第2話「バイトのエージェント」
ふわふわと、目の端を浮かぶ、ピンクの物体。
「いやあ、学校かあ。実に久しぶりな気がする」
なんてことが耳に届く。
学校にいたのか――なんてことを訊きたくなるが、他人には、宙へ向かっての独り言にしか見えないのだ。
自粛を心掛ける。
今は登校の時間。周りは生徒だらけだ。
僕がエリンを伴っているなんて、見える人は恐らくいない。
携帯のアラームで目を覚ました僕は、目の前にピンクの物体があって驚いた。
悲鳴を呑み込んだ自分を褒めてあげたい。
布団は撥ね除けて、飛びあがるように起きた。
隣にいたのは、エリンであった。
布団という重石がなくなって、ふわふわと浮かんでくる。
「ん?」
目を覚ましたようだ。
「総ちゃん――」
「何でここに?!」
「ごきげんいかが?」
「へ――?」
「ん?」
変な間が、静かに僕らの間に漂った。
「寝惚けてる?」
「それは僕が訊きたい」
エリンが首を傾げている。
「僕が帰ってきたらいなかった――」
「出て行こうと思ったけど、窓を開けられなくて出られなかった」
――そうだった。
窓もドアも、閉めて行ったのだ。
「それが、何で僕の布団に?」
「気持ち良さそうに総ちゃんが寝てるからさ。見てたら一緒に寝てた」
――寝るのか?
疑問は口にしなかった。
生物は眠るに決まっている。
愚問だ。
ならば、エリンは生物なのか?
眠らない生物もいると聞く。
睡眠が生物の基準ではないということだ。
――ならば、エリンは何者なのか――?
その疑問へ通じてしまう。
だから、訊かなかった。
ただ、朝食の時くらい、部屋に置いておけば良かったと、後悔はした。
うろちょろと動き回るエリンが気になって、母さんとの対応が微妙だった。
我が子だ――というカテゴリーだけが、変な奴を見る視線の直前で止まっていてくれた。
「今日は当番の日だった」
と、視線から逃げるように家を出たのが五分前だ。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
他の人の目を逃れるため、早めに出たのを利用して道を逸れた。
両側が畑で、さらに一方通行。往来は少なめの道だ。
頭の右上でぷかりぷかりと浮かんでいるエリンへ、早速声を掛ける。
「エリンって、誰かに追いかけられてたんじゃない?」
「う~~ん、いまいち、覚えてない」
「人だった?」
「そうだったような……そうじゃないような……」
「何の記憶もなし?」
「覚えておくことが苦手なのだ」
別に困ってもなさそうに言った。
「ふ~~ん。でも、学校のことは覚えてるんでしょ」
「むか~~~~……」
――長い長い……
「……~~し、行ってた気がする」
「行ってた?!」
「うん?」
――返事が疑問形とはどういうことだ?
「まあ、問題ないよ」
――僕が問題あるんだけどな。
エリンと一晩いたことになるが、何か影響あったかといえば……何もない。
これからもないか――ともいえないが、自分に訊いても結論は出ない。
だから、狙われている危険があるのなら、一緒にはいられない――という結論を導き出せる。
僕だけじゃなく、母さんまで巻き込まれるのは勘弁したい。
そう言い訳ができる。
しかしエリンの方もとぼけているわけではなく、本当に覚えていないようだから困ってしまう。
判断基準を失って考えあぐねていると、視界にエリンがいなかった。
振り向くと、二、三メートル後ろで滞空している。
「どうした?」
「あいつ――嫌な感じがする」
「あいつ?」
エリンの視線を辿ってみる。
ずっと道路の先。十字路の向こう。
電柱の所に人が立っている。
黄色い服がすごく目立つ。
珍しい帽子に……
――背中に剣?
確かに嫌な感じはする。
色んな意味で。
よくよく見ると、特徴的な帽子と黄色の服を飾る黒い四角の連なりには、見覚えがある。
――母さんが好きな古い香港映画だ。確か『霊幻道士』…………
「が、何で、ここにいるんだ?」
動いた。
というか、こっちを見た。
「げ」
こっちへ走ってくる。
「やだあっ!」
エリンは叫ぶと、畑の方へ向かっていった。
「エリン!」
さすがに畑に入れないから、僕は後を追えずに立ち止まってしまった。
『道士』が近くまで来た。
女子で、しかも背が小さい。
うそ臭い金髪を後ろで纏めている。
見た目は『道士』だが、足元は赤いブーツで違和感は半端ない。
エリンは既に畑を越えようとしている。
その向こうには、また民家が連なっている。
――逃げ足は速いのか。
さっきまでのエリンとは思えない脱兎ぶりだ。
すっと『道士』が通り過ぎる。
横目がちらりと僕を見た。
こちらもうそ臭い碧眼だ。
畑へ入ろうとする、その黄色い法衣の裾を掴んでしまった。
「ぐえ――」
走るのを止めてしまい、『道士』が変な声を上げた。
「あ――ごめん」
「何をするのじゃ、バカモノ!」
『道士』が振り向いて、見上げながら怒鳴った。
「いや、つい……」
彼女は僕の返答を無視して、視線を畑へ――エリンの方へと向けた。
エリンは遠い民家の庭へ消えていた。
僕はほっとした。
「止めて、ごめんね。でも、ほら、ここは人んちの畑だからね」
『道士』がじろりと睨んだ。
見れば見るほどちぐはぐだ。
中に着ているのはカンフー服だが、下はジャージの短パンだ。
――今風といえば今風なのか?
