第7話「大蔵町騒乱」

 いつもは寝付きが良いのだ、僕は。

 偶々だ。

 色々ありすぎて、ベッドへ寝転がっても眠気がこなかった。

 やっと、目を瞑る――という行為を無意識に出来るようになった時、ベッドのスプリングが揺れた。

 誰かが乗ってきた重みだ――そう認識して、目を開けた時には、既に覆い被さられていた。

 帽子を被った人の形に、天井が切り取られていた。

「声を上げるでない」

「ウェルバルト――?」

 悲鳴は寸前で呑み込んだ。

「何をしに? というか、どこから? っていうか、何の用事?」

「良いから支度をしろ」

 ウェルバルトがベッドから下りた。

 僕は起き上がった。

 窓が開いていた。

 そういえば夕方開けて、鍵は掛け忘れていた。

「今、何時さ――」

「四時だ」

「ええええ……あなたは、規則正しい生活ブレイカーですか――」

 寝起きで思考もイマイチだ。

「何でもいい。町が危ないのじゃ。急げ」

「町が、危ない?」

 そう言われ、パジャマ代わりのスウェットから、ジーパンとシャツに換え、家を抜け出すまで五分とかからなかった。

 それなのにウェルバルトは、

「遅いぞ」

 と言い置いて、夜の街を走り出した。

 不本意ながら、僕も彼女を追いかける。

「町が危ないって?」

 全てを言い終える前に、何となく理由が分かった。

 マンデーシープの量がいつもより多いのだ。

 道は、夕方に行った氷川神社へのルートだ。

 近付くにつれ、マンデーシープが増えていく。

「何、これ――?」

「井戸に問題があったようじゃ。一番近いワシに連絡が来たのじゃが、一人では手に負えん。おぬしたちにも手伝って欲しい」

「おぬし――たち?」

 足が止まってしまった。

 ウェルバルトも三メートルほど前で止まって、振り向いた。

「もしかして、エリンも来るのか?」

「先に行って待っておる」

 エリンに対して、自分はどう対処していいのか、分からずじまいであった。

 自分の中では整理は終わってなかった。

 明日、学校から帰ったら探してみよう――とは、思えるようになった。

 だから眠ることができたのだ。

 探している間に考えようという問題後回し的な考えだった。

 だから、今すぐと言われると、躊躇してしまう。

「おぬしらを仲直りさせるために、ワシが仕組んだことと違うぞ」

「分かってる」

「即答されるのも、納得いかないが……」

「とりあえず分かった。急ごう」

 僕はウェルバルトを追い越した。


 昨日、さりげなく父さんのことを、母さんに訊いてみた。

 母さんは顔の下半分を歪めて、知らない――と答えた。

 それは嘘をついている表情だ。

 質問を変えて、死亡している可能性を訊いてみた。

 あいつは殺しても死なない――なんて答え方をされた。

 曖昧すぎて、エリンが父さんじゃないとは言い切れないままだ。

 総ちゃん――これは就学前の呼び名で、みんながそう呼んでいたらしい。

 つまり、父さん以外もありえるのだ。

 他に何か判断できるものがあれば――


「総ちゃん!」

 本当に呼ばれていた。

 上を見るとエリンが浮かんでいた。

 ――う!

