コールドブラッド~レプティリアンになった元人間は、常識の向こう側を知った~
春風落花
第1章 転変
第1話
音が、聞こえてくる。
真っ暗な世界から、いろんな音が聞こえてくる。
人の声はもちろん、足音や衣擦れの音。硬いもの同士がぶつかって奏でる金属音も、それらすべてが細かく聞こえてくる。
重かった意識が、体の奥底から起き上がってくるのを感じる。
億劫ながらもゆっくりと目を開けると、真っ白な天井が広がっていた。
背中と後頭部に柔らかい感覚がある。あまり好きではない、消毒液のツンとした匂いが鼻についた。
「あ、先生。患者さん、目が覚めたみたいです」
「お、そうか」
声のする方に首を傾けると、ナース服を着た看護師が笑みを浮かべていた。
何かを記録していたのか、手には使い込まれたバインダーを持っている。
「気分はどうですか、
夕日らしき赤い光で照らされた集団病室の中、ベッドとベッドの間に引かれたカーテンの陰から白衣を着た男が顔を出した。
年のころは40代後半くらいだろうか。綺麗にセットされた髪の下には、人のよさそうな顔があった。
「…悪くは、ないです」
ひどく、久しぶりに声を出した気がする。
俺の返事をどうとらえたのか、担当医であろう男は満足そうにうなずいた。
「そうですか。今自分がどういった状況なのか、分かりますか」
そう言いつつ、男はベッドわきにあった椅子を引き寄せて座った。
話が長くなるほど、面倒な状況なのだろうか。
「…たぶん、俺は車に跳ねられたんですよね」
ぼんやりとした頭で手繰り寄せた記憶には、自分に向かって突っ込んでくる乗用車の姿があった。
「そうです。歩道に乗り上げた乗用車にひかれたあなたは、1週間ほど意識がない状態だったんですよ」
「なるほど」
1週間。それが長いのか短いのか。俺にはよくわからなかった。
色々思い出そうとしても、分かるのは大通りから離れた細い田舎道を歩いているときに、突っ込んできた乗用車がいたことだけだ。
痛かったとか、そういう記憶はない。
苦しい記憶がないのは、ありがたいことなのだろう。
「落ち着いているようでしたら、今後の流れをご説明させていただきたいのですか、よろしいですか」
「ええ。よろしくお願いします」
◆◆◆
医者の話によると、幸いケガはさほど重くないらしい。意識を失っていたわりには脳にも内臓にも問題はなく、打撲が数か所と肋骨が2本ほど折れただけらしい。
意識がなかったがゆえに今まで滞っていた検査をこなし、打撲と骨折が治ればすぐにリハビリだそうだ。
目が覚めてから数日後、俺は五感の検査を行っていた。
まずはオーソドックスな視力検査から。
「じゃあ、これ見えますかー」
間延びした声を出す検査担当の看護師に少しだけイラつきつつ、いざ検査表の前に立ってみるとおかしいことに気が付いた。
見えすぎるのだ。
俺の視力は眼鏡こそ使わないものの、決していいわけではなかった。せいぜい0.8くらいだったと思う。
だというのに、検査表の一番下まではっきりと見える。しかも、意識すれば黒い丸どころではなく、検査表についている埃まで見える。
どう考えてもおかしい。
おかしくなっていたのは、視力だけではなかった。
混乱したままで終えた視力検査の次には聴力検査があったのだが、これはさらにひどかった。
集中すると、どんどん音が聞こえてくるのだ。
看護師の心音まで聞こえてきたときには、ちょっと泣きそうになった。
俺は、俺の体はどうなってしまったのだろうか。
どう考えても、普通の状態じゃない。
目が覚めたときにいた担当医に相談しようとしたのだが、そう思った瞬間になぜかひどい嫌悪感に襲われた。まるで、自分のことを人に話すこと自体が倫理観に反することだと思い込んでしまったかのように、罪悪感を感じるのだ。
(俺、こんな性格だったのか。いや、違う。普通に自分のことだって友達に話してたし、まして罪悪感を感じるなんてことは絶対になかった)
自分の異常を自覚したその日の夜、俺はベッドの上で悶々と考え込んでいた。
(やっぱり、事故のせいなのか? 確かに雷に打たれたことで超能力を得たなんていう話を聞いたことはあるけど、正直眉唾物だと思ってた。けど、本当に俺がそんな状態なのか?)
そもそも、俺は都市伝説とかそういったものは一切信じていない。
だからこそ、今の自分に戸惑ってしまう。
(たぶん、味覚や嗅覚、触覚も大幅に鋭くなっている。病院食は味が濃いとすら感じたし、匂いだけでなんの調味料がどのくらい入っているのかすら判断できた。触覚は確かめようがないが、以前より相当器用になった気がする)
「まあ、それで困るってことはあんまりないんだけど」
周りの患者に聞かれないよう小さく、言い聞かせるようにつぶやいた言葉に、安堵感を覚えた。
そう、困ることなどないのだ。
少しだけ気をつけて生活すれば。それに、時間が経てば治っていくかもしれない。
そうやって、前向きな気分になった瞬間だった。
怖いほど静かに、病室の扉が開いたのは。
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