第6話「売り言葉で買うケンカ」

 日曜の学校は、思いっ切り休日の空気に包まれている。

 校庭から声もするし、音楽室からは吹奏楽の管楽器の音がしている。

 それでも静けさがあって、寂しげなのだ。

 在校生でありながら、部外者感に苛まれるのは、私服だからだけじゃない。

 正門が開いているのに、裏口から入ったせいもあるだろう。

 ウェルバルトもエリンも何も言わない。

 同じ気持ちだからかもしれない。

「どこへ?」

「学校は広いからな。中等部も含めると見る場所が多すぎる」

 ぱふっと、エリンが頭に乗ってきた。

 背筋がひんやりとした。

 まだエリンに対して信頼を取り戻したわけではない。

 接し方を変えないように押さえ込んだだけ。

 つまり体面を取り繕っただけだ。

 そう考えると自己嫌悪に陥りそうになるが、全て表に出さず、エリンを掴んで下ろした。

 ウェルバルトがそれを不思議そうに見た。

「どうしたのじゃ?」

「いや――、エリンなら、分かるかなって思って」

「ん?」

 エリンが手の中で振り返った。

「ここにも数匹浮いてるし、結構な数がいるぞ」

「たとえば、一番大きな感じを掴めないか?」

 僕は言って、手を離した。

 エリンはふわふわと浮かび上がっていく。

 何かを探るように周囲を見ている。

 エリンに触れていた手を、見たい衝動を僕は抑えた。

 記憶に問題はない――感覚的にはそう思っている。

 だが、感情では、よく分からなくなっている。

「あっち――」

 エリンが小さい前足を、離れの校舎を指して言った。

「特殊授業棟じゃな」

「あの辺なら部活では使用しない。人目にも付き辛い」

 ウェルバルトが走り出した。

 僕は追随した。

 校庭や体育館から最も遠く、僅かに届く喧騒は、静けさを強めていた。

「ウェルバルト、校舎裏だ」

 思いつきだが、僕はそう言った。

 ウェルバルトは渡り廊下から、中庭へ抜けた。

 中庭に午前の太陽が当たっている。柔らかい日差しが、植樹の葉を通り、優しい影を作っていた。まだ蕾ばかりの花壇の横を走り、校舎を回りこむと、校舎裏へ行ける。

 日陰の中に二つの人影。

 向かい合い、こちらを向いているのは宇道さんだ。

「いた!」

 走り寄る僕らに、宇道さんが気付いた。

 奥へと逃げ出した。

「もう一人がモロフの本体だ!」

 宇道さんの肩から伸びる尾が、背中を向ける男子生徒へ繋がっていた。

「何じゃと?」

「ウェルバルトは本体を! 僕は宇道さんを!」

「モロフはそっちじゃぞ!」

「分かってる!」

 僕はエリンとウェルバルトを置いて、本体である男子の横を通り過ぎ、宇道さんを追った――までは良かった。

 勢いで来てしまったが、全く分かってなかった。

 裏の雑木林で追いついたが、どうすればいいのか……。

 背中を向け、立ち尽くす宇道さんへ近付く。

 警戒はしている。

 一歩一歩、ゆっくりと。

 だけど、違和感はあった。

 それは何か――

 気付いたのは、背後に気配を感じた時だ。

 ――モロフがいない?!

