第4話「停戦交渉」

 僕は走ることは苦手ではない。

 学校行事のマラソンも、同級生ほど毛嫌いはしていない。

 だが、これは別だ。

 マラソンは、ゴールが有るから走られるのだ。

 ――当ても無く走るのは嫌だ。

 宇道さんについていたマンデーシープに疑問を感じ、一緒に追っていたはずのウェルバルトは、いつの間にか一人で走っていってしまった。

 意外と速かった。

 僕は追いつけず、置いていかれてしまった。

 こうなったらお役御免だ。

 引き上げても、問題はないと思う。

 思うのだが、どうしてもウェルバルトを探してしまう。

 当てもないマラソンを繰り返すこととなるのだ。

 宇道さんは先輩に会いに行くと言っていた。

 普通ならそっちへ向かうのだが、ウェルバルトは違う方向へ走っていった。

 ウェルバルトを探している以上、逸れた道へ入るしかなかった。

 自動車一台通るのが精一杯の道と、車両通行禁止の道が不規則に交差している。

 曲がり角で確認はするが、黄色い法衣はどこにも見当たらなかった。

 抜け出た道は工業高校の裏手だ。

 ということは、近隣には僕の学校もある。

 下校する生徒たちの数もまばらであるし、日の傾き方から夕方が近いのは分かる。

 結構走ったが、見つけないまま終わるのも癪な気がした。

 ――もう少し走ってみるか。

 帰宅が夜になる覚悟をした時だ。

 紫がかってきた青空を、ジグザグに飛んでくるピンクの物体が見えた。

 刹那――

 びたんっ

 顔にひんやりした、柔らかい衝撃が打った。

 ――またか。

 この感触には覚えがあった。

 昨日の記憶だ。

 反った身体を倒さないように堪えながら、物体を顔から引き剥がした。

「総ちゃん、大変だ」

 今日は狙ってぶつかってきたようだ。

「やあ、エリン」

「ごきげんいかが?」

 ふ――と頭に浮かんだ面影があった。

 一瞬であったが、誰かを思い出しかけた。

「どうした――?」

 羊顔の目が、妙に人間臭く僕を見ていた。

 それが今の面影に重なって、返答に困って言葉を濁した。

「それよりも大変なんだ」

「何?」

「森の仲間がいなくなった」

「森? 仲間?」

 微妙に頭が働き切っていなかった。


   *   *   *


 エリンに導かれ、たどり着いたのは大きな寺であった。

 結構でかい。

 ――確か、北凰院って名前だったかな。

 敷地的には、学校よりでかいかもしれない。

 重要文化財が多いと、母さんから聞いたことがある。

 境内には背の高い木々が整然と並び、裏手では密集していた。

「まあ、森といえば森だ」

 エリンは柵を無視して入っていく。

 しょうがない――と、ウェルバルトも気に掛かるが、僕は柵を越えてエリンを追った。

 夕方であるし、場所が場所だ。

 鬱蒼とした樹冠が、影だけを落とし、ひんやりとした印象を与えていた。

「ほら見ろ、誰もいない」

 エリンが自慢げに言ったが、色々間違っている。

 威張るようなことでもないし、ここにいた時の様子を見たこともないのだ。

「いっぱい、ここに漂ってたんだ」

「ふむ」

 僕は周りを見てみた。

 木々に囲まれた空間。風が吹くと、隙間を抜けて入ってくるが、一度入ると出づらいようだ。

「確かに、結構、溜まりそうだな」

 言ってから、ちょっと想像してみる。

 びっしりとひしめき合う、ピンクの『羊』――……

 ――いやぁ、実に気持ち悪い。

「きっとあいつの仕業だ」

「あいつって誰?」

「知らない」

 エリンは即答した。

 他人の記憶で出来ているマンデーシープは、現在を過去として蓄積できない。

 ウェルバルトはそう言っていた。

 近々で起こった出来事を覚えていられないのか――僕はそう思った。

 エリンがふわふわと流される。

 ――訊き方が悪かったのかな?

 その後姿にふと思いつく。

 あいつ=犯人――なのは確かだ。

 しかし、犯人=知らない人――なら、あいつ=知らない人――だ。

 記憶できない証拠にはならない。

 ここにはいっぱいのマンデーシープがいたことは記憶しているのだ。

 まだまだエリンは分からないことだらけだ。

 ――っていうか、マンデーシープ自体が分からん。

 奥へと歩を進める。

 堆積した葉たちが、足の下で鳴る。湿った土の匂いが鼻へ届く。

 ウェルバルトを探してたんだっけ――急に思い出した。

 目の端で捉えた物のせいだ。

 腐葉土の上に、長細い物が落ちていた。

 ウェルバルトの持っていた剣に似ている。

 ――いや。そのものじゃないか?

