第1話「不思議生命体」

「と、いうわけで君にぶつかったの。ごめんね」

 ――全然分からん。

「『と、いうわけ』の、前の部分が大事だと思うんだけど」

「そうか」

 『羊』に似たそいつは、目の前で仰々しく頷いた。

「何があったの?」

「わたしもよく覚えてない」

 残念そうに『羊』は言ったが、その答えに僕も残念な気持ちになる。

「何かに追われてた気がするんだけど」

「何だろう?」

「何だろうね」

 本当に何なのだろう、この会話。


 この『羊』は、たまに漂っているのを見かける。

 人にくっついているのもいる。

 昔からそうだが、皆には見えないらしい。

 おばあちゃんも見えなかったし、母さんも見えない。

 これは僕一人の秘密だ。

 いるだけなので害はない。

 今までは不可侵を心がけ、気にしないようにしていた。前に住んでいた町ではそれで済んでいた。

 ところが、この町へ引っ越してきてから見かける回数が増えた。

 数が多い。

 見かけない日がないのだ。

 歩く人よりも多い路上を見ると、呆気に取られることもある。

 この『羊』、実は触れられるのだ。

 触れるからどけられる。あまりに多くて道を塞いでいると、つい手が出てどかしてしまうのだが、この動きを他の人に見られるのは具合が悪い。

 ジェスチャーゲームの『――は、置いといて』の仕種と同じだ。

 路上では気味悪がられるか、白い目で見られてしまう。

 『羊』で溢れている時は、別の道に変えたりしている。

 ――そういう意味では害があるな。

 本心ではない。そこまで彼らを敵対視するほど意識はしていない。僕にとっては空気のような存在たちだから。


 ただ……

 僕は目の前にいる『羊』を見直した。

 大きさは五十センチ、幅が三十センチくらい。これは町で見かけるものと、大きさに大差はない。

 問題は《後ろ足があること》、《顔に表情があること》、それに《しゃべること》。

 ピンクの身体は素甘みたいで、触れるとイメージ通りに柔らかい。

 つまり、『ピンクの羊』だ。

 顔付きは羊で、耳は折れ曲がっている。前足は十センチほどの突起でしかない。後ろ足はなく、マンガで魂を表現する時のように下半身は細っていた。

 ところが、目の前の『羊』には下半身がある。

 一つ目の相違点――後ろ足だ。

 更には豚のようにくるりと巻いた尻尾まで付いてる。

 こう説明すると羊とはかけ離れてくるが、他に表現のしようがない。イメージは羊で間違っていない。

 この『羊』、後ろ足を投げ出して座り、前足を交差させている。短いのでギリギリ届いているくらいだが、きっとこれは腕組みだ。

 頭も傾げているから、何かを考えているのだろう。

 これも通常の『羊』とは違うことだ。

 小さい目は黒目がちで、何も考えて無さそうなのに、この『羊』は伏し目がちなのだ。瞼があって、白目と黒目もあるから、表情が出やすいのだ。

 ――ますます羊から離れたな。

 だが、これが二つ目の相違点。顔に表情があることだ。

 人間っぽいと言ったら語弊があるが、会話も成り立っているのだから、問題ない気がする。

 三つ目の相違点だ。

 町で見かけるやつがみんな言葉を話すタイプじゃなくて良かった。

 それじゃあ煩くてたまらない。

 この奇天烈な状況を僕は受け入れていた。

 幼いころから彼らを目の当たりにしていれば、多少の度量もできよう。

 しゃべるくらい、どうってことない――なんて思っていると、

「そう、わたしはえり……ん?」

 そいつが突然顔を上げて言った。

「エリン?」

「わたしの名前だ」

「今、思いついた?」

 僕の問いに、その『羊』――エリンは、きょとんとした表情を浮かべた。

「いや――……そんな気がしたんだ」

 ――それを『思いつき』と言うのだが。

「君は?」

「僕?」

 一瞬、何を聞かれたのかと思った。

 話の流れからすると、僕の名前を訊いているのだろう。

「僕は萬田総助」

「萬田……総助……?」