 首筋に吸い付かれた。

 フラッシュバックに目眩がする。

 人の記憶が一気に流れ込んで――――――こなかった。

「お前、変だ――」

 首筋から聞こえた。

 きっとモロフだ。

「総ちゃん!」

 エリンの声が一気に近付いてきた。

 ぶつかった衝撃と同時に、首筋が開放された。

 足腰が立たず、座り込んでしまった。

 白かった視界が戻ってくると、横手でにらみ合って浮かぶ、エリンとモロフが見えた。

 マンデーシープ同士がぶつかったら、記憶は吸収し合う。

 どちらかが消え、残るのは一人――。

 エリンの方が不利だ。

 分かっているが、身体が動かなかった。

 それほど体力を失ったのか……それとも、エリンを助けようという気にならないだけか――。

 モロフが動こうとした。

 僕はまだ動けない――。

 その時だ。

 ウェルバルトが駆けつけた。

 剣を振るって、モロフの繋がりを斬った。

「なんと――」

 モロフが悲鳴を上げた。

 次の動作で、剣を鞭形態に変えて、ウェルバルトはモロフを確保した。

 モロフの身体を、赤紐で繋げられた五円玉の列が回った。

「無事か?」

「良いタイミング。ヒーローみたい」

「ワシは女子じゃ」

 やっと笑える感覚が戻った。

 僕は立ち上がれた。

「お前、何者だ!」

 モロフが僕へ向かって叫んだ。

「記憶を奪おうとしたのに出来なかった!」

「え――?」

「お前の記憶はどこかおかしい!」

 モロフが憎々しげに怒鳴った。

 どういうこと――と、僕はエリンとウェルバルトを見た。

「さあな」

 ウェルバルトはコインを取り出した。

 エリンはふわふわと浮かんでいるだけだ。

 モロフの封印が始まった。

「ちくしょう! ちくしょう! ここまで――ここまでの意識を持つのに、どれだけ苦労したか! お前らにはわからんだろ!」

「何体ものシープを吸収した――と、言い換えられるじゃろ」

「ちくしょう!!」

 モロフがコインへと入っていくと、殺伐とした空気が鎮まっていくのを感じた。

 エリンがふわふわと近付いて来る。

「総ちゃん、大丈夫?」

 僕はエリンの接近に後ずさった。

「来るな――」

「え? 何?」

「お前ら、マンデーシープを信用できない――」

「そんな……、総ちゃん、わたし――」

「モロフが僕の記憶を奪えなかったのは、お前が何かしたせいか?」

「わたしはしてないよ」

「じゃあ、何が狙いだ!」

「狙いなんかないよ。わたしはただ――」

「信じられるか! お前はきっと僕の記憶を奪おうとして、失敗したからここにいるんだろ」

「そんなわけあるまい。記憶の塊じゃと言ったろ。悪知恵は働かんよ」

「モロフは何なんだよ!」

 ウェルバルトが黙った。

「あいつは欲望を持っていた! エリンがそうじゃないって言えるか?!」

「心は誰にも分からん」

「だろ――」

「あるのは、相手を信じるか、信じないか、だ」

 ウェルバルトが突き放すように言った。

 僕の度量の狭さを責めているようだ。

 ――この状況でどう信じろと……。

 エリンを横目で見る。

 エリンの表情は悲しげだ。

 少しだけ、罪悪感はある。

 言い過ぎたかもしれない。

「あら――あたしは……?」

 宇道さんが気付いた。

 実にタイミングが悪かった。

 もし彼女がいなかったら、謝って終わったかもしれない。

「僕は、エリンを信じられない――」

 そんなことを口走っていた。

 僕は背中を向けると、歩き出した。

「萬田くん――?」

「総ちゃん……」

 声を置き去って、僕は校舎裏へ足早に逃げ込んだ。

 男子が一人、脇に腰掛けている。

 モロフの本体だ。マラソンで体力を使いきったように、頭を抱えて座り込んでいる。

 無視しても良かったのだが、あまりに人を退けすぎて、これ以上自分を嫌いになりたくなかった。

「大丈夫?」

「ああ――。何があったんだか? 何故、学校に……?」

 と頭を上げた。

 頭を押さえているのは、頭痛がしているのかもしれない。

 眉が立派な体育会系の顔付きをしている。

「僕に訊かれても――」

「そうだよな」

 結局、僕は何をしてあげようとも思えず、そのまま彼を置いて、学校を後にした。


   *   *   *


 帰ってから、僕はずっとベッドに転がったままだ。

 西日の恩恵を受けない僕の部屋は、電気をつけないと夕暮れの暗さに包まれる。

 今の僕にはちょうどいい明度だ。

 何も考えず、ぼうっと天井を見上げていられる。

 嘘だ。

 壊れた音声データのように、同じことを延々と繰り返し再生していた。


 ――僕は正しかったのか?


