第15話 芽吹千花
歌弥さんの家にやってきて、二日が経った。
この二日間、歌弥さんはほとんどの時間を執筆に費やしていた。食事、風呂、トイレ、睡眠以外はずっとノートPCに向かっていたといっていい。作家という職業は俺にとってまだ未知の存在で、こういう生活が作家として一般的なものであるかはわからない。ただ、身近で見ていた俺からすると、すごい集中力と根気だった。
歌弥さんが執筆に励んでいる間、俺は主に本棚に納まっている小説と漫画を読んだ。最初は歌弥さんの小説を読んでいて、それが読み終わったら他の作家の小説にも手を出した。単純に人気作や歌弥さんの趣味に合致した作品もある一方で、歌弥さんの作家友達の本も多数。おかげで色々なバリエーションを楽しめて良かった。
本や漫画を読む以外の時間は、料理の仕方や、家事の仕方を多少勉強した。
歌弥さんとの関係に大きな変化はない。歌弥さんとキスはするけれどその先はなく、夜には添い寝をした。一度一緒にお風呂に入らないかと誘われたけれど、丁重にお断りした。大変惜しいことをしているという気持ちはあり、変な生真面目さなど捨てて欲望のままに生きればよいのではないかと悶々としている。
歌弥さんにとって俺がどういう存在なのかは、いまいちわからない。俺のために色々と考えてくれている節もあるし、俺を家事代行くらいに考えている節もある。少なくとも、恋愛的な好意を持っているようには感じない。
そして、四月最初の日曜日の朝。
俺が食料品の買い出しで近くのスーパーに向かっているときのこと。
「あの、ごめんなさい、わたし、本当にこの辺りの道が全然わからないんです! 最近引っ越して来たばっかりで!」
「わからなくても、あんたくらいの年代なら、スマホでちょっと検索したら出てくるんでしょう? 場所を調べてくれるくらい、いいじゃないのさ。見知らぬババアが相手だからって、そんな冷たくする必要はないでしょうに」
俺と同年代くらいの女性と、かなり高齢の女性が何かを言い争っている。
若い方はぺこぺこと謝っており、高齢の方は少し不満げ。さらに、逃げられないようにするためなのか、高齢の方は若い方の服の袖を掴んでいる。
高齢の方が若い方に道を尋ねたが、若い方はこの辺のことを知らないので答えられない、という状況か。
「スマホがあればわかるんですけど……たまたま家に置いて来てしまっていて……」
「そんな嘘吐かなくていいじゃないの。ちょっと調べるだけのことがそんなに嫌なの?」
やや遠目だが、若い方は本当にスマホを持っておらず、申し訳なく思っているように見える。高齢の方は、何か意地悪をされていると思い込み、意固地になっているのだろうか。
「……あえて無視する場面じゃないか」
人通りの少ない路地で、近くには俺しかいない。若い女性が厳つい男にナンパされている場面でもあるまいし、普通に助力するくらいは構うまい。
小走りで二人の元に駆けつけ、声を掛ける。
「道がわからないんでしたら、俺が調べましょうか?」
二人が俺の方を向く。
あ、と同時に声を出したのは、俺と若い女性……
「
「……どうも。芽吹さん」
高校三年生のとき、芽吹はクラスメイトだった。当時は背中まであった黒髪を肩くらいまでに短くしており、それだけでだいぶ印象が違う。でも、大きな瞳も、やや童顔気味なのも、明るく綺麗に笑うのも、当時から変わっていない。
平均的な身長ながら、胸が少し大きいとかで男子の話題に上ることが多かった。単純に可愛い人だというのも、話題になる理由だったか。
ほとんど制服姿しか見たことがなかったけれど、今は白のブラウスにカーキのクロップドパンツ。肩に小さなポーチを提げている。
卒業以来だから、一年ぶりくらいの再会。
正直、知り合いに会いたくはなかった。
別に友達と呼べるほどの交流もなかった相手だけれど、顔を合わせるのは気まずい。
「星香君、この辺りに住んでるの? 一浪してるって話は聞いてたけど……ここにいるってことは……もしかして、春から念願の医学部生!?」
朗らかな声に、心がぐっと縮む思い。
「……違う」
「あ……そうなんだ」
俺の表情と声音に、芽吹はすぐに勘違いを悟ったらしい。気まずそうに苦笑い。
「そっちこそ、念願の医学部生じゃないのか?」
芽吹は俺と同じで、医学部を目指していた。そして、残念ながら現役合格は叶わなかったという話を、噂で聞いた。
「あー、いやー、わたしも違うんだよねー。一浪しても医学部に合格できるかびみょーなラインだったからさー……薬学部受けて、どうにか合格して、今年から薬学部生」
「……そっか。良かったな」
薬学部を受けていたら、俺ももしかしたら受かっていたかもしれないな。そうしたら、一応は大学生という身分を手に入れられて、無闇に惨めな気持ちにならずに済んだのかもしれない。
なんて、今更考えても意味はない。
それに……俺がもし薬学部に合格していたら、歌弥さんと知り合うことはなかった。
「良かった、って素直に思えない部分も実のところあるけど……まぁ、ありがとう……。あ、それより、この辺にいるってことは、星香君も今年から大学生?」
「……違う」
「あ……そう、なんだ……。専門学校、とか?」
「……それも違う」
キラキラした雰囲気の芽吹を前にすると、気分が変に落ち込んでしまう。
せっかくの再会だが、そもそも特に親しい間柄でもなかったし、用件を済ませてさっさと立ち去ろう。
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