エピローグ1 遺された者

 ————令和某年、六月二日。鹿児島県某所。



 

 すでに時刻は正午。

 雲一つ無い青空の中天に太陽が無遠慮に輝き、白い光を人界に降らせている。

 自然界に存在する光の中で最強の光源は、あまねくものに闇を許さない。まして六月に入った南方の県はなおさらだ。


 しかし、常春とこはるが今いる場所は、そんな天気とは裏腹に、青黒い濃厚な闇が溜まっていた。


 鬱蒼とした森林の中。

 木々の一本一本が、確実に樹齢数百年を迎えているであろう太さと貫禄を備えている。太い根がぐねぐねと広がり、起伏の激しい地形を作っていた。


 密度の高い梢同士が折り重なっていて、木漏れ日すらも探すのが難しい。そのため森林の中は、すでにうっすら汗ばむ気温である外界よりも冷えている。今着ているアニメキャラTシャツではむしろ寒いくらいだ。


 獣の気配も、そこかしこに感じられる。それらの無数の気配には、鹿やリスのような草食動物もいれば、熊のような危険な獣も混じっている。……先ほども一匹のひぐまと遭遇し追いかけられ、どうにか逃げきったばかりだった。


 人間の介入の余地を許さぬ、圧倒的な自然が、そこにはあった。


 だが、その中にも、小さいながら「不自然」が存在していた。


 事前に知った道順を辿った先に、常春はその「不自然」にたどり着いた。


 まるで人が計算して広げたかのような、綺麗な円形の空間。

 そこにだけは、芝生ほどの長さの草は生えていても、天を覆う樹の類は生えていなかった。その円形の空間と同形の穴が、梢の天蓋を突き抜けるようにして真上に開いており、そこにだけまばゆい陽光が降り注いでいた。ずっと緑の闇の中を進み続けていた常春の目には痛かった。


 その円形の空間の中心には、小さな山小屋のような建物が、ぽつんと一件鎮座していた。


 深緑の闇の中から、円い光の中へと足を踏み入れた瞬間だった。






 が、突風じみた速度で常春に衝突した。




 


「————っ!!」


 その透明の壁……否、『気迫』に押され、ピラミッドのごとき盤石な安定を誇るはずの常春の重心が後ろへ滑る。


 間近に大瀑布が流れ落ちているような勢いの、浴びているだけで息が苦しくなるほどの『気迫』。師のえん封祈ふうきでさえ、これほどの威力は出せなかった。


 ——安西蓮あんざいれんでさえも。


「っ…………ぼ、僕は伊勢志摩いせしま常春! 袁封祈の全伝を正式に受けた関門弟子です! ……突然の来訪、無礼であることは重々承知しています! どうかっ、この「気」をお納め願います! …………あなたに、大切な御用があって参った次第です!」


 苦しまぎれにそう訴えると、常春を圧迫する不可視の圧力が徐々に弱まり、やがて消えた。


 呼吸を整えていると、


「——入ってくるがいい」


 小屋の中から、そんな声が投じられた。ぞんざいな老人の声だった。


 その声に従い、常春はいまだ少し恐々した足取りで小屋へと近づき、引き戸を開けた。


 中は、囲炉裏いろりを中心に置いて広がった、いかにも大昔の小屋といった感じの内装だった。光源はつっかえ棒で開けっぱなしにされた突き出し窓と、木材同士が噛み合わず外からの光が細く漏れている壁。そのためやや薄暗い。