 答えの不要な自問だ。

 正解は分かっている。

 エリンやウェルバルトを信用できるか――できないか――

 その問いさえ、『一緒にいた二日』が答えている。

 疑念だけで人を遠ざけてしまった。

 後悔してる。

 自己嫌悪で参ってる。

 つまり落ち込んでいるのだ。

 ここまで明確に気持ちを把握しているのに、素直に謝ることができない。

 ――まるで子供だ。

 掛け違えたボタンを指摘されて、『失敗しちゃった』と笑って直すタイミングを逸したようなものだ。しかも止せば良いのに、『これがオレ流のファッションだ』とか言い張って、取り返しがつかない状態だ。

 この場合の解決方法は、相手が気付かぬうちに直して『元からこうでした』と知らん顔をするしかない。

 今の状況に置き換えると――

 エリンが戻ってきて、僕も普通に迎えて、通常の関係に戻る……

 ということだが、なんと自分本位な手段か。

 都合が良すぎて、こんなストーリーにならないルールを忘れている。

 向こうは過去の記憶の塊なのだ。

 ――僕の家を覚えているはずがない。

 果たしてそうだろうか。

 もしエリンが普通のマンデーシープならそれで解決する。

 記憶できないのなら、僕の消したい態度も覚えていないはずだから。

 探しだして連れ戻せばいい。

 ――だけど……。

 エリンは特殊シープである。

 きっと覚えている。

 僕が傷つけたことも。

 帰り道も。

 だからいつまでも僕は一人で悶々としている。

「ああ、もう、なんで――……なんで、こんなにも気に掛かるんだ――」

 とん、とん――

 横の窓ガラスが叩かれた。

 エリン――?