 エリンがまた考え込み始めた――が、今度はすぐ言葉が返ってきた。

「わたしと会ったことはないか?」

 一応思い返してみたが、こんな珍しい状況にはあったことがない。

「いや、ないよ」

「昔、恋人同士だったとか」

「ないです」

 これには即答した。

 浮かんでいる『羊』とは友達になったことさえない。

「うむ……。わたしの記憶とも一致しないんだけどね……」

 エリンは三度、考え込んだ。


   *   *   *


 エリンとは放課後に出会った。

 しかも唐突に――。


 あれは学校からの帰り道。僕は海ほどに深く消沈していた。

 学校で嫌なことがあったのだ。気付かれないように日中は明るく振舞っていたが、その反動が放課後に現れてしまった。

 宇道咲うどうさきという同級生がいるのだが、入学した時から気になっていた。

 顔付きが僕の好みなのだ。

 妥協なく、どストライクであった。

 意識すると、逆に声をかけられないものだ。

 たいした会話もないまま、一ヶ月が過ぎ――

「今日、例の先輩に告白されちゃった」

 そんな会話を耳にしてしまった。

 その先輩は僕にも知り合いだった。宇道さんを好きだという噂も聞いていた。

 まだ行動には出ないだろうと高を括っていた。

 ところが、先を越されてしまったのだ。

 ――まあ、追い抜くこともなかったが……。

 それよりも、宇道さんの嬉しそうな顔が一番僕を打ちのめしたのかもしれない。

 僕の高校初めの恋は、片思いになるより早く消え去った。

 半端ない敗北感を引きずりながら、僕は家路を重い足取りで歩いていた。

 埼玉県立川越中里かわごえなかざと高校から、僕の家までは徒歩で通える距離にある。

 北凰院通りをひたすら真っ直ぐ。

 田んぼや畑が、民家と交互に現れるような道だ。

 民家も、昔話に出てきそうな古い家と、大きなバルコニーのついた今風の住宅が、混在している。

 人とすれ違うよりも、漂う『羊』の方が多い通りだ。

 つまり、僕がどんなにうち萎れていようと誰も気に留めない道、ということだ。

 ――しょげこむのはここだけだ。

 そう決めていた。

 家に着いたら、全て忘れるつもりだった。

 歩道と車道の区別も、センターラインもない片側一車線の交差点は地味だ。

 僕は足を止めた。

 滅入っていようと、信号のない交差点に確認もなく踏み込んだりはしない。

 交差点向こうは畑で、視界は広く空も高い。

 ふわりと視点が昇天していく。

 細い雲が何重にもたなびいている。

 傾きかけた太陽が制限をかけているように、空の青も薄い。

 はあああ――誰もいないと思うと、ため息も漏らし放題だ。

 遠い空を断ち切るように、何かが横切った。

「ああああ――――」

 僕のため息とは別に声がした。

 しかも近付いている。

 ――何だ?

 すぐに見つかった。

 視界を横切った『何か』の声だった。

 こともあろうに、弧を描いてこちらへ向かって――

 認識した時には既に遅かった。

 びたりと顔にひっつかれた。

 やったことはないが、湿布を顔へ勢い良くつけたら、こんな感じがするかもしれない。

 僕は悲鳴を飲み込んで、顔からそれを引き剥がした。

 道路へ叩きつける寸前であった。

 持ち上げた所で止めていた。

 手に伝わるもちもち感が、その正体を告げている。

 いつもの『羊』だ。

 目の前に持ってくると、自分の推測が当たっているのが分かった。

 それがエリンであった。

 気を失っているようで、手を離すと、ふわふわと地に落ちていく。

 交差点を通り過ぎた自動車の風圧で流されていく。

 僕はエリンを拾い上げた。

 ――放っておけないよな。

 自分を納得させるように心で呟いた。

 そうすることで、理不尽な行動を肯定させたのだ。

 僕はエリンを家に連れ帰り、ベッドへ寝かせた。


 一時間後――

「おにぎりの具充填32パーセント!」

 と叫んで飛び起きた『羊』は、僕を驚かせた。

 ――どういう夢を見れば出る寝言だ?