 僕は駆け寄って、拾い上げた。

 綺麗に洗われた五円玉の穴を、紅い紐で繋いで刃に模したもの。『霊幻道士』が使っていた金銭剣のレプリカだ。

 道士が子供の中で再流行! ここで遊んでいた子が、偶然に剣を落として行った――……

 ――なんて可能性は低いよな。

「ウェルバルトが近くにいる!」

「誰だ?」

「朝会ったエージェントだよ」

「そんな人いたっけ?」

 エリンが首を傾げた。というか全体が傾いた。

「さっきまで一緒だったんだけど、はぐれたんだ」

「総ちゃん、迷子だったんだ」

「微妙に違うよ――」

 僕は走り出した。

 奥へ進むと、木々が深くなっていく。

 幹と幹の間に人影を見つけた。

 黄色い法衣が浮き立っている。

「いた!」

 マンデーシープが一匹、ウェルバルトへ抱きつこうとしている。

 彼女はそれを掴み、両手いっぱいに遠ざけている。

 苦しそうな表情が、限界に近いことを知らせていた。

 僕は滑りそうになる足を、必死に前へ進めた。

「あいつだ――」

 隣に並んだエリンがつぶやいた。

 あいつとは誰か――答えが出るより先に、僕はウェルバルトの側へと達していた。

 どう使うか分かってはいないが、マンデーシープへ向かって剣を振り下ろした。

 マンデーシープは宙へと浮かび上がって、僕の剣をかわした。

 力の均衡を失って、ウェルバルトがふらりと倒れた。

「大丈夫か!」

 僕は浮かんだマンデーシープへ、剣を構えたまま訊いたが返事は無かった。

 彼女の様子を見る余裕はなかった。

 このマンデーシープは特殊型だ。

 顔付きが他のと違う。

 エリンとも違う。

 いや、これは個性の差だろう。雰囲気は近い。

 目尻が上がっているので、気が強そうに感じる。

 黒目だけではないから、目の動きが追える。

 ちら――と横へ動いた。

 その先には――

 エリンがいた。

 少し離れた所でこっちを見ていた。

「エリン、逃げろ!」

「え?」

 上がり目のマンデーシープが動き出した。

 その時には、僕も走っていた。

 エリンの前へ、進行を塞ぐように立ちはだかる。

 剣を構えたが、

「ちっ!」

 と、大きく上昇して、宙へと逃げた。

「お前もしゃべれるのか?」

 マンデーシープは、上方から一睨みすると、ふわふわと浮かんで行った。

「待て!」

 エリンが追いかけようとするが、上昇速度は目に見えて遅い。

「止めておいた方が良いよ」

 もう向こうは樹冠を越え、天へ消えている。

「うむ~~」

 離れた眉間に微かに皺を寄せ、エリンが降りてくる。牛歩の速度だ。

 さっき、エリンは『あいつだ』と口にした。

 あの上がり目のマンデーシープがエリンを追っていた者だとしたら……

 ――このトロさで良く逃げられたな。

 僕が本人には言えないことを考えていると、エリンが側まで戻ってきた。

「知り合い?」

「あいつはモロフ」

「モロフ?」

「何となく……今、付けた」

 エリン本人が不思議そうに言うから、深くはツッコまなかった。

「それでいいや」

 僕は言いながら振り向いた。

 ウェルバルトは倒れたままであった。


   *   *   *


 ううん――と耳元で声がして、びっくり。

 くすぐったくて、身じろいでしまった。

 それをごまかすように声を掛けた。

「起きた?」

 言われたウェルバルトは、辺りを見回して、事態を把握しようとしている。

「何じゃ、これは?!」

 ――まず気付くよな。

 ウェルバルトは今僕の背中にいる。

 神社からずっと背負ってきたのだ。

 彼女が小さくて良かった。

 運動不足の僕でも挫けることなく歩いていられた。

 白線だけで車道と歩道が別けられた夜道を、年齢不詳の『道士』を背負って歩く。

 これほどシュールな絵は無いが、道は既に真っ暗。人目につかずに済んでいる。

「く――、不覚じゃ。不覚すぎる――」

「あいつにやられたこと?」

「この現状がじゃ!」

 ウェルバルトは怒っているが、降りる気もないらしい。

「しょうがないでしょ。神社に置いてくるわけにいかなかったんだから」

「不覚じゃ――」

 ウェルバルトは同じことを言うと、体重を預けてきた。