とにかく、関わり合わない方が良いだろう。
ということで、
「じゃ――」
と、僕は学校へ歩き出した。
「待てい」
肩に、とん――と剣を置かれた。
剣ではない。
これは映画にも出ていた小道具と同じだ。
刃の部分が、穴の開いた銭を紐で結んだものになっている。
古銭ではなく、普通の五円玉だ。
――本格的なんだが、独創的なんだか。
「え――と、何でしょう?」
「おぬし、あやつを庇ったな?」
「いえ。何のことでしょう――」
『道士』の碧眼が僕を睨んでいる。
後ろめたさがあるからか、僕の目が泳ぐ。
「あいつに触れると、皮膚が爛れる病気になるぞ」
「え――マジ?」
僕は『道士』を見た。
「あ――――」
ふふんと勝ち誇った顔がそこにあった。
引っ掛けられたのだ。
ならば、逃げる戦法に切り替えるだけだ。
「じゃ、そういうことで――」
「こらこら、待て」
黄色い法衣が前へ駆けて来て、前を塞いだ。
僕より頭二つ以上小さい。
三角屋根を横にしたような黒い帽子を被っていても、僕の顎まで届いていない。
「得体の知れない人と話すなと、学校に言われてるもので――」
「そんなことは言われとらんじゃろ。それに『得体が知れない』とは聞き捨てならん」
「どう見たって……」
上から下までを眺め直した。
何がしたいんだか、本気で分からない。
「何じゃ、その怪しい目は」
彼女は胸を張った。
何故そこで威張るのかは分からない。
ぺったんこの胸から判断するとかなりの年下だが、口調や態度は微妙に上っぽい――。
要は年齢不詳だ。
――やはり得体が知れない。
「ワシはウェルバルト。こう見えても、お山から正式にマンデーシープを捕獲することを命じられたエージェントじゃ」
「ウェルバルト? お山? マンデーシープ? エージェント?」
「色々と引っ掛かっておるようだから、説明してやろう」
――特に必要ないのですが?
エリンのことは気にかかるが、この人と一緒の所を見られる方がダメージが大きい。
「お山とは本当の意味での山ではなく、宗派の最高峰という意味だ」
「宗教とかオカルトは遠慮してもらってます」
「まあ、そう言うな。ワシだって出家しておらん。マンデーシープが見える特技を生かし、捕らえることを生業としておるのじゃ」
「何だ、バイトか」
「バイト言うな!」
僕は『道士』ことウェルバルトから、エリンの消えた方へ視線を動かした。
「話の流れからすると、エリンがマンデーシープ?」
「エリン?」
「さっきいたピンク色の羊」
「おぬし、名前をつけておるのか?」
「何、そのバカにした目は」
あぁあ――というような、残念そうな表情に顔を歪めている。
こんな変な格好の人に小馬鹿にされると、人間の底辺の更に地下深くへ追いやられた気になる。
「あいつが自分で名乗ったんだよ」
ウェルバルトが固まった。
埴輪顔で唖然としていたが、すぐに、
「マンデーシープがしゃべるものか」
と、笑いながら言った。
「話さないものなのか?」
「え?」
ウェルバルトが笑いを止めて、僕を見た。
首を傾げると、真顔で訊いてきた。
「本当にしゃべったのか?」
「会話したぞ」
本当のことだ。
確かに僕自身も、他の『羊』とは口を聞いたことはないが、今まではしゃべらないものと認識していた。
ウェルバルトの反応を見る限り、エリンが特別なのかもしれない。
腕を組んで顎に手を添え、ウェルバルトが考え込みだした。
なにやら不穏な空気を感じる。
――逃げよう……
「ウェルバルトさん、そろそろ学校があるので――」
「うむ、そうじゃな」
――おお、素直に諦めてくれた。
ほっとして歩き出した僕の横を、ウェルバルトが付いてきた。
――ええええ、どういうこと?
「色々と興味深い――」
「そう?」
「おぬしには訊きたいことが増えたから、放課後に少し付き合え」
「勘弁して下さい」
「即答かよ」
「ウェルバルトさんは、ほら、ちょっと、あれ……じゃないですか」
「奥歯に物の挟まった言い方をするな、おぬし」
学校が見えてきた。
露骨に逃げるのもなんなので、普通に歩いているつもりだが、ウェルバルトは喰らいつくように、必死に並んでくる。
「おぬしに選択権はないと思え」
「ええええ! バイトのエージェントにそんな権限が?」
「エージェントというよりも、ワシの権限じゃ」
――そっちの方が質悪い。
「それとじゃ、さん付けの必要はない」
「呼び捨てにしろと?」
――心の中では既に呼び捨てだけどね。
「ジェームズ・ボンドを007さんとは呼ばないだろ。ワシのエージェント名じゃから、『さん』は不要じゃ」
「じゃあ、ボンド――」
「ふざけとるのか」
「ウェルバルト」
「何じゃ?」
「そろそろ、他の生徒の目が気になるんだけど」
校門のある通りに出ると、途端に生徒の数は増える。
この変な格好の人が、僕と知り合いだなんて思われたくない。
「おお、気が利くな。確かにワシは世を忍んで活動しとるからな」
――そういう誤解は大歓迎だ。
「では――」
と、ウェルバルトは、校門とは反対側へと走り出した。
やれやれ――と正門へ向かって歩き出すと、
「放課後、待っとるからのお!」
遠くからウェルバルトが叫んだ。
彼女にも当然注目が集まるが、僕にも同じような視線が突き刺さる。
――何故相手が僕だと分かった。
という疑問はさておき、心で僕は思った。
――どこが世を忍んでるんだ。
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