    *   *   *


 何かがバーッで、皆がうわーっで、わたしもゲーッで、必死に飛んだらパンってなった――。

 エリンの説明だ。

 これに身振りがつくのだが、手が短いのでじたばたしているだけで、全く役に立っていない。

 擬音以外の部分を補完すると、エリンは何からか逃げて僕にぶつかったのだろう。

 ――皆ってことはもっといるのか。

 『羊』だとは思うが、エリンのようにしゃべるタイプだとしたら。

 想像の中で『羊』たちが会話を始め、脳内の騒々しさにクラクラした。

 当の本人はまだ頭を傾げ、悩んでいる。

 ぶつかった理由は大まかにではあるが僕に伝わったのだから、別に考えることはもうないはずだが、目を瞑って柔らかそうな眉間を捻じ曲げていた。

 いつもの僕の部屋が、エリンがいるだけで日常を破壊している。

 八畳ほどの長方形の洋室が僕に与えられた空間だ。

 元々はおばあちゃんの家だった。亡くなるまで住んでいたが、足腰を痛めて二階はほとんど使っていなかったという。

 人の住まない家ほど簡単に傷むと聞く。

 二階を使用するにはリフォームするしかなかったのだ。

 母さんは無理したのだな、と僕は思っている。

 リフォームは僕の部屋だけで、もう一つは当時のまま物置で使用している。

 真新しい壁と床、そして押入れを止めてクローゼットに変えた部屋に、中古のベッドと学習机、そして本棚とスチールラックが一台ずつ。かなり余裕が残っている。

 ドアを開けた正面と左側に窓がある。左は玄関の向きだ。そちらの壁にベッドが接している。

 ベッドに腰をかけて窓を見下ろせば、玄関の屋根がある。

 街灯が夜の道を照らすついでに、うちの門と外壁も照域に巻き込んでいた。陰影の境目が曖昧で夜よりも暗く思える。

 小道を挟んでお向かいさんの玄関でも玄関灯がスポットライトのようだ。

 大通りから外れてはいるが、もうこの時間は騒々しさが収まっている。

 視点をずらすと、窓に映る僕の部屋が見える。

 微笑んでいるような目の僕がいる。もちろん笑っているわけではない。

 弓なりの形に細い目は、僕のコンプレックスなのだ。知り合って慣れてくると、必ずいじられるポイントでもあった。

 怒ったら恐いんだぞ、と返すのだが、必ず失笑で戻ってくる。

 ――確かに、そんなに怒ったことはないけどね。

 部屋着でベッドに腰掛ける僕の横に、ピンクの物体が足を投げ出して座っている。

 エリンだ。

 当然重みはないので、シーツに変化はない。

 部屋の照明にも影を落としていない。

 ――一体何者なんだろう。

 いつもみかける『羊』だ。それは確かだ。

 違うのは見た目と言葉を話すこと。

 ――充分異常事態だな。

 普通に会話してしまっている。

 簡単に容認し過ぎかもしれない。

 得体の知れない物へ、もっと警戒すべきだろう。

 分かってはいるのだが、警戒には値しない気がした。

 思考が散乱している。

「どうしようかなあ……」

 頭を掻きながら、つい口から出てしまった。

「なあ、総ちゃん」

 エリンが、顔を真っ直ぐ向けている。

「総――ちゃん?」

「わたしがいると迷惑か?」

「え――と……」

 そう訊かれると、そこまで迷惑ではない。

 だが、違うとも言えない。

 ――でもなあ……

 僕が答えあぐねていると、

「もういいよ。わたしは出て行くから」

 エリンはそっぽを向いて、ふわふわと浮かんだ。

「でも、何かに狙われてるんでしょ」

 僕はそう言った。

 エリンの話の中には、そこまで具体的には出てきていない。

 直感的にそう思っただけだ。

「気にしないで」

 エリンは僕の目の前を通り過ぎて、窓へ向かっている。

「総ちゃんが、そんなに人でなしだとは思わなかった」

「だから待ってって、言ってるんでしょ」

 人じゃないものに、人でなしと言われると、微妙に傷付く。罪悪感も生まれる。

 それとは別に、何故かは分からないが、放っておけない気もする。

 エリンは窓へ達すると、そのままガラスへぼよんとぶつかった。

 しばらく止まっていると、右に左に揺れたが、結局、そこで浮かんだままだ。

 ――何をしてるんだろう?

