2章「生意気な後輩」

第6話「課長さんはありがたい御方」

 人としての尊厳の消失にやっとの思いで耐え忍んだ後のこと。晴天に恵まれた青空の下を、清々しい解放感と共に闊歩する。

 都市部から外れたこの地域一帯は人通りも多くなく、眼が眩むようなビル群もない。ほどよく長閑で騒がしくない光景に心が躍るようだった。

 

 足取りもすっかり軽く、目指す目的地は気付けばもう目と鼻の先にまで迫っていた。


「ふう、着いた着いた。時間も大丈夫だ」


一条製菓いちじょうせいか……これが晃仁様が捕らわれている檻とやらですか)


「まあ、それは忘れてくれたほうがいいんだが……その通りだ。中小の菓子メーカー、お前が昨日食ったケーキもここで出している商品……のなりそこないのものを頂いたってわけだ」


(なるほど。ということは、ここはとても素晴らしい檻ということですか!)


「ああ……そうね」


 妙なことを教えてしまったと反省しながら、オフィス内に入る。指輪を付けているということもあっていつも以上に周りの目が気になってしまうが、あくまでも平静を装って挨拶を返していく。

 木目調の床と黒に塗つぶされた壁。シックなオフィス内の空間は、客人用の談話スペース、社員の休憩スペース、それからデスクが並ぶ事務スペースからなっている。

 落ち着いた雰囲気も整然とした佇まいも俺は気に入っていた。


(中々いい場所ですね。少なくとも晃仁様のお部屋の数倍は居心地が良さそうです)


(全くだ。なんならここに移住してもくれてもいいんだぞ?)


(むう……素っ気ないこと言わないでください)


 今日の経験から、この念での会話も随分と様になってきた。小気味のいいテンポと共に颯爽さっそうと自身のデスクと座る。


「げ、課長からメール来てんじゃん」


(浣腸さんって何です? お尻を攻撃する人ですか?)


 ミコの戯言はひとまず置いておくことにして、社内PCを操作し急ぎ内容を確認する。『新人教育の報告書、各評価項目について詳しく書いてくれるのはいいが、次からはもう少し簡潔に頼む』ときたか。ふーん、なるほど。はいはい、了解しましたよっと。


(あーきーひーとーさーまー! 浣腸さんってどなたですか!?)


(……浣腸さんじゃねえ、課長だ。俺にたくさん指示をしてくださるありがたい御方だよ)


(ふむふむ、課長さんはありがたい御方。なるほどありがとうございます、覚えました!)


 とりあえず朝のルーチンを終えた俺は、始業時間になるまでにネットの海を揺蕩たゆたうことにした。

 一条製菓に努める営業マンとして情報は欠かせないからな。見ればまた都心の方で新しくラーメン屋がオープンしたらしい。とりあえずこれはブックマークしてっと。


(……ねえ晃仁様?)


 まったく、そろそろ仕事だというのに、このポンコツ精霊は相も変わらず小うるさい。暇なのだろうが今くらいは俺に自由な時間を謳歌させてほしいものだ。

 眼を射るように光るダイヤを睨みつけて念を込める。


(なんだよ。お前を尊重すると決めたが、あまり話しかけられると仕事に支障をきたすから控えてほしいんだけどな)


(むむ、それはごめんなさい。ですけど気になったことがあったので)


「あ? 気になったこと?」


 らしくない神妙な声色に、思わず口で直接聞き返してしまう。幸い誰にも聞かれていなかったようだが、自分自身の愚行に息が詰まった。


 そんな俺に、ミコはけたけたと笑いながら続けた。


(えっと、今日一緒にここまで来て思ったんですけど。晃仁様は別に今の職場がお嫌いというわけではないんですよね?)


(ん、ああ。まあとくべつ好きでもねえけどな。ただ生きるための道具でしかない)


 聞きたかったことはそんなことか。俺は適当に返して再び画面にかじりつこうとするが。


(そう、ですか。ここの所、晃仁様は部屋に帰ってくるなり不機嫌でしたから、お仕事が嫌で嫌で堪らないのかなぁ……と。それでわたしにも冷たく当たってたのかなぁ……と思っていたんですけど)


 弱気な、それでいていじらしい発言に、マウスを動かしていた右手を休める。心なしか指輪の輝きも弱くなっている気がした。


(……お前、結構気にしてたのか?)


