第9話「過去の残滓」
「起きろ――起きろ、総助。起きるのじゃ――」
ウェルバルトの声がする。
目を開けると、覆い被られた状態で、彼女の顔が見えた。
どこかで見たシチュエーション――
「ああ、僕の部屋か」
さっき見た夢の続きだとしたら――
「無限ループにでも入ったのか……?」
「何を言っておる。時間がないのだ。早く起きんか」
僕は身体を起こした。
「分かってるよ。町が危ないんだろ――」
「ワシたちが危ないんじゃ」
「は――?」
すくっと立ち上がるウェルバルトの背景がおかしい。
というか、自分の周りがおかしい。
少し意識を戻しすぎていた。
僕はウェルバルトの横に飛び起きた。
まだ井戸の底であった。
――そうか。僕はエリンと一緒に落ちたんだ。
見上げたが、井戸の入り口がなかった。
天蓋のように白い霧が覆っているだけだ。
――かなり落ちた気がしたけど……。
どこにもケガはない。
ここも距離感が狂わされているようだ。
足元にも霧が一面に広がっていた。
青い光が透けて抜けてきているが、何が光っているのかは分からない。
靴底はスポンジを踏んでいる感触があるのに、歩く時には邪魔にならないのだ。
雲の中に閉じ込められたような感じだ。
――っつうか
「ウェルバルトまで来たのかよ!」
「今頃か」
ウェルバルトは呆れるように言った。
「しょうがあるまい。おぬしだけでは、ここから戻れまい」
「確かにそうだけど――」
「おぬしとエリンがモロフを落としてくれたおかげで、引っ掛かっていたコインも根こそぎ落ち、彷徨い出ていたシープも消えたのじゃ」
「それは良かった」
「何が良かったじゃ。先輩たちが井戸まで来られたからこそ、ワシも降りられたのじゃ。でなければ、おぬしは井戸の底で記憶喪失になるところじゃったんだぞ」
「――何それ?」
ウェルバルトが指をさした。
視線を動かすと、その先でマンデーシープが一体震えていた。
内側から爆発したように羊の姿消えた――と、そこにスーツを着た中年の男性が立っていた。
やせ細った頬と、メガネが印象的な、サラリーマン風な人であった。
彼は辺りを見回すと、ふ――と幸せそうに目を閉じた。
「今、彼は記憶を再生している――」
「マンデーシープが元々持っていた記憶……?」
サラリーマンは虚ろな目を開けた。
途端に、ふわりと浮かんだ。
「え――?」
そのまま宙で姿を消していった。
「消えた――?」
「シープの浄化と呼んでおる。記憶を消去するのじゃが……そうじゃな、成仏したとも言える」
「じゃあ、エリンは――」
「このままでは消えるじゃろうな」
――冗談じゃない!
下へ落ちる時、エリンが言った『消える前』とはこの事だったのだ。
探そうとした僕の手をウェルバルトが掴んだ。
「エリンを助けなきゃ」
「分かっておる! だが覚えておけ。ワシらにもシープがついておるのだ。これらが浄化されれば、記憶が無くなるのじゃぞ」
言わんとしてることは分かった。
大事な記憶が入っているマンデーシープ。通常は背中に憑いている。
それが強制的に消去される場所――それがここ、井戸の底だ。
「それが、記憶喪失になるってことか……」
ウェルバルトは腕時計を見た。
「保って三分じゃ。戻る時間を考えると、それがリミットじゃぞ」
ウェルバルトの背中のシープも揺れ始めている。
そうなのだ。
彼女も危険を冒して来ているのだ。
僕は頷くしかなかった。
* * *
僕とウェルバルトは井戸の底を走っていた。
一分、ずっと走っている。
屋内だったら、先が見えそうなものなのに、全く気配さえなかった。
端が見えない。
常に同じ距離に霧の壁が遮っているようなのだ。
遠くにいると思ったマンデーシープが、二、三歩で横を通り過ぎたりする。
遠近感が当てにならないのだ。
驚いている間にも、どんどん記憶が再生され、老若男女が消えていく――
その中にエリンがいないとも限らない。
――いや。多分すれ違った人たちはエリンじゃない。
ただの勘だが、確信をもって言える。
「エリンは人の姿に戻っている可能性がある。心当たりはないのか?!」
「僕の記憶と一致する人がいるとしたら、多分父さんじゃない」
「根拠はあるのか?」
「エリンはきっと――もっと優しい人だった」
さっき、井戸の底へ落ちていく時、触れ合った記憶の残滓――父さんじゃないのは確信した。
「覚えてないけど、その感覚だけは残っている」
どんどんと宙へ浮かび、消えていくマンデーシープたち。
気だけが焦る。
時間がどんどんと過ぎていく。
「思い出せないなんて、僕は――」
「落ち着け。おぬしが要じゃぞ。おぬししか、分からないことなのじゃ」
「分かってるよ!」
走っていると、人が密集している所へ出た。
「あれは――」
「恐らく、モロフじゃな」
モロフは記憶を吸った集合体。
そのモロフが散れば、記憶たちが散在するのは当たり前のことだ。
中心に師岡の姿があった。
見つめる先に、宇道さんの姿があった。
彼女は消える寸前であった。
「本当に好きだったんだ」
「無意識でモロフを作ったとはいえ、こんな方法では人は惹かれたりせんよ」
「そうだね――」
師岡が消えるまで僕は待っていなかった。
「モロフがいるってことは、エリンもこの辺にいるはず――」
「急げ、時間がな……い――」
ウェルバルトが、僕の肩の辺りを凝視している。
「え――何……?」
肩に人影があった。
昔の服を着た人だ。
刀は挿してないが、ちょんまげがある。
「誰――?」
「知らんのか?」
ウェルバルトも一杯一杯らしい。
ちょんまげの知り合いなんているはずがない――。
その人も消えかかっていた。
ちら――と僕を見た。
への字に結んだ口や頑固そうな顔の中で、目だけが優しい。
「え――?」
組んでいた腕が解かれ、指先が先を指す。
そこに一人の姿があった。
女子高生だ。
髪が長く、地元ではないセーラー服を着ている。
――だけど、見覚えがある。
「あの人……」
切れ長の目――あれはエリンの目だ。
柔らかい笑みを浮かべる唇――
優しい声が僕に声を掛ける。
ごきげんいかが?
「江里子姉さん――」
「何?」
「エリンだ!」
僕は走り出していた。
女の子は、すうっと浮かび始めていた。
僕は手を伸ばした。
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