第3話 回復した少女

「まらさま、まらさま。おはようございます。今日は何をして遊びましょう」


 あれから、虹子は驚くほど元気になった。

 小生でも信じられないくらい、虹子は回復した。

 回復どころか、以前より生気に満ち溢れている。

 使用人もいなくなったから、自分たちで水を汲む。

 自分で水を汲み、煮炊きをし、身の回りのことはなんでも自分で行った。

 屋敷の奥で育てられたから虹子は重いものを持つことはできないが、虹子自身の努力と小生がもつ物理法則の知識でなんとかした。


 分かっている。そんなことでは説明しきれない状況であるということは。

 おそらく、小生が虹子に与えた水のおかげ……いや、小生のあれが原因である。

 虹子は小生から湧き出た水を飲ませてから明らかに変わってしまった。


 もともと美少女ではあったが、屋敷の奥に閉じ込められるようにして育った虹子。いわば病的な芸術品だったような彼女が、今は太陽の下で無邪気に微笑んでいる。

 普通のお嬢様が身の回りの世話をしてくれる人間を失って、一人でたくましく生きていけるはずなんてない。

 どんなに努力をしたとしても、こんな短時間で水をくめるほど順応なんてできない。


 どう考えても、小生が飲ませた水が原因だ。


「まらさま、見て!」


 虹子は嬉しそうに笑う。

 空から雪が降ってくる。

 一体どれだけの時間が経過したのだろう。

 時間の経過がよくわからない。

 閉ざされた空間で虹子と過ごす時間はとても穏やかで心地よかった。


 虹子は気が付くと、初めて小生を森で拾ってくれたときよりもずっと大きく童より大人の女に近づいているようだった。


 虹子が指をしめす方をみると、ちらちらと雪が降り始めていた。


 虹子は無邪気な赤子のような表情で手を空に伸ばす。


 ああ、きれいだ。


 赤と白と黒。

 小生にとって世界のすべてが虹子だった。

 それしか存在しない唯一無二だから愛しいわけではなくなっていた。


 何よりも無垢で美しい雪と比べても虹子は輝いていた。


 虹子に触れたいと思った。

 毎日、虹子の隣にいて変わらずに過ごしている。

 今までと変わらず、虹子は小生のことをなでたりくすぐったりする。

 それはとても安らぐと同時にどこかもどかしい気持ちが募っていった。


「まらさま、まらさまも雪を見てください。とっても、きれいですよ」

「ああ、でも大したことない。お前の方がずっと綺麗だよ」


 特に考えるでもなく、思ったままを口にしただけなのに。なぜだか虹子は頬を真っ赤に染めた。

 肌が桃色に染まっていた。

 今まで白だと思っていたが、こうやって雪に比べるとその薄桃色の肌ははっとするほど妖艶だった。


「まらさま、今夜も物語を聞かせてください」

「ああ、いいとも」

「虹子が聞きたい物語を聞かせてくれますか?」

「どんなだい?」

「……それは、ちょっと説明は……あの、あとで書物をお持ちします」


 虹子には眠る前に物語を聞かせてやるようになっていた。

 読み書きを教える一環だった。

 虹子は楽器や針仕事なんかはできても、漢字は読めなかった。

 読めるのは簡単なひらがなくらい。

 とても賢くて覚えるのも早いから驚きだった。

 恐らく女にはそこまでの教養はもとめられていないのかもしれない。

 だけれど、小生は虹子に読み書きを教えた。

 いつか自分の気持ちを人に伝えるときに役にたつだろうと思ったから。


 きっと、屋敷のなかから面白そうな書物を見つけてきたのだろう。

 妙にまごまごとしている。


 どうして、虹子が小生をみつけてここまで連れてきたのかはいまだに分からない。

 ときどき、予想もしていなかったような大胆な行動もとるが、基本的には引っ込み思案なところがあって大人しい子だった。


 小生は虹子が望むならばすべてを与えたいと思っていた。


 虹子が小生を見つけ出したのだから。


 虹子のためにできること。

 虹子が望むものすべて。


 虹子が小生にささやき、ほおずりをする。

 虹子の髪からは得も言われぬ良い香りがする。

 絹糸よりも艶やかな黒髪が小生をくすぐる。


 そして、その晩のことだった。

 あの異常な事態が起きたのは。

 虹子があんなことをするなんて小生は想像もしていなかった。

 いや、想像はできたのかもしれない。

 だだ、その可能性から目を背けていた。

 気づかないふりを続けていた。


 もっとちゃんと向き合っていればあの悲劇は防げたのかもしれない。

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