第9話 虹子との決別

 虹子にとって、小生との日々で本当に幸せになれるのだろうか。

 その疑問をもちながらも、日々はとても穏やかに過ぎていった。

 あたたかな湯につかっているような日々は心地よく、どうしても離れがたかった。


 だけれど、最近は虹子が少しよそよそしくなった。

 小生になにかを隠しているようだ。


 最近は、夜伽もない。


 そろそろ潮時だろうか。


 そうだ、こんな奇妙な存在と夫婦になろうなんて間違っている。


 虹子は十分に犠牲をはらった。この奇妙な生活という代償を。

 この奇妙な存在の妻として使え、体をささげるのは普通の人間から考えれば十分な代償になる。

 たとえ、本人が自ら望んで差し出したとしても。

 あまりにも普通とかけ離れているから。


 今の虹子が望めばきっと彼女の身体を蝕む、毒と呪いを取り除くことができる。

 虹子は十分に対価を払ったのだから。


「虹子……話がある」

「ええ、虹子もまらさまに、お話したいことがあります。もしかして、もうご存じかもしれませんが」


 そうか、きっと虹子も小生との暮らしに嫌気がさしたのか。

 やっと、解放してあげることができる。

 やはり、虹子にとっての幸せは普通の女として生きることなんだ。

 分かってはいたけれど、とてつもない孤独感に襲われた。


 虹子の願いを叶えたらどうなるのだろう。

 前回の願いと違って、今回の願いはきっと虹子を幸せにしてくれるものになるだろう。

 虹子が幸せになったその先で、小生は存在するのだろうか。

 忘れられた存在になれば、きっと小生は何者でもなくなり、自我もこの思考さえもなくなってしまう。

 虹子のゆくすえを見守れないことは心残りだ。

 だけれど、虹子が誰かとともに幸せになるのを見る痛みに比べればずっと穏やかなことかもしれない。

 虹子との決別はつらいが、きっとそれは虹子の新たな人生のはじまりとなる。


 お互いに話があると言いながら、虹子も小生もどちらも言葉を発しない。

 男女の別れとはこういうものなのだろうか。


「まらさま……」


 虹子の可愛らしい口が小生を呼ぶ。

 ああ、あとどれくらいこの声を聞くことができるのだろうか。


「ああ、なんだい?」


 虹子の声をもっと聞いていたかった。

 その小さな口が小生を呼ぶ瞬間が、小生にとっては宝物だった。

 もし、小生が人間ならばこの瞬間を守ろうと色んな手段や言い訳を講じることができただろう。

 だけれど、小生は人間ではない。

 虹子によって祀られた神なのだ。

 本当は自分のことを神だと思ったことなんてない。

 だけれど、虹子は小生を見つけ出し、祀り、祈った。

 小生は虹子だけの神なのだから。

 偽物でも、それを信じるたった一人の人間くらい幸せにできないでどうする。


 さあ、虹子。願うんだ。

 君の幸せを。

 小生との別れを。


 本物じゃなくたって、虹子の祈りのおかげでそれくらいならかなえることができる。


 だけれど、虹子の口から出た言葉は意外なものであった。


「まらさま、虹子にまらさまとの赤子がやどりました」


 虹子は照れたようにほほ笑んだ。

「ずっとお伝えしたかったのですが、もし間違えだったらと思いなかなか言えなくて」

 そう続け、そっと自らの腹をなでる。

 確かに虹子の腹は膨らんでいた。

 やさしげにそれを見つめる虹子の目は、無邪気な子供のものから強い母親のものになっていた。




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