第34話 電話
歌弥さんと一線を越えた日、そして、芽吹の入学式から、さらに一週間ほどが過ぎた。
歌弥さんは主に執筆を続けて、俺は原稿チェックをしたり漫画を描いてみたりして、芽吹は少しずつ大学生活に馴染んでいった。なお、何度か俺と歌弥さんも一緒に大学に行って、芽吹のサポートをした。
芽吹が相変わらず生活の拠点を歌弥さんの家にしているのは変わらないものの、大学の友達と遊ぶようにもなったし、髪も茶色に染めた。サークルはまだいくつか見学中ということだが、軽音サークルに入るのが濃厚らしい。楽器を始めてみたい、とも言っている。
俺の進路が不透明ということ以外、基本的には順調ということだ。
そして、四月半ばの土曜日、午前九時過ぎ。
二十日ぶりくらいに、弟から電話がかかってきた。
電話がかかってきたとき、俺はまだ歌弥さんと芽吹に挟まれた状態でベッドにいた。歌弥さんが俺を抱き枕に惰眠を貪っていて、芽吹は俺に体を寄せながらスマホをいじっていた。
……客観的に見ると、実に爛れた状況だな。
スマホは枕元に置いてあったので、マナーモードでも振動で着信がわかった。
「珍しいね。電話だ」
芽吹が興味を示し、歌弥さんも目を覚ましてもぞもぞと動き出した。
「……弟からだ」
俺なんかよりよほど優秀で、医学部だろうがなんだろうが、現役で合格していくだろうと思われる逸材。全国模試でも百番以内の常連だ。
「ほー? 弟君から? まぁ、ここは出てあげたらー? 秋夜君、家出始めてから家族と連絡取ってないでしょ」
「……ですね。ちょっと、出てみます」
「あ、スピーカーオンでねー」
「わかりました」
まだ着信は続いていたので、応答する。体を起こそうと思ったのだが、歌弥さんが離してくれなかった。
「……龍成か?」
『ああ、うん。俺だけど。兄さん、今何してんの?』
「……家出」
『それは知ってる。家出して、何してんのかって話』
「なんだろうな。主に、だらだらしてる」
言うほどだらだらしているわけではない。家事、原稿チェック、人気作品のポイントまとめ、漫画と、毎日時間が足りないと思いながら取り組んでいる。
ただ……それを龍成に言っても、たぶん意味はないのだ。
『はぁ? だらだらしてる? 家を出て三週間くらい? ずっとだらだらしてるだけ?』
「……ま、実のところそうでもないけど、龍成が期待するようなことは、何もしていないさ」
勉強から離れて、何かしらお金を得るのに役に立つことをしているわけでも、世間から評価されることをしているわけでもない。龍成には、だらだらしているようにしか見えないだろう。
『受験と勉強から逃げて、やることもなくだらだらしてるだけ? せっかく家出するんだったら、全国渡り歩くくらいしてみればいいのに。ヒッチハイクの旅とか?』
「それも面白そうだな」
『ってか、今どこいるわけ?』
今いる市の名前を告げると、龍成は呆れて溜息。
『はぁー? めっちゃ近いじゃん。県内だし。え? もしかして帰り道? 家に帰って、ごめんなさい、もう一年受験勉強やらせてくださいって親に頭下げるつもりだった?』
「……いや、全然」
『兄さん、本気で何やってんの? 単に家を出て、ご近所のホテルだかネカフェだかでだらだら過ごしてるわけ? バカなの?』
「……そうだな。俺は、バカだからなぁ……」
『別にバカを自覚してほしいわけじゃないんだけどさ。この三週間で何か得るものはあったわけ? ただ現実逃避したかっただけ?』
「……まぁ、うん。幸い、得るものはあった」
『何を?』
龍成にどう説明すれば良いものか。
ありのままを話しても良くないので、多少聞こえを良くすると。
「いい人に出会えた。それが一番かな」
『いい人……? え? まさか、変な女に騙されてるんじゃないよな? 保証人になってくれとか、借金の肩代わりしてくれとか』
「そんなことは要求されてない。至極単純に、いい人だよ。尊敬できる人。まぁ、性別は女性だ」
『……女ってだけで怪しい感じしかしないんだけど。兄さん、それ、絶対やばい人だよ。騙されてるよ』
やばい人だ、というのはもしかしたら当たっているかもしれない。
「……大丈夫だ。たまたま出会った俺を家に住まわせてくれるくらいには風変わりだけど、決して悪人じゃない」
『そんなのわかんねーじゃん。兄さん、女に耐性ないんだから、ちょっといい顔されただけで勘違いして、冷静な判断なんてできないだろ』