「もう少しで僕の家だ。今日は親が遅いから、話をするならちょうどいいと思ってね」

「今日家に誰もいないの――っていうのは、女子が男子を誘う時の殺し文句じゃぞ」

「何を言ってるんだか。詳しい話が訊きたいだけだって」

「うむ」

「それに、ウェルバルトには発情しないよ」

「何じゃと……? どういう意味じゃ、それは!」

 暴れるとおんぶしづらい――ほどではなかった。

 軽いのだ。僕でもおんぶできるくらいだから。

「だってウェルバルトは年齢不詳じゃないの」

「むう?」

「性別も微妙だったけど、それは分かった」

「――!」

 また背中で暴れた。だが下りる気もないし、力では敵わないことを知ってか、少しだけ上半身を離すことで抵抗を示した。

「不覚じゃ!」

「君、うるさいな」

 エリンが言った。

 ウェルバルトのすぐ横に浮かんでいた。

「何じゃと。捕獲するぞ」

「おんぶしてもらっておいて文句ばかり。総ちゃんに感謝くらいしなよ」

 不機嫌にエリンが言った。

「僕は大丈夫だよ」

「生意気なシープじゃ」

「ふん――」

 あと五分の距離。

 横道へ入ると、夜道はもっと静けさに包まれる。

 ――のはずが、

「うわああっ! 本当にしゃべってる!」

 ウェルバルトの声が静寂を乱した。


   *   *   *


 リビングは麺つゆの匂いに満ちていた。

 だし汁は僕特製で、作り置いている。

 蕎麦を茹で、つゆを温めるだけで、お手軽に食べられるようにしてあるのだ。

 面倒な時にはネギだけで食するが、今日はお客さんもいるので、わかめを戻し、更に天かすも準備した。

 キッチンから、カウンター越しにリビングに座るウェルバルトが見える。

 その斜めにエリンが座っている。

 背の関係で、テーブルからは顔しか出ていない。

 ――無理やり、座らなくても。

 ただ意地を張り合っているようにしか見えない。

 何に対してかは分からないが、二人の間には空気がぴしぴし音を立てそうだ。

 こういう時は、おなかを満たすのが一番だ。

 ウェルバルトの前にどんぶりを置いた。

「ごめんね。僕一人の時は、蕎麦が多いんだ」

「まあ、嫌いではないがな」

「時々ね、無性に食べたくなるんだ」

 僕はウェルバルトの正面、エリンの右隣に座った。

 ウェルバルトが箸を持ちながら、エリンを見た。

 目が合ったようだ。

「わたしがおかしいか?」

「おかしいじゃろ。しゃべるマンデーシープなんて初めて見た」

「そうなのか?」

 エリンが驚くような表情から、何かを考えるように視線を逸らした。

「他におらんじゃろ?」

「何が?」

 エリンが不思議そうに訊き返してきた。

「今、何かを思い返してるのかと思った」

「わしもじゃ」

 僕にウェルバルトが同意した。

「全然、覚えてない」

 エリンが首を傾げた。

 僕は蕎麦をすすりながら、エリンの様子を見る。

 覚えていないのは今の質問なのか。

 それとも、他にしゃべる『羊』を見たことか。

「そうじゃろうな……」

 ウェルバルトも蕎麦を食べた。

「美味い――」

「でしょ」

 素で言われたことが、僕には嬉しかった。

 エリンがふわふわと浮かぶと、僕の頭に降りてきた。

 覗き込むように頭を下げてきた。

 視界がエリンの顎で塞がれた。

「蕎麦か。わたしはラーメン派だな」

「そうなんだ」

「エリンも食べたかった?」

「わたしは食べんよ」

「なのにラーメン派?」

「うむ」

 ウェルバルトが食べながら、目だけで僕とエリンを見ている。

「何?」

「平気なのか?」

「何が?」

「シープは触れるだけで、記憶を奪ったり、与えたり、混同するらしい」

「うん?」

 思い返してみるが、そんな様子はない。

「わたしは何もしてないぞ」

 エリンが噛み付くように言った。

「マンデーシープはそういうものだと言っておるだけじゃ」

「平気――みたいだけど」

「そいつが特別なのかの」

「試してみるか?」

 エリンがぐ――と動こうとした。

 僕は頭の上で、エリンを両手で掴んで止めた。

「来たら封印するからな」

 ウェルバルトが慌てるように言った。

 ――触れると記憶が混同する?