(む、少しだけですけどね! わたしだって生まれたばかりの女の子ですから!)


(それは悪かったって。けどまあ……仕事自体は嫌いじゃねえが、お前の言う通り仕事のせいで最近不機嫌になってたのかもな)


(……? お仕事は嫌いではないけどお仕事のせいってどういうことですか、謎かけですか?)


(まあ、直に分かるだ――)


「あー、九原くはら先輩、またサボってるんですかぁー?」


「……っ!?」


 突如耳元でささやかれたその甘い声に俺は堪らず息を呑む。直前までミコと会話していたこともあってか、背筋が凍るようなこの感覚がいつにも増して鋭かった。


(女性……ですね)


 ミコの独り言に誘われるように、背後から接近していたであろう生意気な声の主に振り向く。


「……始業時間前に仕事以外の何かをしていても、それはサボりとは言わねえんだよ、八重樫やえがし


 ついにとご対面か。俺は不満を隠そうともせず深く息を吐いた。


 肩口をくすぐるライトブラウンの髪、淡いベージュのレディーススーツ。新人の営業としては少しカジュアルな雰囲気を醸しており、とても親しみやすい印象を与える。

 背格好は新卒とは思えない程の低さで、下手したら中学生と同等か。そんなわけで小動物のような愛くるしさも持ちわせているのだが――。


 笑止。それに騙されてはいけない。こいつこそが最近俺がストレスを溜め続ける原因であり、俺が教育を担当する新人社員、八重樫玲奈れいなである。


 入社一週間にしてその人当たりの良さで会社に馴染んだ、俺とは真逆のような性格の持ち主だ。

 しかしどういうわけか、担当の俺にだけ妙に馴れ馴れしいというか、舐め腐っているというか、そういう態度をとるわけで。腹立たしいことこの上なかった。


「もう、本当に冷たいですね先輩は。こんなの単なるコミュニケーションの一環ですよ」


「上司の耳元で囁くようなコミュニケーションなんざ捨てちまえ。セクハラで訴えるぞ」


「やだ先輩、怖い……」


 わざとらしく怯えたポーズを見せる八重樫に、俺を苛立ちながらも指輪を身に着けた右手を隠す。こいつに目を付けられでもしたらいよいよ面倒極まりない。このままとっとと会話を打ち切るのが吉だ。


「あまりふざけるなよ。午前からの指導もその調子で受けるつもりなら、俺は上司に掛け合うからな」


「……はぁい、分かりました。では先輩、後ほどまたよろしくお願いしますねー」


 乱暴に返す俺に少しも気を悪くする素振りを見せず、八重樫は猫撫で声を残して自分のデスクへと向かっていた。まあ、その席は俺の向かいにあるため、あまり俺の精神衛生は保たれないのだが、あのまま粘着されるよりはマシだと捉えよう。少しでも前向きに流していこう。


 まだ仕事のしの字も始まっていないというのに、全身からどっと疲れが湧き出てしまう。椅子の背もたれに上体を預けて溜息を零す。


(これで分かってくれただろ、ミコ? 俺の性格であんなのと関わってたらストレスは溜まる一方だって)


(なるほど……)


 せめて気が晴れればとミコに話を振ってみたのだが、いまいち張り合いがない。もしかして八重樫の押しの強さにやられたか。だが分かる、分かるぞミコ、お前の気持ちは。これに関しては誰よりも共感できる。


(……晃仁様)


(なんだ?)


(いるじゃねえですか、晃仁様の候補が)


(…………)


 どうやら分かりあえていなかったみたいだ。頓珍漢な答えをするミコに沈黙のみを返し、いそいそと仕事準備に取り掛かる。


 まったくどうかしている。あいつと俺が恋仲になる可能性なんて一握の砂にも満たないだろう。飄々として、生意気で、何を考えているか分かったものではない。

 俺を幸せに導くのだというのなら、もう少し相手を選んでほしいものだ。


 パソコンを閉じると、始業時間開始5分前のアラームがデスクの時計から鳴る。


 俺の内で燻ぶっていた不安、再びその勢いが増した瞬間だった。

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