「……ふん。前よりすこしでかくなったか、小鬼め」


「そちらは変わっていませんね——雲林院うじい先生」


 唯一の住人のぶっきらぼうな言い草に、常春は苦笑混じりに言い返した。


 囲炉裏の側には、一人の老人が胡坐をかいていた。


 無礼を承知で形容するのなら、干物のような老夫だった。

 ボロ布で出来たような着流しから伸びる手足も、襟から覗く胸元も、水分に乏しく骨張っている。

 腰ほどにまで伸びた髪は生え際まで真っ白。顔は頬がけっていて、高めの鼻筋も異様に骨っぽく目立っている。


 しかし、「眼」だけは異様に生気で満ちていて、向けられた者を常春をも緊張させる迫力がある。

 まるで全身のエネルギーが眼球に集中し、なおかつ圧縮されているかのようだ。


 この現代ではそうそう目にかかれない、人間離れした気配を持つ老人。


 雲林院うじい弥彦やひこ


 この現代において「武蔵の再来」と呼ばれるほど、武名も悪名も広く伝わった、生ける伝説。


 人間嫌い、特に武芸の心得を忘れた現代の日本人が大層嫌いであるため、人里を捨ててこの森林で世捨て暮らしを続けている変わり者。


 そんな彼の居所を知り、なおかつたどり着ける能力のある者は、常春とその師を含めてかなり少数である。……かつてこの森に弥彦が住んでいる事を知った有名な剣道家が、弟子入りを求めてこの森に足を踏み入れるも、遭遇した羆に殴り殺されるという悲惨な最期を迎えた。


 生半可な気持ちや能力ではたどり着けないこの地へ、それも住んでいる東京からかなり離れた鹿児島の地まで赴いたのには、「理由」があった。


「勝手に座れい、小鬼」


 愛想無く告げられた家主の言葉に甘え、常春は土間で靴を脱いで上がった。


 囲炉裏を挟んで、弥彦と向かい合う形で正座する。


「……して、何用か? わざわざこのような遠い場所へやってきたのには、何か「理由」があるのであろう? 遊びに来たというのならば、儂では付き合いきれん。その辺の熊とでも遊んでいろ」


「ご冗談を。さすがの僕でも熊に勝てる自信はありませんよ。ひと睨みで熊すらひっくり返せるあなたなら、良い遊び相手になるのでしょうが」


 冗談めかした口調で場の雰囲気を一度軽くしてから、改まった口調で「理由」を告げた。






「————西






 弥彦の眉根が、ほんの微かにだが、ぴくりと動いた。


「……貴様、あの小僧と知り合ったのか」


「はい。……互いの命を賭けて、果たし合いました」


「その末に殺したと。……安心するがいい。あの小僧は儂の弟子ではない。ただの泥棒猫だ。儂の住まいに勝手に居付き、その身に宿した化け物の「血」で儂の培った術を一つ残らず盗んだ汚い化け猫だ。……流派同士の抗争を懸念しているのならば、そんな心配は不要だと言っておくぞ」


 今までの愛想が無い口調とは違い、少し皮肉で尖った口調だった。


 むべなるかな。


 弥彦は『戈牙かがもの』が嫌いなのだ。


 半世紀以上にわたる研鑽を積み重ね、あまねく武人はようやく入神の域へと到達する。弥彦とてそのような存在だ。


 そんな「あたりまえ」を無視し、生まれ持った素質だけで早々に入神してしまう『戈牙者』という存在を、弥彦は大層嫌っていた。常春の事も例外ではない。


 弥彦からすれば、蓮はまさしく自分の研鑽を盗み出した泥棒だ。恨みこそすれ、悲しむことはないのかもしれない。


「いえ……殺したのは僕ではありません。むしろ……


「……どういうことだ?」


 あらゆる事に興味を示さない雲林院が、珍しく食いついた。


 そのことに、蓮への情がほんの少しでも含まれていることを願いながら、常春は語り始めた。










 神野のシンパの群勢を蹴散らしたは良いものの、すでに常春と蓮は限界に達していた。


 血を流し過ぎていたのだ。


 その事実を受け入れ、常春は意識を手放した。


 そのまま、永遠に目を覚さないはずだった。


 だが、そこへ待ったをかけた者達がいた。


 劉秀剣りゅうしゅうけんが率いる、武久路在住中国人たちだった。


 彼らは傷ついた常春を、闇医者のところまで運ぼうとした。


 そう、常春だけ。

 彼らは蓮まで助ける気はなかったのだ。

 無理もない。蓮まで助けてしまったら、また『唯蓮会』の脅威が再燃してしまう。

 なので蓮は放置して死ぬに任せるのが、火種を産まない最善の道であった。


 しかし、まだ意識をかすかにだが残していた蓮は、中国人たちに次のように頼んだ。




 ——……頼む。俺の……俺の残った血を、常春に、全部…………




 蓮と常春は、血液型が同じだった。


 以前常春と交わした会話で、蓮はそのことを知っていた。


 だからこそ、自分の血を全て使い、常春を助けてほしいと、確かにそう頼んだのだ。


 ——俺は、もう……助からねぇ。だが、常春は…………まだ、助かる可能性が……ある。生き残らせるなら…………常春だ……


 ——俺は……何も、残せな、かった…………だから、せめて……俺より、マシな、生き方してる……同胞の命を……残してぇん、だ…………なぁ、頼むよ……!


