第29話 side 芽吹千花

 side 芽吹千花


 自分が努力していることに安心して、良い結果を出すことに意識を向けていなかった。

 わたしが医学部合格という目標を達成できなかったのは、結局、そういうことなのだろう。

 色々なことを我慢して我慢して、勉強ばっかりして。いつの間にか、ストイックに勉強を続けることが目的になっていた気がする。

 振り返って考えると、勉強時間は長かったけれど、あまり集中はしていなかったかもしれない。だらだらと長時間勉強を続けて、そんな自分はよく頑張っている素晴らしい人間なのだと勘違いしていた。

 ストイックに頑張っていることが大事なんじゃない。

 良い結果を出すために、試行錯誤を繰り返すことが大事なんだ。

 知識としては、たぶんそれくらい知っていた。

 でも、実感したのは、受験が終わった後。医学部を諦めて、薬学部に合格を決めた後のこと。冷静に、自分を省みることができるようになってからだ。


 バカなことしたなー、と呆れてしまう。

 ずっと勉強にとりつかれて、それ以外のものを犠牲にしてしまった。

 わたしが正しく悩み考えていたなら、もっと素敵な高校時代を過ごすことができたはず。友達と遊んで、恋をして、かけがえのない思い出をたくさん作れたはず。

 振り返ってみれば、とても悔しい。

 なんでわたしは、自分の人生を良くしようという努力をしなかったのだろう?

 どれだけ悔やんでも、過ぎ去った時間は戻ってこない。

 高校生はやり直せないし、卒業してからの一年間も、やり直せない。


 まだまだこれから取り戻せばいい……という気持ちもある。

 ちゃんと考えて行動すれば、それもできるのかもしれない。

 ただ、やっぱりずっと後悔は残り続けると思う。

 それに。

 実のところ、何をどうすれば、今までの後悔を忘れるくらい、楽しい生活を送っていけるのかもよくわからない。

 たぶん、わたしは人生の楽しみ方を忘れてしまった。

 何をしたいのか、自分が好きなものはなんだったのか、上手く思い出せない。

 何かをしたい。でも、何をすればいいのか、わからない。


 そんな気持ちを抱えながら、わたしはこれから通う大学の近くで、一人暮らしを始めた。

 親に干渉されず、自分の好きなように過ごせる生活。

 わくわくすると同時に、途方に暮れる部分もあった。

 そして、一人になったことに、寂しさも感じてしまった。

 一人暮らし初日の夜は、落ち着かなかった。


 その翌日、わたしは意外な人と再会を果たした。

 星香秋夜君。高校三年生のときのクラスメイトで、同じ大学の医学部を目指していた男の子。

 一浪し、わたしとは別の予備校に通っているという話は知っていた。

 でも、その後のことは知らなくて。

 再会できたときには、これから同じ大学に通うのかも、と思った。星香君に明確な好意はなくても、応援していたし、仲間意識も持っていたから、嬉しかった。

 実際にはそうじゃなくて、星香君は二度目の受験も失敗し、苦悩を抱えながら家出をしたらしい。

 その気持ちは、想像できる。わたしも、二度目の受験で失敗していたら、同じくらい落ち込んで、家出だってしたくなったと思う。

 わたしと星香君は、勉強に取り組む姿勢が似ていたから、彼の気持ちが、想像できてしまう。


 すごく辛いのだろうと思って、接し方に迷って。でも、星香君が何やら家出中に出会った女性といきなり同棲を始めたということを聞いて、困惑した。

 あの真面目だった星香君が、いきなり女性と同棲!?

 驚天動地って、こういうときに使うのかな? わたしの長くもない人生の中で、一番の驚きだった。


 星香君がどんな女性と暮らしているのか気になって、会わせてもらうことにした。

 名前は歌弥ゆゆというらしい。会ってみたら、髪がピンク色の美人さんだった。

 髪がピンクって……。初対面で度肝抜かれたよ。

 もしかして怖い人なのかなー、と不安になったのは最初だけで、話してみればただの変な人だった。

 ……そういう言い方は失礼かな? でも、やっぱりわたしの主観では、変な人だった。悪い人でもなさそうだった。世間ずれしているだけで、星香君を悪い道に進ませようとしている感じはなかった。

 星香君らしからぬ、微妙に爛れた関係になっているっぽいけれど、軽い若気の至りですませる程度らしかった。


 まぁまぁ、この人と一緒なら、星香君は案外大丈夫なのかもなー、と安心していたら。

 歌弥さん、わたしが星香君を好きだって指摘してきた。

 そんな自覚はなかったのに。単に仲間意識を持っていたくらいだったのに。

 恋心なんて持っていないと主張したかった。

 だけど。

 改めて、考えた。

 星香君と、キスをしているところ。

 嫌じゃなかったし、むしろ、してみたいとさえ、思ってしまった。

 この感情は恋なのかな?

