第2話「あなたを幸せに導く愛の使徒ですよ!」

 社会人五年目の4月。入社してきた新人たちへの歓迎ムードもそこそこに、徐々に仕事が本格化してきた頃だった。

 面倒な後輩の教育係に任命されてしまった俺は、近頃そのストレスを酒で解消することが多くなっていた。

 それはあの日も変わらず、外でしこたまアルコールを飲んだ俺は、ふらふらとした足取りで家路についた。


 着替えもせず部屋の布団に倒れ込み、微睡まどろみに浸る。そうして騒がしく疎ましい諸々の問題から逃避する。

 ルーチンと化していた行為だが、なぜだろう、この日に限ってはやけに頭が明晰であった。

 酔いが足らなかったか。それとも春という季節が人を悩みに駆り立てる季節だからだろうか。

 その日の俺はらしくない感傷に惑っていた。


 例えばこの先の未来の事。結婚して家庭を持って、育児をして、老後はどのように過ごすか。20代も後半を過ぎればそのように考えることは自然であろうが、俺の場合は少し違った。そんな未来を描くことに恐れを抱いて、それらの営みについて考えること、現実として捉えることを忌避していた。


 そう。建設的に未来について悩むのではなく、思考することすら諦めた単なる逃げ。

 枠から外れていることこそ自分には相応しいのだとうそぶき、可能性を閉ざすことで安堵していたように思う。


 いつもならそのように詭弁きべんで自分を守ってその場はやり過ごしていたのだが、やはりその日はどこかおかしかった。

 心のどこかではそうありたくない自分がいたのだろうか。急に何かを変えなくてはいけない衝動に駆られ、気付けば俺はデスクの引き出しの奥に仕舞っていたあるものを取り出していた。


 指輪だ。環の部分の銀色と、屈折率の高さに由来するダイヤモンドの輝かしい光沢――その調和がこの時は一層眩しく感じられた。


 元は父さんが母さんに贈った婚約指輪だったが、二人が亡くなってからはこうして俺の手元で保管されるだけの代物に成り下がっていた。

 見ると嫌なことばかり思い出してしまうので、いつか売っぱらってやろうと思っていたのだが、なんだかんだ機会に恵まれず手放せないでいたのだ。


「ああ――」


 声が漏れる。目を焼くような光に俺の生き方が否定されているような気がしてならなかった。


「間違っているのか、なあ……教えてくれよ……俺は間違っているのか……?」


 切実な希求か、はたまた酔いどれの戯言ざれごとか。どちらにせよそれは誰に届くこともない呟きのはずだった。しかし――。


「なに……!?」


 信じられないことに俺がそう呟いた瞬間、ただでさえ煩わしかったダイヤの輝きが著しく増し、やがて部屋全体が白光に塗りつぶされた。


 視界を失ったなかで辛うじて知覚できたのは、片手に持っていた指輪がまるで砂になったかのように崩れてしまったことだけ。

 だが、もちろん先の光も含め、そんなこと現実に起こりうるはずがない。

 反射的に瞑っていた眼を開き、すぐさま片手を確認しようとした。


「は……?」


 確認した、ではない。まさしく確認しようとした、だ。

 そんな事をする余裕もなく、俺の脳は目の前にある異常を処理することで手一杯だった。


「――初めまして、晃仁様」


 見知らぬ人間が俺のすぐ真ん前に立っていた。

 背中にまで伸びた長い銀色の髪に、レース装飾が施されたこれまた銀のドレスを着た、思わず視線を逸らしてしまいそうなくらい可憐な美少女だった。


「わたしは晃仁様の幸せを願う愛の使徒――ミコって呼んでくださいね!」



◇◆◇



 とまあ、愛想良く挨拶されたのは覚えているが、そんな簡単に受け入れられる話でもなかった。


「で? 要するにお前は人間ではなく、俺が持っていたあの指輪から生まれた精霊だと?」


「その通りです! 正確にはアニマというのですが。人間の強い想念が込められたモノ、その中に眠る魂がふとしたきっかけで生命力を帯びる――そうして生まれるのがわたしたちアニマなのです!」


「……へーえ」


「そしてそして、わたしは晃仁様の切実な想いに応え今ここに誕生したと、そういうことなんです」


「想い、ねぇ」


「はい。仰られていたじゃないですか、間違ってるのかーって。それはまさしく晃仁様の幸せを求める葛藤から来るもの」


 歯切れの悪い俺とは対照的に、明朗な受け答えをするミコ。その眼は穢れを知らない宝石のような美しさを湛えており、まるで嘘など知らない無垢な彼女の心をよく反映しているようだったが。

 俺には到底その話が真実だとは思えなかった。


「そうなのか」


「そうですよ。ですからわたしが協力します! あなたが幸せを感じていないというのなら、共に掴みましょうよ、幸せ! 晃仁様の運命をわたしが導いてみせます! そのためにわたしは生まれてきたのですから!」