 中国人たちは、そんな蓮の願いを受け入れた。


 普通の病院に行っても、傷跡の形状と体内に残った弾丸で事件性が確定し、面倒なことになりかねない。

 

 だから常春と蓮は、武久路にいる「闇医者」の元へと運ばれた。

 後ろ暗い理由で負傷した者を、警察の目が届かない範囲の場所で秘密裏に治療する医者。多少値は張るが、その分、法に触れる強引な治療も可能である。


 常春はそこで、蓮の残った血を全部輸血された上で治療を受け、生き残った。


 『戈牙者』の強靭な生命力によって、常春は二日後には目を覚ました。——そして、自分が助かった経緯を全て説明された。









「……つまり、貴様の体には、奴の血が流れていると?」


 弥彦の言葉に常春は頷く。


「彼がいなければ、もしくは彼が血を与えてくれなければ、僕は間違いなく死んでいたでしょう。僕は……彼が最期に遺した命。彼が生き抜いた証なのです」


「……。助かろうと助かるまいと、人はいつか死ぬ。儂もな。まして……あの小僧はどのみち大して長生きせんかっただろうしな。生き方もそうだが——肉体も」


 最後の一言は、蓮だけでなく、


「『戈牙者』は何百年もの間、無茶な「品種改良」を自分たちに課してきた。つわものとして優れた人間を作るためならば、近親相姦すら厭わなかった。……そんなことをしてきたツケだろう。『。儂は今の百歳になるまで、多くの『戈牙者』を見てきたが……みんな四十前後で墓の下だ」


 その言葉を作る声には、呆れたような、勝ち誇ったような、そんな心情が含有しているように聞こえた。


「皮肉なものだな。万兵に匹敵する力と才を得ても、やはり凡夫と同じように己によって己を殺されるのだ。それも凡夫より早くな。……儂も、『戈牙者』ほどの才能は無かった「凡夫」だ。しかし多くの『戈牙者』が墓の下にいってなお、儂は生きている。あの小僧……安西蓮が儂の技を盗んでみせた時は、正直殺したいほど頭にきた。だが、


 最後には、せせら笑うような響きさえあった。


「でも、あなただっていつかは死ぬんでしょう? 歳を考えると、きっと僕よりも早くに」


 そう告げた常春の声は、少し棘があった。


 弥彦の主張は正しい。


 武の本質は、万兵を叩き潰すことではない。少しでも長く生き残ること。


 戦うにせよ、戦わないにせよ、弥彦は武の「本質的な面」で今まで勝ち続けてきた。


 腕前もそうだが、生き方も。


 しかし、それでも、常春は少し頭にきたのだ。


 まるで、蓮が犬死にしたような言い方をされたからだ。


 ……やはりこの人は、蓮のことをなんとも思っていないようだ。勝手に居着いて勝手にいなくなった、野良猫程度にしか。


 弥彦は、わずかに眉をひそめていた。


「貴様……」


「彼は確かに死んだ。だけど、僕をんだ。そんな彼の思いは、僕にきちんと残っている。——だから僕は、そんな死んだに誓う。彼をせせら笑ったあなたより、僕は長生きしてみせると。意味ある生を積み重ねていくと」


「……黙れ」


「普通の人より短い人生の中で、多くの体験をして、すばらしい『日常』を送ってみせると。それを守るために、これからも僕は闘い続けると」


「黙れと言っている」


「そうすることで、僕の中に流れる彼の命とともに、あなたに勝利すると」


「——出ていけぇぇぇっっ!! 小鬼がぁぁぁっ!!!」


 気迫。


 爆風じみた不可視の圧力に紙のごとく軽々突き飛ばされ、引き戸を内側から破って外へ投げ出された。土と草の匂い。


 常春は立ち上がり、怒りで興奮気味の形相をした弥彦へ一礼。


「……失礼します」


 そのまま背を向け、小屋を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る