決して横を向かなかったし、いつもは騒がしいミコも、神妙な息を漏らすだけで何も話すことはなかった。


 話の途中でちびちびと飲んでいたコーヒーが切れ、辺りが薄暗くなってきたころ。


「……春とはいえ夜は冷えますし、そろそろ行きませんか?」


 できるだけ当たり障りがないように俺は切り出した。気付けば冷たい風が吹きつけており、長いあいだ座っていた身体にみた。

 彩萌は肩を震わせ驚いたような顔をしていたが、俺の言葉がさす意味を理解したのか、露骨に頬を膨らませて視線を逸らした。


「行きません」


「どうしてです?」


「……九原様、それは少し酷いですわ。わたくし話したでしょう、あれが大切だと。まだ見つけられていないのですから途中で止める訳にはいきませんの」


「ここにはその探し物がないのにですか?」


「そんなことまだ決まっていませんっ。それにわたくしが通った道は、既に何回もひとりで探しました。ですからもう暗くなった道を探すより、ここにあることに賭けようと思います」


 彩萌は変なところで強情だ。世間知らずに不安定な感情が加わると、人はこうも盲目的になってしまうのだろうか。

 思わず場違いな冗談が意識に上ってしまうが、俺は構わず続けた。


「どうせ賭けるなら、もう少し期待値の高いところがいいと思いますよ」


「どういう意味ですの?」


「交番です。ここにあったであろうポーチはそこに届けられているかもしれません。恐らくは一条さんが遊んだという子供たちの手によって」


「届けられた……? 交番に……?」


「はい。まあ、彼らでなくとも通りすがりの人が見つけて届けた可能性もあるでしょうし。遺失物は拾ったら警察に届けるのが決まりですから」


 ぱちぱちと大きく瞬きをする彩萌を尻目に立ち上がる。あまり遅い時間になってしまうと詰めている警官の心象も悪くなるだろう。

 思わぬ手がかりに呆けている彼女に手を差し伸べる。


「本当に、そこに行けばありますの……?」


「それを今から確かめに行くんですよ、一条さん自身が為したという決意を全うするためにも」


 我ながらクサすぎると思う。手段は冗長なほど遠回しだし、ここまで付き合う真摯しんしさも柄じゃない。

 やはり今日の俺は何もかもおかしい。七井が言うにはこれも俺が変わった結果らしいが。

 とにかく言えるのは、彩萌が自らの意地を懸けて理想に近づこうとしている姿は、俺にはない輝きを放っているようで、決して穢されてはいけないものだと思ったことだけだ。


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