第15話「当然です……恩人ですから」
「あ、あの! 大丈夫ですか!? すみません、あたしいきなり変なこと聞いちゃって――」
幸いカウンターを汚すには至っていないが、それでも七井は急にカフェオレを噴き出しかけた俺を心配そうに見つめてきた。
そんな顔をするなら最初から聞いてこないでほしかったが。
上目遣いの七井に、何ともないと示すように手で制した。
「だ、大丈夫だ。それより……ちっ、はあ……やっぱりこうなるのか。こうなることは予測できていたのにな……」
しかし、平静までは取り戻すことができない。
ミコのために付けていた指輪――当然それが誰かに知られれば面倒になることは目に見えていたし、俺も出来るだけ注意を払っていたはずだった。
ここまで上手くっていたから油断が生じたのか。
頭を直接揺さぶられたかのような衝撃が脳内を埋めつくすが、今はそれをただただ甘受している場合ではない。
腐っても営業職で食っている身。言葉が命だ。すぐに頭を切り替えて、この場をやり過ごすための言葉を考える。
「あの、そのダイヤの装飾……こ、婚約指輪、ですよね……?」
「……そうだな。でもほら、着けているのは小指だ。しかも右の」
良く見えるように七井の前に右手を掲げる。「これは単なるファッションだ」とも付け加える。
「そ、そうなんですね……はあ、ドキドキした……」
指輪に変な意味がないことを知ると、七井は胸を撫で下ろして呟いた。それからようやくカフェオレに口をつけると、温かみに目を細める。
(ちょっとちょっと、晃仁様? なんでそこで会話を終えるんですか? もっとあれこれ聞いちゃいましょうって)
(聞くって、何をだよ)
(『そんなに俺の婚活事情が気になるのか』とかですかね)
(想像しただけで気色悪いな)
十歳近く離れている少女とこうして話しているだけでもひょっとすれば如何わしいのに、さらにその先へ進めというのか。
その積極さは明らかに他の者へと向けるべきだろうに。ミコの変わらない猛攻に軽く
「……今日の九原さん、やっぱりいつもと違います」
「あ……? そうか?」
「はい。急に指輪を付けたりもそうですけど……なんだか少し明るくなったような気がします」
「気のせいだろ」
「いえ、違います。少なくとも九原さんが前回いらっしゃった一週間前に比べると、雲泥の差です……!」
自覚はないのだが、そうも強く粘られると、そういうものなのかと思えてくるから不思議だ。
ただそれを言うなら、七井の方こそいつもより堂々としてる気がしなくもないが、それすらも「俺がいつもと違う」ことに影響しているのだろうか。
気恥ずかしさに負けて、カップをぐいと呷る。
「……にしても、一週間前か」
心当たりがあり過ぎる符合に独り言つ。表面的には俺も変わっていっているということか。
「七井もよく気が付くよな。言われるまで分かんなかったぞ」
「そ、それは、当然です……恩人ですから」
「……恩に着せたつもりはねえし、恩だと思わなくて結構なんだがな」
「………そう、ですか」
そこで俺と七井との間に沈黙が流れる。
何もせずにいるのが気まずくて、カップに口を付ける。飲み干してからも、暫く残った水滴に縋るようにそのまま離さずにして。
人からの好意にどう返していいのか、未だ理解できないでいる自分を、否が応でも突きつけられている気がしてならない。
(晃仁様……)
「……!」
俺の心の機微は、指輪を通じてミコへと伝わっているようで、こちらを心配する彼女の声が頭に響く。
恐らくは自分の今までの発言に後ろめたさを感じているのだろうが、受け入れると決めたのはこちらの方だ。
(お前が何かを気にすることじゃない)
平静を取り繕っていつも通りの調子で振る舞う。それから隣で肩を落としている七井の方へと視線を移す。
「ごちそうさん、旨かったぞ。ただ、やっぱり……あれくらいの善行で、お前にここまでさせる訳にもいかねえんだ。そこは分かってくれ」
「……でも、ウチにとってはそれが――」
呟きには耳を貸さずに席を立つ。それから再び礼を告げてから、俺は「純喫茶・六道」を後にした。
これから帰っても簡単な報告を纏めるのみで、時間も少しばかり余っていたのだが、流石にあの空気で居座り続けることはできなかった。
「俺が壊したも同然の空気なんだが……はあ、次から仕事で行くとき気まずくなるな……」
陽が傾き、茜色に染まる道をとぼとぼと歩きながらぼやく。
今まで曖昧な言葉でやり過ごしていたというのに、やはり今日の俺はどこか可笑しいらしい。
八重樫にも、七井にも、それとなく指摘されたことが、今になってようやく腑に落ちた心地だ。
(あの……晃仁様?)
