第8話「決別の井戸へ」
「きゃあっ――総助――!」
『思わず』という言葉があるが、僕は正直信じていなかった。
動きをつかさどる頭脳を差し置いて、行動するなんて有り得ない。
そう思っていた。
――いやぁ、あるもんだ。
ウェルバルトが掴まれた瞬間、僕は飛び出していた。
まさしく『思わず』だ。
僕はウェルバルトの身体に抱きついた。
影は黒い餅のように、膨れ、萎むように、井戸へ戻っていった。ウェルバルトと共に。
僕は井戸に下半身を引っ掛けて、落ちていくウェルバルトを支えた。
縁でくの字になって、上半身は井戸の中だ。
幸い、ウェルバルトの小さい身体に、両腕は巻きつくように抱えられている。手が滑って落とすことはない。
――さっきの『きゃあ』はウェルバルトか?
僕はこの状況で、場違いにも、そんな考えが浮かんでいた。
名前を呼ばれたようにも思えたが、当の本人は心配そうな表情を浮かべて見上げている。
とてもじゃないが、今はそんなことを訊いている場合じゃなさそうだ。
そもそも、その奥で井戸を塞ぐ物体が気になった。
あれだけ大きいのに、重みを感じないのだ。
――マンデーシープか。
僕は思い至った。
よく見ると、黒い餅の中央に、名前所以の羊顔がある。
「モロフ――」
「この女、許さない。こいつを井戸の底へ落としてやる」
その顔が喋った。
同時にぐっと力が加わった。
ぶふっ――耐えすぎて、口から変な音が出てしまった。
重みはないはずだから、自力で引っ張っているようだ。
力負けしている。
下半身だけで堪えるのも無理があるし、限界はあっという間だと自覚していた。
「何とかならないもんか……」
考えを口にしてみた――が、答えはすぐには出ないものだ。
ぱすん――と、何かが頭に乗った。
「わたしを頼って、総ちゃん」
「え――?」
「わたしが何とかするから!」
答える間も無かった。
エリンは頭から離れると、井戸へ入っていった。
「エリン!」
「何をする気じゃ!」
エリンがモロフの横をすり抜け、さらに下へ。
「まさか――……? させんぞ!」
モロフが片手をエリンへと伸ばす
「エリンのやつ、モロフを封じたコインを落とすつもりじゃ!」
井戸は石が積まれて構成されている。
その内側ではみ出した石が、出っ張りになっていた。
そこにコインが乗っている。
エリンは、その中の一個へ向かっているようだ。
モロフの手も近付いている。
僕の見立てでは、モロフがエリンを捕まえる方が早い。
「だめだ……そんなこと――」
二度目の『思わず』――
僕はウェルバルトを力任せに引き上げた。
「おぬし――」
ウェルバルトの目が驚愕に開いていた。
まあ、それもそのはずだ。
彼女を引き上げるため、僕は身を井戸へ乗り出したのだから。
モロフの腕を蹴り飛ばして、離させた。
同時に、小さな身体は上へと放り投げた。
我ながら上手くいった。
自画自賛。
ウェルバルトは井戸の外側へ落ちるはず。
――その代わり、と言っては何だが……
僕が井戸へ落ちていた。
エリンがコインを掴んだのが見えた。
僕が持ち上げたために、モロフはエリンを追い損ねたのだ。
コインを手に振り向いたエリンを、僕はモロフと一緒に通り過ぎた。
「え?」
えええええ――エリンの絶叫が遠ざかっていく。
僕を乗せたモロフが落ちていく。
「やってしまった……」
今更ながらに反省をした。
エリンを助けるために、井戸へ飛び込み、モロフへ落ちたまでは良かった。
一緒に落ちることまでは考えてなかった。
当然といえば当然の流れ。
不思議空間だろうと、物は上から下に落ちるのだ。
――しかし……
まだ落下している。
何十階建ての高さがあるのか。
せいぜい四、五メートルだと思っていた。
――終わったな。
他人事のように僕は達観していた。
ウェルバルトとエリンが救えただけで満足であった。
もし、心残りがあるとしたら――
――エリンとちゃんと仲直りできなかったことかな……。
すっと、脇の下に小さな手が入ってきた。
持ち上げようとしているらしいが、全く微動だにしない。
振り向くと、エリンがいた。
「エリン――? 何やってんの?」
「それはあたしのセリフ。あなたが落ちてどうするのよ!」
珍しくエリンが怒っている。
「エリンを見捨てられるわけないでしょうが――」
エリンが驚いた顔をした。
「あたしを嫌ってたくせに?」
謝るならここしかない。
「嫌ってたわけじゃないよ。マンデーシープが怖かっただけ……」
「総ちゃん――」
エリンの表情が微妙に歪む。
そう。エリンもマンデーシープなのだ。
だけど――……
「だけどエリンは平気だよ」
僕は頑張って笑顔を見せた。
そのくらいは出来る。
エリンは友達だ。
「良かった。総ちゃんに嫌われてなくて――」
「エリン――?」
「消える前にちゃんと話が出来て、良かった……」
「え――? 消える――?」
どすん――
という衝撃にまず巨大なモロフがそこに達した。
僕の身体は弾みで浮かんだ。
そして落ちた。
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