第2話

 支える足下がなくなった彼女の体は、重力に引っ張られて落下していく。下から強い風が吹き付け、マントと髪の毛は激しい音を立ててひらめいている。


 ビルから落下して、丁度半分くらいになった時、結庵ゆいあは膝を折ってから、勢いをつけてビルの壁を蹴った。強く、しかし軽やかに。


 自身の行いで前方に飛んでいった結庵に、隣のビルが迫る。彼女はそのビルの屋上に足を伸ばし、難なく着地する。そして、また屋上の上を走ってジャンプする。その動作を繰り返して、夜の街の中を静かに駆けていく。


 眩しいほど明かりが輝いている場所から離れ、闇に飲み込みこまれている町外れの方へと向かっていく。


 そうして、無線から入った場所へ近づいていく。やがて、結庵ゆいあは屋根から地面に降り立った。タスっと軽い音のみでの着地のため、周りの人間は気づかない。


 嫌に静けさが際立つ住宅街は、人の気配があまりしない。元々こちら側は人が少ないからな、なんて思っていた直後。


「誰かぁっ、た、助けてくれぇぇぇーっ!」


 どこからともなく、か細い叫び声が聞こえてきた。彼女はそれに敏感に反応する。首を左右に振り、音源の場所を推測する。


「あっちだ」


 そして、声のしたへ、人間の少女とは思えないぐらいの速さで駆けていった。


 辿り着いた場所は、一つの家だった。ごく普通の家。しかし、窓ガラスは割れ、何やら危険な香りを醸し出している。


 結庵ゆいあはその家に入る。すると、家がこんなにもボロボロの理由が一目で分かった。


「たっ、助けて……」


 リビングらしき場所に、男が二人いた。片方は、血を流して倒れており、結庵ゆいあを見るや否、腕を伸ばす。血にまみれた、赤黒い腕を。


「おお、俺を、救ってくれぇぇぇぇっ。頼むっ、頼む……っ!」

「動くな」


 しかし、その腕を、男の隣に立っていた、真っ黒いフードを深く被る者が切り落とした。

 

 ジャキンと音がして、男の腕と、真っ赤な血液が吹き飛ぶ。


「がぁぁぁっ!」


 男はうめき声をあげて、鮮血が噴き出す腕を抑える。


 その様子を、フード男は冷めた目つきで見ていた。それから、視線を結庵ゆいあに移す。


「まさか、こんな所にまで来るとはな。しかも、女のガキかよ。舐めてんのか」


 その男はニヤリと笑い、結庵ゆいあを見下すように顎を上げる。その仕草のおかげで、彼の瞳が少しばかり見えた。猫のような黄金だった。僅かな隙間から見えた金色の目に、結庵はある確信が芽生える。


