第20話 壊れ

 今の俺の望みは、歌弥さんが幸せになってくれること。

 歌弥さんが変則的な関係を求めるというのなら、それを実現してやるのも悪くはない……のかな。


「……歌弥さんは、俺と芽吹さんがキスしてても平気なんですか?」

「うん。今のところは平気だよー」

「……もし、俺が芽吹さんを好きになって、ここからいなくなったらどう思いますか?」

「それは嫌だねー」

「……おかしなこと言いますね。俺が歌弥さんから遠ざかるかもしれないことを勧めておきながら、俺がいなくなったら嫌だなんて」

「うん。あたし、頭おかしいから。ラブアンドピース! ラブアンドピース!」

「……突然叫ぶのやめてくださいよ。芽吹さんが怯えてます」


 芽吹は、突然変なことを言い始めた歌弥さんを見てぎょっとしている。他人に危害を加えるわけじゃないから安心してくれ。


「あらら、ごめんごめん。つい、秋夜君と二人きりの乗りでやっちゃった。いつもは秋夜君も一緒にやってくれるんだよ? ダンス付きで」

「変な嘘情報を流すのやめてください。俺はそんなことしていません」

「あはは! とにかくさ、あたしは秋夜君が他の誰かのところに行ってしまうのは嫌なんだ。でも、秋夜君があたしに縛られてしまうのも嫌なんだ。この微妙な乙女心を理解しておくれー」


 にへら。

 本気で俺を繋ぎとめたい気持ちがあるのか、どうなのか。

 あると信じたいな……。


「……わかりました。歌弥さんがそう言うなら……俺、もう少しだけ、自分の枠、壊してみます」


 歌弥さんと一緒にいられるだけで、俺はきっと満足だったのに。

 そんな思いは、俺の勝手な自己満足だというのなら。


「芽吹さん」

「……うん?」

「ちょっと、立ってもらえる?」

「……うん」


 芽吹が立ち上がり、俺と向かい合う。

 俺は芽吹の目の前に立って、その体をそっと抱き締める。歌弥さんより少し小柄で、か弱い感じがした。香りも違っていて、少し甘い。

 芽吹は俺に抱き締められて体を強ばらせた。それは一瞬のことで、すぐに体を弛緩させる。芽吹の方からも、俺の背中に腕を回してきた。

 芽吹の耳元で、囁く。


「……俺、芽吹さんのこと、好きだ。でも、それは人として好きってことで……俺にとって特別な人は、たぶん、歌弥さんだ」

「……うん。知ってる」

「本当にいいのか? 変な関係に巻き込んじゃって」

「……いいよ。いつか後悔する日が来るかもしれないけど、それでもいい。何も思い出すことのない日々より、ずっとマシ」

「そう……」


 何も思い出すことのない高校時代を過ごしたのは、俺も同じ。もちろん、一切何もなかったとはいわない。ただ、本当にかけがえのない思い出と呼べるものは一つもない。


「ここで俺と関わらなければ、普通のキャンパスライフを送れてたかもしれないのに」

「だから、別にいいってば。普通のキャンパスライフより、わたしだけのキャンパスライフを送りたい。たとえそれが、客観的には滅茶苦茶なものだったとしても」


 これ以上何かをいうのは野暮か。

 芽吹も半端な覚悟で俺を抱き締めているわけじゃない。


「じゃあ、もういっか」


 抱き締めるのをやめて、至近距離で見つめ合う。

 芽吹の目は不安げに揺れていて、確たる覚悟があるようには見えない。

 もしかしたら、これから起きることを切に後悔する日もくるかもしれない。


「……もう、知らね」


 芽吹にそっとキスをする。歌弥さんと二桁に届く回数くらいはキスをしてきたから、多少は慣れたものだ。目測を誤って、歯をぶつけることもない。

 歌弥さんの唇と同じくらい柔らかで、だけど少しだけ形が違う。歌弥さんの唇の方が少し薄いかな。

 キスを主導するのは俺で、芽吹は緊張感を漂わせながらされるがまま。この様子だと、キスをするのも初めてか。俺はリードできるほど経験豊富とはいえないから、つたないキスの思い出を残してしまうかな。


 芽吹にとっては初めてだから、あまり深くする必要はない……と、思っていたのだが。

 芽吹の方から少しだけ唇を開き、ちろりと舌を伸ばしてきた。

 芽吹なりに、自分の殻を破ろうとしているのだろうか。少し大胆なことをしたい、と。

 それに応えて、俺も舌を出す。

 舌先を触れあわせて、控えめな粘膜接触を繰り返す。

 だんだんと芽吹も気持ちが盛り上がってきたのか、舌先だけではなく、舌全体を絡めるようなキスになる。


 ……なんで俺、芽吹とこんなキスをしているんだろう?

 快感に脳を焼かれながらも、冷静な部分でそんなことも思う。

 俺、芽吹と今日、一年以上ぶりに再会したばかりだろ? なんでもうキスなんてしているんだ? 俺の人生、バグり過ぎだろ。

 これもまた、俺の人生の転機になっているに違いない。


 歌弥さんの様子を横目でうかがう。

 本人も言っていた通り、本当に俺と芽吹がキスをしているのを何とも思っていないらしい。それどころか、俺と芽吹のキスを見て、どこか邪悪ともいえる笑みを浮かべている。

 この人は……本当に、どうかしている。

 そして、そんな歌弥さんを特別に思っている俺も、どうかしている。

 歌弥さんがそんなに俺と芽吹のキスを見たいのならと、少しだけ強く芽吹を求める。芽吹の体が強ばるが、負けじと激しく求めてくる。


 俺と芽吹の初めてのキスは、随分と長いものになった。

 こんなキスが初めてのものだなんて、芽吹も災難だ。芽吹には、もっとピュアで繊細なキスが似合うのに。

 先にキスをやめたのは俺の方。たぶん、そうじゃないと芽吹は意地でも自分からはやめないと思った。


「んはっ。……ふぅ……ふぅ……」


 芽吹が荒い呼吸を繰り返す。その顔は耳まで真っ赤だ。


「……ごめん。ちょっと、乱暴だった」


 芽吹が首を横に振る。


「いいの。全然、いい。……むしろ、ありがとう。ちゃんとしてくれて嬉しかった。星香君と繋がれて……良かった」

「……そう。なら、いい」

「ねぇ、星香君」

「うん?」


 赤い顔で、潤んだ瞳で、芽吹が俺を見つめる。


「……わたし、星香君のこと、好きだ」


 明確な告白。取り返しのつかない一歩を踏み出してしまったと感じた。


「……ありがとう」

「わたしの片想いでしかないこと、わかってる。それでもいい。星香君は、歌弥さんと幸せになればいい。それでいいから……しばらくの間、星香君の隣にいさせて」

「……うん。いいよ」


 頷いた後に、再び歌弥さんに視線を向ける。

 歌弥さんは、ただただ笑みを深くするばかり。

 たぶん、この人は、かつて悪魔に魂を売ったとか、そういう経験があるのだろう。

 ちょうどいいか。俺もついさっき、似たようなことをしたばかりだから。

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