第8話「俺は自分の意思で戦うことを選んだ営業戦士だ」

 それから暫く八重樫に仕事のノウハウを叩きこんだ後、待ちに待った昼休憩の時間が到来する。

 八重樫の変化によっていくらかはマシになったとはいえ、慣れない教育係の仕事は精神的な負担が大きい。「お疲れさまでしたー」と愛想よく帰っていく彼女に、デスクに突っ伏しながら片手で応じる。


(お疲れ様です、晃仁様。かっこよかったですよ)


 ミコの労いの言葉にむくりと上体を起こす。

 最初こいつが来ると言ったときは、面倒を起こすのだけはやめてくれと思っていたのだが。危うく怒りに身を任せてしまうところを救われることになるとは。


(かっこいいかどうかはさておき、まあありがとな)


 少し照れくさいが礼を述べる。本当に感謝していたし、醜態をさらしてなお落ちぶれたくもなかった。


「――さて、と。昼になったことだし、どっか食いに行くかー」


(昼食ですか!? ふふ、お外で食べるのも楽しみです!)


 席を立つ俺にミコも肯定を返す。

 確かにアニマであるミコにとってはこれが初めての外出であるようなものだ。浮足立つのも頷ける――。


(って、お前も食べるつもりなのか!?)


 頷いている場合では断じてなかった。呑気なことを言うミコに心の中で叫ぶ。


 指輪の姿のままでどうしてものが食べられるのかと聞かれれば、それは人の姿に戻って食べるというのだろうが、事態はそう単純ではない。

 人間の姿のミコと行動するということ、それこそが決して軽視できない問題である。


 それを分かっていてのたまっているのか、常識がなさすぎるからかは知らないが、当の本人はけろりとした様子で答えてくる。


(食べますけど……私だってお腹空きましたし)


(いやあ、つってもお前指輪のまんまだし……指輪は食事を摂らねえだろうが)


(いやいや今まで共に食卓を囲んだ仲じゃねえですか!? それに指輪かどうかなんて関係ねえです。私は晃仁様の指輪に宿るアニマとしてこの世界に誕生した歴とした生物ですから! 人だって寝ている間にもお腹は空くものでしょう?)


(じゃあせめて指輪のまま食ってくれ。人の姿のお前と一緒に行動するのは、まだ少し抵抗がある)


(指輪に口はねえです。当然口がなければものも食えません。晃仁様はわたしをバケモノとでも思ってやがりますか?)


 アニマ風情が何を言うか。わざとらしく汚らしい言葉で食い下がるミコに嘆息する。

 ミコの食事を抜きにするというのも忍びなければ、人の姿のまま好き勝手動き回られるのは面倒だ。

 かといってこいつと二人で仲良く外食するのは、あまりにも勇気がいることである。


(晃仁様、本当にお腹がすきました。晃仁様が朝に見ていたラーメン屋がいいです。食べたことがないので是非この機会に……ねっ?)


(でもそのラーメン屋は都心の方だから少し距離が――ってそうじゃなくて!)


 途方に暮れて、俺は再びデスクに腰掛ける。

 いつまでもデスクの前で突っ立っていたからか、周りの社員からの視線が痛い。

 咄嗟にパソコンの画面を開いて作業しているふりをする。あたかも「やり残していた仕事をたった今思い出しましたよー、それだけ先に片付けちゃいますよー」と、懸命にデキる社員をアピールする。


(……もう少し耐えることはできませんかね? もしくは俺が何か買ってくるから、隠れてそれを食ってもらうとか――)


(もう少しも耐えられねえです。そしてわたしを満たしてくれるのは美味しい美味しいラーメンだけです)


 ラーメン食った事ねえだろ、お前。心の中で唱えてしまいそうになった悪態をなんとか堪える。


(……わたしだって少しはお役に立てたでしょう? ねえ、連れてってくれてもいいじゃないですかぁ)


(ぐぐぐ……)


 そこを責められると弱い。リスクをとることを望まないとはいえ、もはや受け入れるしかないだろう。

 ミコを飢えさせるわけにも、一人にするわけにもいかない。それなら一番ダメージが低い第三の選択を選ぶのが賢明か。


(……分かった。一緒に食うぞ、ミコ。ひとまずこのまま外に出る)


(……! はい! ふふふ……晃仁様とご飯っ、お外でご飯っ)


 出入口へと移動し始める俺に、ミコはどことなく外れた拍子で声を弾ませる。大人びた面があると思えば、こうした無邪気な面も相変わらずであり、ミコには振り回されてばかりだなと思う。


 この時間帯は行き交う人も多いので、指輪を付けた右手をズボンのポケットに隠して注意を払う。

 そうして出入口の目の前まで何とか事無くやって来れたのだが、そこで丁度外から帰ってきたと思しき三浦課長の姿を目撃してしまう。


(やべえ……)


 ここで彼に気付かれたくはない、俺は咄嗟に顔を逸らして躱そうとしたが――。


「おお、九原君じゃないか。どうしたんだい、そんなかっこつけながら歩いて」


 見つかってしまった。しかも今の俺は片手をポケットに入れながらあからさまに顔を傾けている状態だった。

 指摘にされたのは恥ずかしいが、上司からの挨拶を無下にもできない。俺は下手くそな愛想笑いでこれに応戦する。


「あはは、かっこつけていたわけではなくて、少し首のマッサージを」


「おや、痛むのかい。それは気の毒だな……マッサージでほぐすのもいいが、神経を安らげることも大事だよ」


「なるほど。では課長が言っていたアロマでも試してみますよ」


「あっはっは! そうかそうか! 確かにそれがいいだろう!」


 三浦課長は豪快に笑うと俺の肩にぽんと手を置いてきた。


 温厚な笑みを浮かべる彼からは嫌な気配を全く感じない。だがそんな印象とは裏腹に、この肩ぽんがあると決まっていつも俺に不都合なことが起こるのだ。


「……そんな口が上手い君に、少し頼みたいことがあるのだがね」


「またですか」


「僕は君を頼りにしてるんだよ。今日の午後についてだが、予定を変更して君には外で営業しに行ってもらいたい。新規開拓の方だ」


「午後も八重樫の教育だという話でしたが」


 そう、この禿頭の男、三浦課長は事あるごとに俺に仕事を振ってくるのが癖なのだ。口では信頼しているからだというが、俺には体よく仕事を押し付けられているようにしか感じられなかった。

 だからここでは出会いたくなかったというのに、そこはかとなく迷惑感を醸してみても、あいにく彼には届かない。


「そちらは今日はいい。どうやら少し揉めていたようだしねえ」


「……そうですか。お気遣いに感謝します、課長」


 要は頭を切り替えてこいということだ。個人的にはもうそのことは反省しており、八重樫も水に流してくれたのだが、ここは従っておいた方が無難か。

 またしても課長に言いくるめられることになるが、もう正直この場から一刻も早く去りたいというのが本音だった。


「ははは、それじゃあよろしく頼んだよ。期待しているからね」


 俺の肩を置いていた手で軽く叩くと、三浦課長は悠々と社内へと戻っていった。

 軽くお辞儀をしてその後ろ姿を見送る。


(せっかく外なら、昼はちょっと新しい店でも開拓してみるか)


(……逞しいですね、晃仁様)


(当たり前だ、そうでなきゃ務まらねえ)


 ふんすと鼻を鳴らし、堂々と外に出る。俺は仕事を押し付けられたのではない、俺は自分の意思で戦うことを選んだ営業戦士だ。


 だからここは一つ、旨い物でも食べて英気を養う必要があるだろう。


 決して惨めな自分を慰めたいからではない。断じて違う。

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