 ミコは両手を前で握り、鼻息荒くそう豪語した。その様子からは微塵も嘘をついているようには見えなかったけれど。


「話はよくわかった」


「おお、流石はわたしのご主人様。とても聡明で物分かりが――」


「帰ってくれ、この不審者が」


「えぇー!? ぜんぜん理解が及んでないよこの人!」


 俺の言葉に頻りに頷いていたミコだったが、急な裏切りに声を上げ目を丸くする。中々表情のバリエーションに富んでいて面白い奴だなとは思った。


「すまん、信じるのは無理だわ。よく考えたら指輪が人間になったって話がもう突飛すぎる。まだ強盗が閃光弾で部屋に突入してきて、指輪を強奪したと考えるほうが自然だろ」


「そっちだって無理があり過ぎです! だったらなんでわたしはあなたの前でこんな悠長に構えているんですか! 捕まえてと言っているようなものですよ!」


「……色々辛いことがあったんだなぁ、お前も。そんなに現実が嫌いか」


「憐れまないでください、ありもしないわたしの悲壮に想いを馳せないでください、しっかりと現実を見てください!」


 肩で息をして捲し立てるが、俺の疑問は依然として変わらない。芳しくない表情の俺に、ミコはいよいよその両頬を膨らませた。


「もう、いいです! 酔っぱらってる人に何を言っても無駄みたいですし。こうなりゃ百聞は一見です!」


「酔いは放っとけ。あと『如かず』まで言え、二つがイコールみてえになってるから……」


 呆れて息を吐くが、次の瞬間、それは驚きで塗りつぶされることになる。


「な――」


 ミコの身体が白一色の光に満たされたかと思いきや、その身体が粒子状に溶け消え、跡形もなくなってしまったのだ。訳も分からないまま直ちにミコのいた場所を探ると、そこにはかつて手にしていた形見の指輪が転がっていた。


「嘘だろ……」


 呟き、それを手に取る。間違いなく俺が手にしていた指輪だった。

 しかし、異常はこれで終わりはしなかった。


(ふふん、どうです? 驚きました?)


「っ!? その声、まさかお前が……!?」


 指輪に触れた途端、頭の中に声が響く。それは今の今まで会話をしていた少女のもので、あまりの驚きに尻もちをついてしまった。


 俺の態度に満足したのか、はたまた追い打ちをかけようとしたのか、指輪が再度輝きを放つ。そうして先ほどと同じ要領で人間の姿に変身したと思しきミコが、勝ち誇ったように俺を見下ろしてきた。


「これでわたしの話を信じていただけましたか?」


「……」


「晃仁様?」


「……ああ、クソ、分かったよ! 本気で信じられねえが、無理にでも信じてやる。お前がアニマってのも、俺の幸せのために出できたってのも」


「ようやく分かってくださいましたか……! よよよ、ミコめは大変嬉しく思いますぞ……!」


「……ちっ」


 渋々受け入れる姿勢を見せた俺に、どこかの爺やの真似をするミコ。こいつを調子づかせてはいけないと悟った瞬間である。

 どうにか不快感を噛み殺し、俺は話を前に進めることを優先する。


「で、だ。一億歩譲ってさっきお前の言ったことを全部飲み込んだとして、具体的に何をどうする気なんだ。俺は今でもそこそこ幸せだと自覚してんだがなぁ」


 先ほどの自身の醜態を自覚して、敢えて強がった態度を見せる。一連の流れですっかりと酔いも醒めた俺が遅れを取るはずもないとはいえ、隙を見せるほど弛緩してもいなかった。


 しかし、それでも次のミコの発言は、悠々と俺の想定の上をいった。


「それはもちろん、晃仁様の運命のお相手――即ち結婚相手を見つけて差し上げることです! そのため晃仁様と生活を共にし、誠心誠意サポートさせていただきますので、どうかよろしくお願いしますね!」


「…………はぁ」


 結婚相手、ねえ。サポート、ねえ。何ともありがたい申し出だ。

 相変わらず全てが唐突だが、確かにこれはいい機会なのかもしれない。俺も少しは前を向いていかなければならないと、心の片隅では思っていたところだった。


 俺は大きく息を吸った。


「誰がお前なんかの手を借りるか! 恩着せがましいクソ精霊が! 俺の人生は俺の意思で生きるもんだ!」


「ふんっだ! またその切り返しですか、いい加減分かってましたよ、バカご主人! まったく、あなたがそんな態度だからわたしも――!」


 到底受け入れきれず、それから俺とミコの言い合いは数時間にも及んだ。

 この騒ぎでアパートの大家を始め住人たちに怒りと疑いの眼差しを向けられることになったが、それはできれば思い出したくもない。


 以上が俺とミコの馬鹿げた出会いだった。

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