 僕は上半身を起こしてビックリ。

 ウェルバルトがぶら下がっていた。

 僕は慌てて窓へ近付いた。

「何やってんの?! 呼び鈴っていう道具、知ってる?!」

 窓を開けながら怒鳴った。

「居留守を使われんようにな」

 しらっとウェルバルトは言った。

 僕は答えられず、ただウェルバルトが上がれるよう手伝いをした。

 ウェルバルトは窓の桟に腰をかけた。

 部屋に背中を向け、足は外へブラブラさせている。

「何の用?」

 ウェルバルトはコインを出して、僕に翳して見せた。

「モロフ?」

「これを『決別の井戸』へ捨てに行く。一緒に来ないか?」

「何故――?」

「理由は不要だ」

 ウェルバルトは無表情にそう言った。


「行くか? 行かないか?」


 結局、行くことにした。

 彼女にも伝えたいことがあるのだろうと分かったし、僕も訊きたいことがあった。

 だから同意した。


   *   *   *


 決別の井戸――とは、マンデーシープを引き取る場所らしい。

 彼らを浄化し、無害なものに変えるのだ。

 ウェルバルトに引き連れられ、町を進む。

 そんなに遠くではないというが、もう三ブロックは歩いている。

 まだ近所の範囲ではあるが、めったに来ないため、地理的には微妙に分からない場所だ。

「井戸って、どこにあるんだ」

「本当に井戸があるわけじゃない。まあ、昔は本当に井戸だったらしいが、今はもっとデジタルだ」

「へえ――」

 歩道もない細道を並んで歩く。

 一方通行は自動車が二度通り過ぎただけの過疎空間だった。

 路上で遊ぶ三人の小学生を数分前に通り過ぎてから、他に住民に会っていない。

「モロフの本体は、師岡一志。宇道咲と同じ高校の二年生らしい」

「そうなんだ」

 つまりは僕の先輩でもある。

「宇道に惚れていたらしいが、フラれたらしい」

「三島先輩がいたからか――」

「そうじゃな。宇道は三島が好きで、告白された。だから師岡の気持ちは受け入れられなかったのじゃ」

「モロフは何なんだ?」

「心が、フラれた痛みを忘れようと生み出したシープだ」

「自分で作ったってこと?」

 ウェルバルトが頷いた。

「業の深さのせいか、意思を持ち、本人から離れて動いたようじゃな。しかも本人は何も覚えていない」

「そんなことがあるのか」

「前例がないこともない」

 オカルト的な言い方をすると、生霊ということか――。

「モロフは、そこら中のシープを吸収することで、能力を高めていった」

 ここからはワシの推測じゃ――と言って、ウェルバルトは続けた。

「モロフの元々の原因である、宇道との恋を成り立たせようとしたんじゃろう」

「宇道さんに憑いて、先輩の記憶を消して――」

「師岡を記憶に植えつけようとしたのじゃ」

 荒唐無稽だ。

 正に記憶の操作である。

「そんなこと……上手くいくのか?」

「いかんじゃろうな」

「でも、あそこまでは連れてこられたんだろ?」

「記憶で行動は制御できるが、心には干渉できないものじゃ」

 難しい言い方で返された。

 自分の中で理解できる言葉へ置き換える。

「約束があったかも――と学校へは連れて来れるが、好きだったという記憶で、好きと思わせることはできない――ってこと?」

「そういうこと」

 たどり着いたのは神社であった。

 氷川神社――と、入口の石塀に書かれていた。

 石の鳥居と、その奥に社が見える。

 右手が小高くなっていて石段が見える。

 あれは富士塚という、とおばあちゃんに聞いたことがある。

 ウェルバルトは中へ入らず、その横の自販機へ近付いた。

 自販機の電子マネーの読み取り部分へ、身分証をつけると画面が変わった。

 見たことのない形の文字だ。僅かな知識で言うと、梵字に思えた。

 ウェルバルトが、モロフのコインを入れると、ジュースの下のボタンが、一つ点滅していた。

 それを押すと、がたん――と音がした。

 取り出したのは丸い玉だ。

 手の平くらいで、斑な文様のつるつるした石であった。

「それが――報酬?」

「まさか。これを県本部へ持っていけば、換金してくれる」

「へえ」

 便利なような、不便なような、分からないシステムであった。

 自販機の後ろへ廻ってみた。

 普通の自販機の平面な背中があるだけだ。

「モロフは、この中に?」

「コインのまま、自販機の底から地下パイプへ落ちたはずじゃ。パイプは井戸へ通じており、そこでシープは浄化される」

「その井戸って何だ?」

「精神的世界――と説明された。ワシは封印された特殊空間と認識しておる」

「そんなものが、地下にね」

 疑っているわけではないが、そう訊くと、ウェルバルトも懐疑的らしく、両腕を上げて『さあ』というジェスチャーをした。

「実際、ワシは入っておらんからな。どこまでホントかは分からん。ただ、コインが溜まっているだけかもしれんしな」

 僕はしゃがんで、自販機の下を覗いた。

「仕事も一段落したし、おぬしにも報酬を渡さんとな」

「僕はいいよ」

「そうもいかん。ちょっと待っておれ」

 がたん――と音がした。

 『報酬』の想像が大体ついた。


   *   *   *


 傾いた陽光は息を潜め始めていた。

 滲むような夕空に、街灯が灯っている。

 報酬で貰ったおしるこの缶も、すっかり冷えていた。

 なんで、おしるこを選んだかは分からないが、上手そうに飲むウェルバルトを見ると、ツッコまず、素直に貰っておいて正解だったようだ。

 僕の家へ戻るところである。

「で――、師岡さんと宇道さんは、どうなる?」

「本体とシープを切り離した。師岡は宇道にふられたことだけじゃなく、好きだったことさえ忘れている」

「宇道さんは?」

 ウェルバルトが黙った。

 それは良好な状況ではないことを意味する。

「先輩を好きだっていう記憶も?」

「それを残しては、他の人間が入る余地があるまい」