 僕は思いついた。

「じゃあさ。さっき、あのマンデーシープに触ってたでしょ。何か情報を得たんじゃない?」

 ウェルバルトは首を振った。

「あいつは、かなりのマンデーシープを吸収したらしく、いろいろな記憶が溢れてきて、どれが本体かを見極められなかったわ」

「『わ』?」

「見極められなかったのじゃ」

 僕に語尾を指摘されて、ウェルバルトが即行で言い直した。

 ウェルバルトはごまかすように蕎麦へ集中している。

 あまり触れない方がよさそうだから、僕は話題を逸らした。

「エリンが言ってた。あの神社裏にはマンデーシープがいっぱいいたって」

「みんな、いなくなってた……」

 エリンが悲しそうに言った。

 ウェルバルトが汁も全て飲み干した。

 僕は心でガッツポーズをとった。

 残さず全て食べられてこその料理道だ。

「あいつが吸収したのか」

「とすると目的は何なんだ?」

「普通に考えると進化や力を得るため――じゃな」

「だけど、あいつさ……まだはぐれてなかったろ」

 尻尾の部分が長く伸びていた。

 これは本体である人間と繋がっていることを意味している。

「そうじゃな。誰かの記憶が肥大して、勝手なことを始めた――ということかの。これもイレギュラーなケースじゃな」

 ウェルバルトがため息をついた。

 気苦労が絶えないらしい。

「なぜウェルバルトを襲ったんだろ」

 エリンが頭の上で舟をこぎ始めている。

 リズミカルに、かく、かく、と振動が伝わる。

「記憶を奪って、ワシが動き回るのを防ぐつもりだったのかもな――」

「そういえば、昨日エリンと会った時、何かから逃げてたけど、覚えてないって」

「シープは過去の塊じゃからな、新しい記憶は積み重ならんじゃろ」

「昨日のことは、もう忘れてるってこと?」

「あくまで仮定じゃよ」

 エリンが寝息を立て始めた。

 マンデーシープと会話したことがないのだから、彼らの生態は想像と推測の中でしか分かっていないのだ。

 ――エリンは本当に覚えないのだろうか。

「寝るシープも初めて見たわい……」

 僕はエリンを頭に乗せたまま、空になったどんぶりを流し台へ持っていった。

「つまりモロフは危険な存在――ってことでいいの?」

「モロフ?」

「さっきのあのマンデーシープ。エリンが名付けた」

「ほう――」

 どんぶりや使った調理器具を洗いながら、言葉を続けた。

「このまま放っておいたら、何があるか分からないってこと?」

「そうじゃな――」

 ウェルバルトは考え込んでから言った。

「あの宇道とかいう娘、おぬしは居場所を知っておるか?」

「住所録を見れば」

 正直に答えてしまった。

 知らないと返事していれば、この騒動から開放されたかもしれない。

 本心ではない。

 繋がりをあっけなく断ち切れるほど、エリンもウェルバルトも浅い関係ではないと思えた。

 一緒にいた時間の長さではないのだ。

「どうする気?」

「あの娘を訪ねて、どこで憑いたかを調べるのじゃ」

「ウェルバルトを誘い出すために付いてただけじゃない?」

 可能性の一つとして言ってみた。

「ワシもエージェントとして注目され始めたってことじゃの」

 ――喜んでいい所だろうか?

 僕の疑念を余所に、ウェルバルトがイスから降りた。

「馳走になった」

「あれ、帰るの? 住所は?」

 洗い物を終えた僕は訊いた。

「明日までに調べておけば良い」

 ドアへ向かうウェルバルトを見送るために続く。

「それって……?」

「明日は日曜日じゃからな、一日動ける」

「微妙に質問をはぐらかしたね」

「六時に迎えに来る」

 今度はストレートだ。

「僕も付き合えと――?」

 ブーツを履き終えると、ウェルバルトが立ち上がり、下から笑みを浮かべながら言った。

「嫌じゃなかろう?」

 嫌ではないが、面倒だ。

 せっかくの日曜日を潰すほどのことかどうは疑問だが、これも何かの縁であろう。

 正直、多少ではあるが、いやいや、ほんの一欠けらほどだが、興味もあった。

 だから、ため息一つを代価として。

「はい、はい」

 同意することにした。

 じゃあな――と、ウェルバルトが玄関を出て行った。

 リビングに戻って、ふと僕は思った。

「あいつ、帰れるのかな」

 この近辺のエージェントとはいえ、背負って連れて来たのだから、地理的に迷うかもしれない。

 そう思ったのだ。

「ただいま」

 母さんだ。

「お帰り」

「ねえねえ」

 母さんがリビングに入ってくるなり言った。

「帰ってくる途中、小さな霊幻道士とすれ違ったの」

「へ……へえ――」

「今時、珍しいよね」

「うん……」

 それが知り合いだとは言えない。

「それとも母さんだけに見えたのかしら」

 ――いえ、本物です。色々な意味で。

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