感慨と後悔に耽っていると、不意にミコがぽつりと零した。
(その、晃仁様のお気持ちについてはひとまず置いておくことにして。聞いておきたいことがあるんですけど)
(七井の事だな?)
(はい……彼女に好意を向けられること自体すら、晃仁様は避けたいようなのが気になって。わたしが言うのもなんですけど、別に恋愛云々と関係なしに、仲良くするのもありなのになぁ、と思うんです)
確かにミコの指摘は一理ある。未成年と関係を持っていると疑われるのを避けるだけなら、あんな風にあしらうのは過剰だといえよう。
(まあ……なんつーか。情けない話になるが、怖いってのは一つあるな)
(怖い……ですか?)
(……七井と知り合ったのは、一年前ぐらいの事だ。まだ新入りのあいつはウェイトレス業務に慣れてなくて。ある日俺がいつものようにそこで休憩しているときだ、注文を届ける際にドジを踏んで
(それが七井様、ですか。彼女の性格ですから、きっと肝を冷やしたでしょうね)
(それだけならまだ良かったんだが。その客、服のクリーニング代やら何やらでケチをつけた挙句に、七井に強引に迫ってきてな。顔も良いし、大人しそうだから、これにかこつけて押せばワンチャンスあると踏んだんだろう)
(……最低です)
それは怒りというより軽蔑だった。
かつて俺がふざけた時でさえも、ミコがここまで暗い感情を吐露したことはない。
まあ、当時の俺も十分それに値する奴だとは思ったし、また一つ自分が信じていたものが汚されたかのような感覚すらあった。
(そうだな。そんな最低な所業、俺が放っておいても勝手にマスター辺りが収拾したんだろうが。あの時の俺はどうかしていたな)
(ま、まさか。晃仁様が二人の間に割って入ってそのクズ男に鉄拳制裁を……!?)
(アホか。そんなドラマチックじゃねえ。図体はでかいが、喧嘩に自信があるわけでもねえ。ここで騒ぎを大きくすることの危険性を説いたり、クリーニング代の弁償を申し出たりして、相手の怒りを冷ましてやっただけだ)
(それでも十分格好良すぎますって! エーギョーショクの面目幼女ですねっ)
(……ん?)
褒められているのだろうが、不思議とあまり嬉しくない。
しかし、そんな戸惑いを消化する間もなくミコが続けてくる。
(そのことがきっかけで七井様と親しくなったんですね)
(……ああ。別になんてことはないだろ? そんなのその場で厚く御礼申し上げて終わりだ。一年も恩義を感じる必要なんかねえよ)
(別におかしいことではねえと思いますけど。そこから好意に繋がるなんて普通に――)
(それは憧れとかそういう類の感情だろ。一時の気の迷いだ、そんないつ冷めるとも知れない脆いもんを抱いて近づけられると、俺は――)
歩を進める足の動きを速める。自分の内からなにか良くないものが溢れてくるのを感じていた。
(……そうですか。晃仁様は、やっぱり……)
歩く速度はなおも増す。その呟きからも逃げるように。
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