 言葉に詰まってしまう。

「どうかしたのか?」

 ウェルバルトがエリンに訊いた。

「この先はシープたちがいっぱいで通れないよ」

 口調は女子っぽいけど判断はつかない。

 モロフだって柄の悪い女子声であった。

 手掛かりは姿――というか、顔だ。

 モロフの顔付きは、師岡の印象を持っていた。

 だけど――

 もっとよく見たいが、顔を上げられずにいた。

 ちらりと見れば、エリンも同じく顔を逸らしている。

「おぬしら、しっかりせい」

 ウェルバルトが焦るように言った。

 確かにそれどころじゃない。

 エリンが動き出した。

 道案内するらしい。

 ウェルバルトの後を僕が続く。

 ぐるりと迂回して、神社が見える道へ出たが、入口の辺りが真っ白だった。

「あれ全部――マンデーシープ……?」

「こっちじゃ」

 ウェルバルトが裏手への道へ入っていく。

 さっきほどではないが、こっちも多い。真っ直ぐは進めない。

 すり抜けるように神社の石塀へ達する。胸より高い塀を、何とか乗り越えた。

 ウェルバルトが必死に身体を持ち上げようとしている。

 無理そうなので手を貸すことにした。

「変な所には触るでないぞ」

「おんぶだってした仲じゃない」

 と言うと、

「ワシに記憶を消す力があれば」

 と、恐ろしい言葉で返された。

 結局、僕が戻って、後ろから持ち上げる――という方法を取った。

「脚以外に触るなよ」

「努力するよ」

 肩に座らせるように持ち上げて、やっと乗り越えられた。

 神社の敷地内へ入り込んだ。

「ここは風上だから、それほど多くはないようじゃが――」

 境内を見回すと、確かに風に流されていくマンデーシープが見える。

 エリンが、平気なのが不思議であった。

 これらマンデーシープの出処は――

 自販機だ。下から溢れ出ている。

「逆流してるみたいだぞ……」

「しばらく自販機のシステムは一帯で停止させておるはずだが、この溢れようは異常じゃな」

「ここへ放り込まれたら無害になるんじゃないのかよ」

 ウェルバルトは答えない。何か思案しているようだ。

「こうなっては、井戸を直接見るしかない」

「中に入るってこと?」

 ウェルバルトが頷いた。

「自販機が設置されてるということは、メンテナンス用の入口が別に設けられてるはず。そこから井戸へいけるのじゃ」

「それはどこ?」

「その場所が分からんのじゃよ」

 ウェルバルトが切羽詰ったように言った。

「神社の人に訊いたら?」

 ウェルバルトが驚愕の表情を向けてきた。

「ん?」

「ん?」

「も、もちろん、そうするのが一番じゃ」

 ウェルバルトは社務所へ逃げるように走っていった。

 ――気付いてなかったのか。

 ふと気付く。

 エリンと二人きりであった。

 ――気まずい……

 ちら、ちら――とエリンを見る。

 時々エリンと目が合うのは、同じことをしているからだ。

 ――あなたは父さんか――なんて訊けないよな。

 そもそもその可能性は低い。

 僕はそう思っている。

 父さんは生きていると信じているからではなく、他の誰かだという確信が強いからだ。

 ――まあ、ただの勘だけど。

 他に、総ちゃんと呼ぶ人間――親しい誰か――

「総ちゃん」

「え――」

 エリンがそ――っと下りてきた。

「ごきげんいかが?」

「――うん」

「っていうか、まだ……怒ってる?」

 そう訊かれると、返答に困る。

 僕は、エリンに対して怒っていたわけではない。

 マンデーシープへの不信感に耐え切れなくなっただけだ。

「いや――」

 何とか言葉にしようとした時――

「おーい、こっちじゃ」

 ウェルバルトが拝殿から呼んだ。

 僕とエリンは素直に従い、拝殿へ向かった。

 曖昧な言葉を吐き出さずに済んだ安堵感と、仲直りの機会をまた逸した無念が胃の辺りで同居している。

 ぞわぞわと萎縮した感覚を振り払えない。

 ――悪いのは僕なのだ。

 それは理解している。

 ちらと振り向くと、水から上がったような気だるさを全身に纏ってエリンが付いて来ている。

 エリンには感情があることを実感する。

 傷つけた相手との関係を修復する術を、僕はまだ持っていない。

 恐らく謝れば、エリンはそれを受け入れるだろう。でもそれは原状回復への喜びであって、自分の傷心をなかったことにする行為だ。

 ――それではまた僕は同じことをする……

 僕が楽をするためではない謝罪方法を探すんだ。


   *   *   *


 拝殿には、ウェルバルトの他に、白い装束を着た神社の人が待っていた。

 神社の人は禰宜という職の人だと、ウェルバルトが軽く説明した。