 結庵ゆいあは倒れている男にチラリと目を向けた。彼はもう声を上げず、ただ震えている。だが、その動きすら鈍い。辺りは血の海。人間の体内を流れる半分近くありそうだ。


 こいつはもうだめだ、と彼女は見切る。


 この男はもう死ぬ。助ける余地もないし、助かる見込みもない。だから見捨てる。


 意味のない救いはしない。


 それが、結庵ゆいあの、彼女の所属するチームの考え。


 床に倒れて今にも死にそうな男は放っておき、結庵ゆいあはフードの男に尋ねる。


「お前はデーモンか?」


「ガキのくせに偉そうな言い方だな」


 フードの男はさも呆れたように呟く。


「でも答えてやる」


 ニヤリ、と口角が三日月型に吊り上がる。その笑みは、恐ろしく不気味であった。


「ああそうだ。お前らを襲うデーモンだよ」


 男はそう言いながら、フードをあげた。現れた男の顔に、結庵ゆいあは静かに息を呑む。何度見ても、その姿はやっぱり悍ましい。


 デーモン特有の黄金に近い金色の瞳が爛々と輝いている。さらに、男の額には赤い閃光のような模様が入った黒いツノが一本。


「どうだ、怖いだろ?」


 鬼はからかうような口調で結庵ゆいあを挑発する。怖くない、わけではない。しかし、それに対して彼女は表情ひとつ変えない。そこはプロ。もう慣れきっていた。


「チッ。つまんねぇなぁ。じゃあ、これならどうだ?」


 デーモンは右手を出して、手のひらを天井に向けるように開いた。


「〈炎化ファイヤー〉」


 デーモンの手のひらから、ボッと音がして炎が湧き上がる。それを見た結庵ゆいあは目を細めた。


「炎使いか…」


 少々厄介な奴に当たったな。


 そう呟きつつ、腰に刺してある剣を取り出した。何度も戦闘を重ねたことを表す傷はあるが、刃自体は鋭利に保たれている。


 彼女は白銀の刃を構えて相手へ向ける。


任務遂行ミッション・スタート


 そう宣言した結庵ゆいあの髪が、突如として蠢き始める。風もないのに黒髪は波打ち、やがて頭部から変色し始める。新たな色は舐めるように広がり、黒に覆いかぶさる。


 そして、瞳もまた、変色していた。漆黒の瞳の中心から、絵の具を一滴垂らしたように、新たな色が滲み出た。その色は真ん中から周りへ広がり、黒を支配していく。


 やがて、彼女の姿は変貌した。闇夜も照り返すほどの艶やかな銀髪。漆黒の中でも目立つであろう血のような紅の瞳。


 それは、結庵ゆいあの特異体質〈戦闘時強化能力ファイティングアベリティー〉を発動した時の姿だった。


 戦いを行う際に、体内の魔力の出力が普段よりも格段に上がることで姿が変わり、戦闘力が上がるという能力。


 今の彼女は、まさにその状態。体が強化された状態で、結庵ゆいあは一歩踏み出した。力強く地面を蹴り、前へ飛ぶ。先ほどとは比べ物にならないくらいの速さで。


 光の如く一気に距離を詰めてきた彼女に、デーモンは怯みを見せる。


最上位マスターレベルか」


 そして、チッと舌打ちをして、手中の火を消した。ここで炎の術式を使うのは危険だ。狭いし、爆発なんてしたら自分にも危害が及んでしまう。だから。


 そんな思考を進めるデーモンに、結庵ゆいあの鋭い刃が襲い掛かる。


「はぁっ!」


 彼女は剣を頭上高くにあげ、思いっきり振る。やはり、早かった。〈戦闘時強化能力ファイティングアベリティー〉の中でも最高峰を誇る最上位マスターランクは、身体能力の桁が違う。


 自分の身に降りかかろうとする刃を、デーモンは体を捻って、間一髪で避けた。結庵ゆいあの剣は、何もない空を切る。しかし、彼女は素早く体制を整え、新たな一撃を振りかざす。剣を振り続けながら前へ進む結庵ゆいあに対して、デーモンはただ後退することしかできない。


 この小さな家の中で火は使えない。


「ならばっ!」


 デーモンは後退り、窓ガラスを割って外に出た。


「なっ!待て!」


 結庵ゆいあも風が吹き抜ける窓から飛び出る。月明かりのおかげで少しは明るい住宅街の道に、デーモン結庵ゆいあの方を向いて立っていた。


「ここなら思いっきり遊べるぜ」


 家の中でとは違い、どこか余裕そうだ。結庵はしっかりと剣を構える。


 鬼は結に向かって手をかざした。


「〈炎化・攻撃ファイヤー・アタック〉」


 そう唱えた鬼の手のひらから、火の玉が無数に作られ、結庵に飛んでくる。


 真っ赤な熱を帯びたその球を、結庵はステップを踏みながら軽々しく交わしていく。しかし、火の玉の勢いは止まらない。やがて、避けるよりも鬼が火の玉を作る方が早くなっていく。


「……辛いな」


 結庵は足を止めた。代わりに、剣から左手を離し、襲ってくる火の玉に向ける。


「〈電化・防御ダンダー・ガード〉」


 結庵の目の前に、幾つもの火花が散り、それが丸く集まって、閃光を帯びた薄いシールドとなる。


 火の玉は盾に当たると、盾から小さな閃光の竜が現れ、火の玉を食い、炎は砕ける。左手の平に浮かぶ盾を巧みに動かしながら、結は火の玉を避けていき、ゆっくりと鬼との間合いを縮める。


「くそっ!キリがねぇ」


 鬼の魔力も限界に近づいている。人間より遥かに強大な魔力を持つ鬼でも、長時間の出力は流石にきつい。


(ここで一瞬でも休めれば……)