「……かもな。まぁ、電話越しじゃ、なかなかどういう人かは説明しづらい。信用しろって言っても無理な話だろう。とりあえず、俺のことはこのまま放置していても大丈夫だ」
『本当かよ……。つかさー、大丈夫だって言うなら定期連絡くらいしたらどうなん? 父さんも母さんも、放っておけとは言ってるけど、心配はしてるぞ? 生存報告くらいしてやる余裕もないわけ? 全然大丈夫じゃないだろ』
「……確かに。申し訳ない。この後メッセージ送っておく」
『ああ、そうしてくれ。で、どんな女に騙されてるか知らんけど、これからどうするわけ? ずっとその謎の女の家で居候? 受験は? 就職は?』
「……考え中」
『どんだけ考え続けてんだよ。三週間くらいあったぞ。そもそも、兄さんに今から就職するためのスキルなんて何もないんだから、受験するしかないじゃん。だらだらしてないで勉強しろよ。何年浪人する気だよ』
……ごもっとも。
龍成の言いたいことはわかる。胸が痛いさ。
こんなこと言われたら、少し前の俺だったら、『受験するしかないことくらいわかってる。もうすぐ勉強を始めるさ』くらい言ったのかもしれない。
けど、そんな正しい答え、言わなくてもいいような気がしている。
クソ野郎になるつもりはないとしても、真人間である必要もない気がしている。
「……龍成。先に一つ、言っておく。俺は俺で、最終的にはどうにかしようと思ってるから、あんま心配すんな。
そんで、あえて言わせてもらう。
ぐだぐだうるさいんだよ。そんなわかりきったこといちいち言わなくていいっつーの」
「ぶはっ」
吹き出したのは歌弥さんで、くすくすと笑っている。そして、龍成はしばし無言になった。
『……ああ、そう。そりゃ悪かったな。ってか、その笑い声、例の謎の女?』
「ああ、うん。例の謎の女」
『ふぅん……。ま、どうでもいいけどさ。兄さんがどんな破滅の道を突き進んでも好きにすればいい。ただ、家族に迷惑掛けることすんなよ。マジで』
「ああ、それは大丈夫」
『ちっ。悪い影響受けてるの丸わかりなのに、何が大丈夫だ。死ぬときは勝手に死ねよ。じぁな!』
通話が切れて、ほっと一息。
スマホを投げ出す俺に、歌弥さんが絡みついてくる。
「いやぁ、お兄ちゃん。弟君に八つ当たりするのは良くないと思うよー? サイテーじゃないかー」
「……まぁ、今のは八つ当たりでしたね。別に、弟が悪いわけではないんですけど」
「いや、弟君も悪いよ? 受験に失敗して色々と思い悩んでいるだろう相手に対して、あんな正論ぶつけるのはモラハラみたいなもんだもの。
正しいことだったらなんでも言っていいわけじゃないんだよー。あんなこと言えば、相手を怒らせて、不要な反撃を食らうのも当然さー」
「……俺も龍成も悪い、ってことなんですかね」
「ま、そういうことー。ただ、わたしは、いい子ちゃんであろうとしなかった秋夜君のこと、いいと思ったよ。たまには八つ当たりもしないとねー」
「あれで良かったんですか?」
「許容範囲でしょ。相手は、家族なんだし」
「……そういうことにしておきます」
弟には悪いことをしたのは確かだろうから、後で謝罪のメッセージでも送っておこう。
「……星香君、ちょっと変わったね。昔の星香君なら、あんなこと言わなかったと思う」
歌弥さんに触発でもされているのか、芽吹も俺に絡みついてくる。……体の関係はないが、こういうことは割と平気でしてくる。芽吹なりの線引きがあるらしい。
「……誰かに悪い影響を受けてしまったらしい」
「その人、本当に大丈夫?」
「……たぶん」
「自信なさそうだね」
「いや、まぁ、大丈夫。うん。大丈夫、大丈夫……」
「ちょっとー、お兄ちゃん。何をそんな自信なさげなのー? 大丈夫に決まってるじゃないのさー」
歌弥さんが非難がましく言ってくるのが可愛らしい。
「わかってます。歌弥さんは、俺の中で一番信頼できる人ですよ」
「よしよし。わかっているじゃないかー」
「ええ、わかっていますとも」
朝から少々不穏な感じだしてしまったが、つつがなく進んでいきそう。
とはいえ、龍成の言うことももっともなわけで、進路については、考えないとだよなー……。
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