 自分の感情が、上手く掴めない。恋心を感じるセンサーみたいなものが、上手く機能してくれていない感覚があった。

 もしかしたら、好きなのかもしれない。

 振り返ってみれば、わたしはよく星香君のことを考えていて、心の支えにしていた。

 これは恋? わからない。ただ、わたしにとって、特別な存在ではあったと思う。


 変な流れで、星香君とキスをしてしまった。

 付き合ってもいないのに、キスをしてしまった。

 わたしの今までの人生を考えると、ありえない暴挙だった。

 数少ない友達に報告したら、何の冗談? と一蹴される話だった。

 そんな初めてのキスで……気持ちは、ふわふわと浮ついた。

 わたし、星香君のことが好きだったのかー、って遅ればせながら気づいた。

 そのくせ、どうしてか、独占欲は沸かないし、星香君が歌弥さんと仲良くしているのを見ても平気だった。むしろ、二人が仲良くしていると、わたしも幸せな気分になった。

 長年恋心を無視してきたせいで、わたしはどこかバグってしまったのかもしれない。

 

 一日、星香君と一緒に過ごしてみて。

 好きだなー、って思うようになった。

 昔から密かにあった恋心。

 見つけることができて、良かった。

 そして、こうも思った。

 高校生のときの星香君より、歌弥さんと一緒にいるときの星香君の方が素敵だ。

 わたしは、歌弥さんと戯れ、振り回される星香君に、改めて恋をした。

 わたしと二人きりだったら見られなかっただろう表情、言葉、立ち振る舞い。そういうものが、すごく好きだった。

 星香君からそれらを引き出す歌弥さんに、少しだけ嫉妬した。

 だけどそれ以上に、歌弥さんのことも好きになった。

 そして、星香君と、歌弥さんの関係の中に、自分も入り込みたいという気持ちが強くなった。

 ここでなら、わたしが望むものを見つけらる気がした。

 わたしはここに行き着くために遠回りをしてきたのだと、納得できる気がした。



「……星香君、もう、寝た?」


 耳元で囁く。歌弥さんには聞こえないくらいの音量で。

 星香君が僅かに首を動かす気配。部屋の中は真っ暗だから、表情はよくわからない。


「芽吹さん、寝ないの?」


 歌弥さんは、たぶんもう寝ている。男の子と添い寝するくらいで、高揚から目が冴えるということもないらしい。まだ二つしか違わないのに、随分と大人だ。


「……わたし、こういう状況、初めてだもん。眠れないよ……」

「そっか」

「改めて、なんだけど」

「うん」

「星香君と再会できて良かった。星香君のおかげで、わたし……これから、ちゃんと生きていけそう」

「ちゃんとって、どういう意味で?」

「自分の幸せとか、望むものとか、ちゃんと見つけられそうってことかな」

「俺は、何もしていないと思う」

「まぁ、星香君っていうか、星香君と歌弥さんのセットのおかげ、かもね」

「……それ、たぶん八割くらいは歌弥さんの功績」

「そんなことないよ。わたしは……星香君のこと、好きだから」

「……そっか」

「わたし、星香君を独占したいとは思ってない。でも、やっぱり好き」

「……うん。ありがとう」

「今はそれでいいや。でも、わたし、星香君からも、好きになってほしいって思ってる。だから、少し、星香君を煩わせることもあるかもしれないけど……許して」

「……うん」

「……今は、これだけ」

「……うん」

「話は変わるけど……なんか、ちょっとだけ、修学旅行の気分」

「かもな」

「そういう意味でも、ドキドキしちゃう」

「……だな」

「星香君、ずっと歌弥さんの家に住むの?」

「進路次第かもだけど、そうしたい気持ちはある」

「そっか。良かった。わたし、星香君と一緒にいたいや。歌弥さんとも」

「うん」


 ひそひそ話のようにおしゃべりを続ける。もしかしたら、歌弥さんは目を覚ましているのだろうか? それでもいいか。聞かれて困る話じゃない。

 客観的に見れば、歪な関係。

 大学生活が始まって、友達ができても、あまりおおっぴらにはできないのかもしれない。

 けど、わたし、この関係が好きだ。

 できるだけ長く、できればずっと、続いてほしいなぁ……。

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