 僕も暫くじっと見ていた。

 暗い夜の風景を映す窓に、反射するエリンの表情は逡巡していると分かる。

 何に迷っているのかは、さすがに分からない。

 しばらくすると、エリンがそっと顔をこっちへ向けた。

「窓、開けて」

 ――なるほどね。

 僕は納得した。そんなに力があるようには見えない。

 窓を開けてあげると、ふわふわとエリンが外へ出た。

 そのまま降りていく――というより高度を保てないようだ。

 玄関の屋根を掠めて、石塀をギリギリ通り過ぎた。

 進みたい方からの逆風で、何度か戻され、挙句に道路へと落ちた。

 ――ああ……もう!

 こんなことなら、窓を開けなきゃ良かった。

 僕は部屋を出ると、階段を駆け下りて玄関へ向かった。

「総助。どっか行くの?」

 廊下に風呂上りの母さんがいた。

 シングルマザーの力強さを兼ね備えた人で、特に理由がないから逆らわないが、無意味な反抗は、簡単に握りつぶせそうなイメージがある。

 いや、きっとできる。

 僕なんかは一ひねりだろう。

 誤解のないように言っておくと、基本的には優しい母親だ。

 アパレル関係の仕事というが、詳しくは知らない。

 遅い時は僕が寝た後の帰宅になるし、今日のように普通にいることもある。

 紅潮したノーメイクの顔が期待を込めて僕を見ている。

 とはいえ、不思議な生き物が部屋から出て行ったけど、フラフラで心配だから助けに行ってくる――とは言えない。

 なので、

「ちょっと、ジュースを買いに」

 と嘘でごまかした。

「じゃあ母さんにも」

「何が良いの?」

「炭酸なら何でもOK」

「はい、はい」

 僕は返事の途中で、外へと飛び出た。

 サンダルの軽い音を鳴らして、門から道路へ。

 エリンが向かった方を見る。

 遠ざかっていくエリンの後ろ姿が、街灯にまるんと照らされている。

 この町の夜道は街灯だけが頼りなので、光の届かない所は真っ暗で、闇そのものが蟠っているように感じる。

「エリン、待って」

 誰かいたら恥ずかしいので、掛ける声も自然と小さくなる。

 エリンが路面へと落ちた。

 そうも言っていられない。

 僕は駆け寄った。

 丁字路と交差する街灯の下に、エリンは倒れこんでいた。

 僕はエリンを抱きかかえた。

 重さは全く感じない。

 『羊』顔が目を固く瞑っている。

 寝ているというより、気を失ってるようだ。

 ――寝ていれば回復するのだろうか?

 ――体力とかの概念があるのだろうか?

 どうしたら良いのか、さっぱりであった。

 真剣に悩みながら、僕はエリンを抱え、家へと戻った。

「ただいま」

「ジュースは?」

 リビングから聞こえた。

 階段途中で足を止める。

 目的はそれだったはず。

 全く忘れていた。

 言い訳を即座に口にする。

「財布忘れたから、もういいや」

「お前は世田谷の海鮮家族の長女かあ」

 ――何だ、そのツッコミは。

 僕は返事に窮して、そのまま部屋へ引っ込んだ。

 夕方と同じく、エリンをベッドに寝かせた。

「ねえ、総助。口が炭酸になってるんだけどお」

 下から母さんの声がした。

「ジュースが飲みたいなあ」

 ――うるさい……。

 こうなると、僕が折れるしかない。

「しょうがない」

 ぐったりとしたエリンが気に掛かったが、ため息一つで僕は部屋を出た。

 下へ再度降りる。

「僕の分も出してくれるよね」

 ソファーでくつろぐ母さんに、そう声を掛けると、

「それはない」

 と、即答された。

 結局一本分のお金しか渡されなかった。

「ええええ――」

「一口は飲ませるわよ」

「いらんわい」

 嘘でごまかした結果、おつかいをさせられて終わった。

 思いっ切り振ってから渡そうかと思ったが、僕に向けながら缶を開けようとしたのを見て、止めておいて良かったと心で安堵した。

 なぜか敗北気分で部屋へ戻った。


 しかも……


 ベッドの上にエリンはいなかった。

「出てったのか……」

 自分の声が寂しげに響いた。

 窓ガラスに映る僕の姿も消沈して見える。

 エリンがいなくなったことが、失恋よりも、母さんの使い走りよりも、その日一番残念に思えた出来事であった。

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