第2話 能力
「虹子、大丈夫か?」
虹子の頬をぺちぺちと軽く。
湿った肌が触れ合う音がした。
「……う、ううん?」
虹子は喉から少し苦し気に声と息を吐き出した。
声はかすれていた。
よかった。生きている。
よくよく見ると、虹子は年の割に体は華奢で弱々しい。
髪はつややかだが、肌はいつも青ざめている。
毎日着ている、紅い着物の色味がそれをごまかしていたが。目を閉じているとその青白さは目立った。
こうやって静かに観察すると、虹子は今にも死んでしまうのではないかと心配になるほど弱々しかった。
小生にとって虹子は世界のすべてだ。
今持っている記憶は虹子が小生を家に連れ帰って祀ってくれてからの記憶だけなのだ。
おそらく、虹子がいなくなってしまえば小生は自分が誰かわからないどころか、考えることもできなくなる。
何者でもなくなってしまう。
人を超えた存在とかそういうレベルの問題ではなく、存在自体が危うくなる。
この世に残ったとしても何か思考できるものではなく、その肉体だけが生命活動のようなものだけを続ける。
何年も、何十年も、何百年も。
存在だけ続けて何も変わらず、周囲だけが芽生え滅んでいく。
虹子を失えば、小生も死ぬ。
そう、直感的したのだった。
おそらく、その予感は間違いないものだろう。
だけれど、目の前の虹子の体はひどく弱っていた。
まだ年若い少女がこんなに弱るなんて異常だ。
しかも、こんな屋敷の奥に大切にしまわれている少女が……。
よくよく思い返してみると、そういえばこの屋敷に連れてこられたときは、もっとにぎやかだったような気がする。
うるさいのではなく、もっと人の活気づいた気配があるというか。
人が生きて生活している気配があった。
それが、気が付けばこの屋敷は静まり返っていた。
どのくらいの時間をかけてこうなったのかはわからない。
小生はすっかり時間の感覚を失っていたし、虹子は毎日来るものだからそれを数えるのはやめていたから。
にぎやかだった屋敷から人がここまでいなくなるまでは相当な時間がかかるはずだ。
どうして小生はここまで周囲に無関心でいたのだろう。
後悔しても仕方がない。
もっと早く小生が異変に気付いていれば……。
だけれど、今は虹子の苦し気な息遣いが聞こえるだけだった。
小生がなんとかせねばなるまい。
「虹子、虹子。聞こえるか?」
「……まら……さま」
喉からひゅうっという消えそうな音を吐き出すともに虹子は小生を呼ぶ。
喉から風が抜け出ていく音はとても嫌な感じがした。
だけれど小生は虹子に呼ばれただけで、力が体に湧いてくるような気がした。
「お前を助けたい。何かできることはあるか?」
「喉が渇きました」
目こそ熱で潤んでいたが、確かに虹子の肌はいつもと比べてかさかさとして水分を失っていた。
「水分だな。分かった。なんとかしよう」
反射的に安請け合いな返事をしてみたものの、小生はどうすればいいのか見当もつかなかった。
声がでるようになったとは言え、恐らくこの屋敷にはもう生きた使用人は残っていない。
ならば、自分で水を汲みに行くか。
否。
こんな状態の虹子を独りぼっちにさせることはできなかった。
なによりも小生は無力だった。
虹子の可愛くて小さなやわらかい手につつまれて、この屋敷に連れてこられて、ただ寝っ転がるばかりだった。
この屋敷のどこに水を汲める場所があるのかも、飲み水用の甕があるのかもわからない。
でも、熱に浮かされたような虹子は苦し気で今にも再び意識を手放していまうのではないかと思うくらい弱々しい。
なんとかしなければ。
水を、水分を虹子のその細い喉の中に注いでやりたい。
水を飲んで虹子が元気になる姿を想像しながら、必死に考える。
すると、さっきと同様小生の中に不思議な変化が現れはじめた。
不思議な感覚だった。
切羽詰まるような、そして少し甘やかなような。
寂しくて、もどかしくて。
うずうずとするような。
よくわからないけれど、小さな衝動が体の中でパチンと爆ぜた。
何が起きているか自分でもわからなかった。
だけれど、体の中でその衝動はどんどん大きくなっていく。
ああ、行きたい。
あの場所に行かねば。
頭のなかがそのことでいっぱいになる。
でも、言葉が出てこない。
だけれど、波はどんどん大きくなっていく。
自分の中が水で満ちているのが分かった。
同時にこの水は小生にとってもう必要のないものであると感じた。
虹子に小生の中にあった水を注ぎ与える。
もどかしさと苦しさが消えて、安堵感がふわりとやってくる。
虹子の胸が上下する。
小生の中から湧き出た水を飲み干す。
こくん、こくん。
一口一口、幼子が一生懸命に母親の乳を飲むように懸命に飲みこんでいく。
気のせいか先ほどより顔色がよくなった気がした。
「虹子……」
再び虹子の名前を呼ぶ。
こちらの名前も、もっと呼んでほしいと思ったから。
だけれど、虹子は満たされたのかとても安らいだ表情で眠っていた。
もっと、力が欲しいと思った。
もっと、虹子に名前を呼んでもらえるように。
虹子が幸せになれるように。
赤と黒と白でできた虹子が世界のすべてだから。
眠る虹子に寄り添い、そっとその唇に触れると、ふにゃりとやわらかく湿っていた。
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