 彼が鍵を持っているのだ。

「この裏から入れるそうじゃ」

「本当に僕たちだけで行くの?」

 ウェルバルトが神妙に頷いた。

「どうやら、ワシたちがここへ入ってから、道がシープで塞がってしまったらしい」

「うぇ……」

「先輩たちも到着したようだが、捕獲しながらの進行だ。自販機を塞ぐのも儘ならないらしい」

 禰宜の人に続く。

 ご神体をぐるりと廻り、背後の通路へと入っていく。

 禰宜が持つ、ろうそくの明かりだけが、唯一の光源で、心細くて逆に恐かった。

「元を断たないことには、どうしようもないのじゃよ」

「理由は分かったけど――僕で、何とかなるのか?」

「見えているだけマシじゃ。それに、もしかしたら、おぬしにはシープに対して、抗体があるのかもしれん」

「抗体?」

「記憶のやり取りが発生しない何かじゃ」

 禰宜が突き当たりで、木の戸を開けた。

 夜闇が四角に切り取られたようだ。

「ここからはワシらだけで行くぞ」

「お――おう……」

 ウェルバルトが四角の中へ、僕とエリンも続く。

 懐中電灯が空間を照らす。ウェルバルトが持っているようだ。

 拡散する光は、ほんの一メートルほど先までしか見せてくれない。木の階段がずっと続いていた。

 右側は壁で、階段はそこに接するように作られている。

 左側は何もない。落ちたら、見えない底まで、真っ逆さまだ。

 きしきしと音を鳴らし、下りていく。

「こんな事態、初めてでな――全て憶測なのじゃが」

 声が変に反響して、ウェルバルトが左横にいるように聞こえた。

 何度も言うが、左側は何も無い。

「今、道を埋めているシープは、一度封印されておる。その場合、再封印はできん」

「じゃあ、あのまま?」

「いや。封じたコインが、井戸に引っ掛かってるからじゃと、推測されててな」

「それを落とせば、また井戸に戻ると?」

「そういう見解じゃ」

 遠い下の方に光が見える。

 目的地だ。まだ、かなり遠い。

「あいつらはな、今、本体と記憶が離れている状態じゃ」

「記憶はコインの中?」

「そう。上で溢れている奴らは空っぽ――つまり、記憶を奪える容量が空いた、とも言える」

「問題はあるの?」

「中身を求めて、人へ接触しようとするじゃろ。触れただけで、記憶を吸われてしまうのじゃ」


「寂しいんだよ。みんな」

 エリンが後ろでつぶやいた。

 空っぽを埋めるため、か――。

「再封印できないものを、町に放すわけにはいかんからな」

「うん……、何となく、非常事態ってのは理解できた」

 やっと下へ達した。手摺も無く、何十メートルも下りてきたのだ。

 緊張感で足腰が微妙に震えていた。

 かなり深い所まできたな――僕は見上げた。

 二メートルくらい上に、入口が見えた。木の戸らしきものもある。

「え――?」

「考えるな。空間を歪ませている――と説明を受けたが、さっぱりじゃった」

 ウェルバルトがドアを開けた。

 漏れた明かりが、何もないはずの左側を浮かび上がらせる。

 普通に物置であった。

「考えるなって言われてもな……」

 絶対に何十段も、下りてきたはずなのだ。

 感覚的な誤認――と、僕は結論付けた。

 うん。そういうことにしておこう――。

 ウェルバルトへ続いて、部屋の中に入る。

 すごい広い部屋――それが第一印象であった。体育館くらいの大きさがあった。

 白い霧のようなもので覆われ、幽玄な雰囲気も持っていた。

 しかし、よく見れば、五メートル四方に壁がある。

 それほど大きくもなかった。

 ここでも感覚が狂っている。

 ひんやりとした空気ではあるが、寒さは感じない。

 つまり、変な部屋なのだ。

「もっとシープで溢れてるって思ってた」

「そうじゃな――」

 部屋の、ど真ん中に井戸があった。

「本当に井戸だ」

 ウェルバルトが井戸へ向かった。

 僕はちらとエリンを見てから、それに続いた。

 エリンは周りを見回すように、高い位置へ浮かんで、ふわふわと付いてくる。

「確かに様子が変じゃ」

 ウェルバルトの声に、意識がエリンからまた離れた。

「聞いた話では、井戸は、蒼い、綺麗な光を放っているらしいが――」

 確かに、普通の井戸に見える。

 慎重に近付くウェルバルトへ並んだ。

「だめ――! 井戸から離れて!」

 エリンの声が上から聞こえた。

 僕は足を止めた。

 ウェルバルトは井戸へ達してから振り向いた。

 この差が運命を分けた。

 ぬうっと現れた、のっぺりとした影が、ウェルバルトを抱きかかえた。

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