 モロフが奪ってしまったということだ。

「戻す手段は無いのか? エージェントだろ」

「持っているのはモロフだ。奴に記憶を戻せと、もう一度宇道へ憑かせるか?」

 その問いは、モロフを信用するか、しないか――になる。

 『答え』は出来ない。

 つまり、記憶に関しては諦めるしかないのだ。

「今なら、お前を好きになる可能性もあるぞ」

 ウェルバルトは真顔でそう言った。

 冗談ではなさそうだ。

 確かに空きは出来た。

 だけど――

 僕は首を横に振った。

「三島先輩のあの様子を見たら、僕は本当に宇道さんを好きだったのか、疑問になった。簡単に諦められるなら、本気じゃなかったんだよね」

 モロフに憑かれた宇道さんが心配で、ここまでは動いた。これで全て解決なら、もう終わったことになるのだ。

 きっと彼女のことは、マンデーシープにもならずに消えるだろう。

「そうか。なら良かった」

「――?」

「アフターサービスで、宇道は風邪による記憶損傷だということにしてある」

「何それ?」

 ウェルバルトは師岡を家へ帰すと、宇道さんを伴い、三島先輩の所へ連れて行ったらしい。

「彼女が忘れたのはそのせい。三島はその煽りを食らった――と伝えたのじゃ」

「そんなことを信じるの?」

 信じるしかあるまい――ウェルバルトは言った。

 他に説明がつかなければ、それを受け入れるしかないのだ。

「後は、二人が歩み寄るかどうか――じゃ」

「宇道さんは、三島先輩を好きだった記憶さえないのに……」

「ゼロからのスタートじゃが、可能性までゼロではないじゃろ」

 ――確かにな。

 少しだけ、僕はほっとした。

 僕が原因ではないが、このまま恋が終わってしまっても、目覚めが悪い気がしていた所だ。

「一件落着。良かったよ」

 ウェルバルトがじっと僕を見ている。

 疑っているようだ。

「本心だよ」

「分かっておる」

 ウェルバルトは近くにあったゴミ箱に缶を捨てた。

 ――じゃあ何を疑ってたんだよ。

「それよりも、もう一つ推測じゃ」

「何?」

 まだ考えなきゃいけないことがあったかどうかを僕は考えた……が、思いつかなかった。

「モロフは片っ端からシープを襲った。ワシが襲われた、あの神社裏でも、大量に吸収されたらしい」

「そうだね」

「そこにはエリンがいた」

 僕は眉をしかめた。

 考えるべきこととは、エリンのことだったらしい。

 自分が問題だと考えることはできるが、人に言われると反発心が頭をもたげてしまう。

「エリンも襲われたが逃げられた。これはどういうことを意味するか」

「ずる賢いってことだろ」

「記憶の塊に賢いと言うのか、おぬしは」

「ん――」

 ――知恵くらいはあるんじゃないか。

 エリンを見ているとそう思えた。

「前例はないが、エリンは元々吸収された記憶の残りなのではなかろうか」

「誰かがエリンを吸収し、モロフがエリン以外を吸収した――ってこと?」

「理解が早くて助かる」

「それが何?」

 本気で分からなかった。

「ワシらは何気なく話をしているが、会話とはかなりの知識と心が必要なのじゃぞ」

「そうだね」

「エリンは会話が出来る。つまり知恵と感情があるということじゃ」

「過去の塊が?」

「記憶が人格を持ったといえるんじゃないかの」

 ――やっぱりずる賢いんじゃないか。

 ウェルバルトに言うと、思いっきりバカを見る目で言われた。

「知恵と悪知恵は違うじゃろ。知性は純粋で、それを悪用するの悪知恵じゃ」

 で、僕も反発――

「良いも悪いもない。あいつはマンデーシープだ。それを捕獲するのがあんたの仕事だろ」

 ウェルバルトが不快そうに眉をしかめた。

「本当に良いのか。封印してしまっても」

「構わないよ」

 僕の口がそう言った。


 ――本当にそうか?


「お前に言われるだけ言われ、空を飛んでいくあいつは、明らかにがっかりしていた」

「僕が悪いのか――」

 悪いのは分かっている。

 口だけ、別人みたいだ。

 丁字路でウェルバルトは足を止めた。曲がれば、僕の家のある通りに入る。

「エリンは、恐らくワシを認識しておらんじゃろ」

 僕は頷くこともしなかった。

「だが、おぬしのことは、ずっと『総ちゃん』と呼んでいた」

「それが――?」

「察しが悪すぎじゃ。ふてくされずに頭を使え」

 ウェルバルトが本気で怒っている。

「何だよ」

「記憶の塊がおぬしを覚えているのではない。過去の存在が、過去のおぬしを覚えているのじゃ」

「――!」

 その可能性に考えは至らなかった。

 言われれば思い出す。

 『総ちゃん』とは子供の頃の呼び名だ。

 ――ずっと気になっていたのはそれか。

 記憶が積み重ならないというマンデーシープが、僕の名前だけは覚えている。その理由がそれなら確かに説明がつく。

 思いつきなのじゃがな――と、ウェルバルトは続けた。

「エリンはモロフを名付けている。これは、もしかして、襲われた時に触れた事で記憶を共有したせいかもしれん」

「それは――……さすがに意味が分からないよ」

「エリンはモロフの記憶から師岡の名前を引出したのじゃ。そして師岡の名前をもじってモロフと名付けたのじゃ」

「――エリンも、名前がもじられてる?」

 ウェルバルトは頷いて言った。

「おぬしの周りで、似た名前の人はおらんか?」

 え、り、ん――言葉を分解して、僕は気付いた。

「父さんだ」

「小さい頃にいなくなった――?」

「恵力――。でも、でも――」

 父さんも昔はここに住んでいた。土地勘もある。

 記憶がエリンとして残っていた可能性は充分にある。

 だけど――

 ――それを認めると、父さんはこの世にいないことも認めなければならない。

 僕はそれ以上、何も言えず、思考することも止めた。

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