4章「お嬢様の受難」

第16話「これは九原様。ごきげんようですわー」

 夕焼けの光が生み出す濃い影のように、七井への追憶は俺の心の隅に蔓延る闇を照らした。

 そんな事実から目を背けたくて、一刻も早く会社に帰りたくて、俺は無心に足を動かしていた。

 途中でミコが何かを言っていたような気もするが、構ってはいられなかった。


 そんな執念すら感じさせる足の動きがふと止まる。


「――着いたか」


 異常があったわけではない。俺の精神状態とは裏腹に、俺の身体はすこぶる順調に目的地へと到着していた。


 見慣れた会社が目に映り、俺はほっと息をつく。それと同時に身体がじんわりと汗ばんでいるのを感じる。春の温かな気温の中でも、あれだけハイペースで歩けばそれも必至だろう。


 胸ポケットからハンカチを取り出し額を拭えば、幾分心が晴れるような感じがした。流れる汗と同時に、なにか余計なものも一緒に外に出ていったのだろうか。


(……晃仁様、少し落ち着きましたか?)


(……ああ。まあ、少しはな)


 別に元より抱えてきたことだ。今さら誰かに心配されるようなものではない。とっとと残りの作業を片付けて、帰って熱いシャワーでも浴びればすぐに吹き飛ぶだろう。


 考えるだけでも愉快な感覚。そうと決めれば、俺はとっとと一条製菓のオフィス内に入ろうとしたのだが。


「あれ……? いつの間にここまで来たのでしょうかー?」


 その入り口のすぐ近くに、呑気な声をあげながら歩き回る女性の姿があった。

 この国ではまず目にかかることは少ない美しい金髪。紺色のブレザーの上からでも分かる豊かな双丘に、チェック柄のスカートから覗かせる肌色が何とも眩しい。

 その視線は何かを探すかのように下へと向けられ、やや屈んだ体勢はその女性の身体的魅力を殊更に強調させている。


 無防備だとすらいえるその格好と、本人の容貌の可憐さも相まって、通りを歩く人々からは好奇の眼差しを向けられていた。


「ったく、何をしているんだ……」


(……? 知り合いですか?)


 都合の悪いことにその通りだった。無視することもできない。まだまだ今日は長いことを自覚させられ、思わず肩をすくめる。


「……大丈夫ですか、一条さん」


 それから襟を正して声をかければ、女性はやがて俺に気が付き、相好を崩して優雅に一礼した。


「まあ、これは九原様。ごきげんようですわぁ」


 その聞くだけで眠たくなるような声色に、ゆったりとした所作。ぽわぽわという擬態語がこれほど似合う女性もいないなと思う。


「はい、ごきげんよう。それで、社長令嬢ともあろう方がこんな所で何をしているんです?」


「ええ、それは単に落とし物を探していただけですー……それよりも九原様? わたくしのことは彩萌あやめと呼んでくださいと、会うたびに申しておりますのに」


「……勘弁してくださいよ、まったく」


 露骨に肩を落とすと彩萌――苗字で呼ぶとややこしいので恐れ多いがここでは名前で呼ばせていただくが――は手を口に当ててくすくすと楽しげに笑った。


 苗字の通り、この一条製菓の社長の娘である。本人はこのようにフレンドリーな性格なのだが、その立場上やはり分は弁えなくてはならない。


(……まさか、この方とも仲がよろしいんですか?)


 頭の中のミコが目を細めた、ような気がした。

 もちろん彼女の言いたいことは分かる。いい歳して恋人もいないという人間を導こうと意気込んでいたのに、その当人の周りにこうも親しげな女性が数いれば、そのような反応にもなるだろう。


(仲がいいとかじゃない。社内の人間なら誰でも知っている御方だ)


(へぇー、そんな一社員にわざわざ名前で呼んでって言いますかねー。どうせ七井様とかと同じパターンですかねー)


 宥めてみるも効果は乏しく、ミコは拗ねたような口調でこちらを責め立ててくる。

 そのフォローをしてやりたいとは思うが、今は他にやることがある。指輪から一度意識を切って、こちらを不思議そうに眺める彩萌に向き直る。


「ああ、すみません。それで、探しものということですが。一条さんは何か無くされたんですか?」


「……はい、そうなのですわー。とーっても大事にしていたものですの」


 そう言いつつ彩萌は携帯を取り出し、その例の無くしものの画像を見せてくる。狭い画面を並んで覗き込んでいるものだから、彼女の豊満な身体が当たるが、鋼の意志でこれに耐える。


 画像にあったのは、猫のぬいぐるみと思しきもの。思しきというのは、愛玩人形にしては少々顔が不細工であるのと、その猫の首らへんに付いている白い紐がやけに気になったからだ。


 顔を呆けさせる俺に彩萌は屈託のない笑顔で続ける。


「これ、ただのぬいぐるみではないのですのよ? この紐を鞄に付けて持ち運べるポーチなのですわぁ」


「え、これを付けて外へ……?」


「はい、可愛いですわよねー。今日、学友の方とこれを見つけたときに購入して以来、大事にしていたつもりなのですけどー……無くしてしまいまして。落としてしまったのかしら―、と地面に注意していたら、ここまで来てしまいましたの」


 楽しそうだった彩萌の顔が曇る。なるほど思想は相容れないが、大体の事情は飲み込むことができた。


 やはりこれを放っておくことは出来ないという事実も含めて。


「よろしければ、俺も探すのを手伝いますよ」


「九原様も……?」


(晃仁様が……!?)


 俺の申し出を意外に感じたのか二人分の声が重なる。

 というか、待て。彩萌の方は理解できるが、ミコの方からは明らかに「俺が進んで人助けをするなんて信じられない」といった侮蔑を感じる。まあ事実その通りではあるのだが。


「ここで一人でうろちょろしていると、何が起こるか分かったものじゃないですから」


「……? まあ、実際一人では見つけられる自信がなかったのも確かですー……そういうことでしたら、お願い致しますわ、九原様」


 こうして呑気すぎる社長令嬢、一条彩萌の無くしもの探しに付き合うことになった。


 帰りが遅くなるのは避けられないが、辺りが暗くなりつつあるこの時間にこんなのを一人で放置していたら、どんなトラブルに巻き込まれるか分かったものではないからな。

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