第2話
(誰かがいる!)
仁はベッドから体を起こした。
急な動きに、ベッドからギシリと嫌な音が聞こえた。
(誰だ? 巡回している看護師か? …いや、違う)
仁の拡張された聴覚が、侵入者を人間以外の何かがだと訴えていた。
カーテンの向こう側、認知症が始まったばかりで昼間はずっと独り言を言うような老婆のいびきに紛れるように、重い水音が聞こえてくる。
ペタペタとも、ベタベタとも形容できるような音だ。
(足音、か?)
仁の腕がゆっくりと、ナースコールに伸びる。
指先がボタンに触れかかった瞬間、声が聞こえてきた。
”気づいているか?”
「な、なんだよこれ…」
それは異様な声だった。
いや、声ですらなかったのかもしれない。
仁の耳は、その声を爬虫類の鳴き声のようなものだととらえている。だというのに、仁の脳はその意味を為しているとは到底思えない音を言語だと認識しているのだ。
聞こえてくるのはシュー、シューという軽い音なのにも関わらず、頭の中には言葉が浮かび上がる。
仁はナースコールのボタンを押すことも忘れて、混乱していた。
”知りたくはないか? 君の体に起きたことを”
(俺の体に起きたこと? こいつ、俺の体のことを知っているのか⁉)
五感が鋭くなったことを、仁は誰にも言っていない。だというのに、声の主は知っていると言う。
じっとりとした汗が、仁の脇を流れた。
気づけば最初に聞こえてきた重い水音は、もうしていない。
声の主は立ち止まっているらしい。
「…あんたは誰だ」
”質問しているのはこちらだ”
不気味な声に少しだけ感情が乗った。
かすかではあれど、イラつきを含んだ声色に仁が感じていた声の主の不気味さが薄れた。
向こうにも、人間的な感情があるらしい。
「顔だけでも、見せてくれないか。話がしづらいんだが」
”…いいだろう”
仁は、このときのことを後々死ぬほど後悔することになる。
いくら声の主に感情があって人間らしくあっても、だからといって安易に正体を知りたがるべきではなかったのだ。
先ほどの足音が再び、聞こえてくる。
それは、平凡な一大学生の日常に忍び寄る非日常の足音であった。
◆◆◆
足音を響かせながら、それは俺の視界に現れた。
”これで満足か?”
裂け目のような口が、先ほどまでと同じ声を出した。
歪んだ口元は俺をあざ笑っているようにも見えたし、慈しみを含んだ笑みにも見えた。
一瞬だけ、赤く長細い舌が裂け目の周りを巡った。
「あ、あんた、は…」
それは、爬虫類のような鱗を全身に纏っていた。
それは、縦に割れた瞳孔を爛々と光らせていた。
それは、黒いスーツに身を包み、水かきのついた手足を持っていた。
それは、——————————————化け物だった。
”再度問おう。君は自分の体について知りたくはないか?”
俺の混乱なんか知ったことかと、その化け物は問うてきた。
「…ああ、知りたい」
そして俺は、俺がおかしな気分になっているのを自覚した。
化け物だと言いつつ、俺は目の前の存在になんの嫌悪感も抱いていない。
むしろ、親近感すら感じていた。
(どう、なってるんだ。俺、蛇とかは大っ嫌いだったってのに…)
というか、そもそも二足歩行で会話ができる爬虫類もどきに嫌悪感を抱かない人間の方が珍しいだろう。
そのことが、俺をさらに混乱させた。
”いい返事だ。ならば退院後、ここに来い”
そういって、化け物は乱暴に破かれた紙片を放ってきた。
掛け布団の上に落ちたそれを拾ってみると、ひどく汚い字ではあったが、住所が書かれていた。
「…読みにくい字だな」
思わず、つぶやいてしまった。
”何? 私は会心の出来だと思っているのだが…”
「え?」
”…”
「…、えっとマジで言ってる?」
”…やはり、人間の字とやらは難解すぎる”
あんまりにも素直に不服そうな表情を浮かべるものだから、俺は自分が緊張していることも忘れて、笑ってしまった。
「く、ははは! あんまり落ち込むなよ。読めないことはないさ」
”むう。なら、いいのだが。ともかく退院したらすぐに来い。そこで真実を話そう”
「ん、分かった。必ず行くよ」
不思議な気分だ。
まるで偶然同じ出身地の奴と会った時みたいな、奇妙な親近感を感じてる。
”では、私は失礼する。また会おう、
「え?、イレギュラーって一体…」
そう聞き返したときにはもう、彼の姿はなかった。
来た時に鳴らしていた足音もせず、ドアを開ける音すらさせずに彼は帰ってしまった。
まるで、幻だったかのような去り際だった。
(でも、これがある)
雑な字が書かれた紙片。
これが無ければ、さっきのは夢か幻覚かとでも思ったに違いない。
「結構、駅に近いな。何があったっけ」
気が付けば、時間は夜の2時を回っていた。
明日も色々と検査がある。
さすがに寝ないと、明日に響くだろう。
紙片を枕の下に隠して、俺はベッドに倒れこんだ。
枕に顔を埋めると、どっと疲れが押し寄せてきた。
そのまま寝返りを打つこともなく、俺の意識は静かに落ちていった。
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