 しかし、魔力が強大であれば、休む時間もそれ程必要ない。この鬼で言えば、10秒。10秒さえ術式の展開を休ませれば、再び魔力は回復される。


 だから、鬼は限界ギリギリの魔力をありったけ使って、先程の倍以上の火の玉を作り上げる。そして、それらを束として、一気に結庵に降り注いだ。火の玉は弧を描きながら、彼女を包み込むようにおそった。彼女の姿が、炎に包まれる。


 今だ、と鬼は笑みを浮かべた。両手を下ろし、術式を解除する。その瞬間、魔力が体内に収まる。はぁーはぁーと淡い呼吸をつきながら、僅かな時間を休んだ。これで10保てれば。

 

 しかし、彼の願いは叶えられなかった。ありったけの火の玉を打って3秒後、空から降ってきた電撃が、鬼を襲った。


「がぁぁぁっ!」


 すっかり油断しきっていた鬼は、攻撃をまともに受けて全身が痺れる。


「惜しかったわね」


 そう言ったのは、煙の中から現れた結庵だ。薄笑いを浮かべる彼女の片手には盾、片手には、切っ先が空を向く、白銀の閃光を帯びた剣を持っていた。


「あれぐらい、防げるのは当然」


 結庵は左手の盾を解除し、右手の剣を腰に刺す。そして、フリーになった右手の人差し指で再び真上を指す。


 途端、彼女自身が強い閃光に覆われた。バチバチと痛そうな音が鳴り、髪の毛や服は波立っている。彼女の周りは、閃光によって立った風で吹きさらされる。その瞳は、静かに、しかし怒りを携えて鬼を見ていた。


 結庵が怒っているということに気づいた鬼は冷や汗を流す。


「た、頼む、待ってくれ、やめてくれ!」


 だが、彼女の表情が揺らぐことはない。


「さようなら」


 冷たい一言を放って、結庵は電撃を放った。


「〈電化・攻撃ダンダー・アタック〉」


 結庵が全身に帯びていた閃光が、右手の人差し指一つに集まる。そこから、竜の形をした閃光が空に飛び出す。そして、雲に触れられるほど登った後、幾つにも分かれて、今度は降下し、閃光の雨となった。


 そのうちの一つが、鬼に向かって一直線に伸び、当たる。


「うがぁぁぁっ!」


 防御も攻撃も、体制を整えることすらできなかった鬼は、本日二度目の電撃を受けた。しかし、これは最初のよりも威力が格段に上。人間が当たったら即死してしまうほどの閃光を、鬼は何十秒と浴び続ける。


「……あっ…う……カハッ」


 閃光による光が消え、結庵が手を下ろした時、そこにいたのは、真っ黒に焦げた肉の塊だった。金髪も、金色の瞳も、今は夜の闇と同じ色。


 かろうじて分かったツノは、見つけた瞬間にボロボロと崩れていった。ツノが無くなると同時に、鬼の体もまた、ボロボロになった跡形もなく消えた。


 数秒前まで鬼であった生き物がいた場所を見つめながら、結庵は腕を下ろす。それから、目を瞑って、深呼吸して、再び目を開く。そして、辺りを見渡す。


 鬼の気配は感じられないし、人間の叫び声も聞こえない。結庵はインカムに指を当て、真莉紗と連絡をとった。


「こちら結庵。真莉紗、他に鬼はいる?」


『こちら真莉紗。任務お疲れ。大丈夫よ、もうレーダーに反応はない』


「そう。だったら、後で処理隊プロセスコープを呼んでおいて」


『了解』


 結はインカムの通話を切る。そして、フーッと長いため息をついた。


 その髪が、またも蛇のように蠢き始め、頭部から変色していく。瞳も同じように。しかし、色は始めと逆再生だった。

 

 髪の波が治まった頃、結庵は〈戦闘時強化能力〉を解いていた。黒髪に黒い瞳の、ごく普通の人間の少女に戻る。


「はぁー、疲れた」


 彼女は大きく伸びをする。


「これから散歩でも……って、明日、いや、今日も学校じゃん。あーあ、休めると思ったのになぁ」


 そうして結庵は踵を返し、地面を蹴って、暗い屋根の上を駆けていった。


 夜が吹け、もうすぐ朝がやってくる、仄かに青い空の彼方へと消えて。

 

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