孤独な怪物

 最初に攻めかかったのは、常春とこはるだった。


 残像を置き去りにするほどのスピードで蓮の眼前に迫り——かと思えば再び消え、背後に回って首をめがけて一太刀を発した。


 人智を超えた常春の俊足に、しかし蓮は反応した。振り向きざまに己の刀身で受け、滑らせ、流し、振り抜いたところへ反撃の刺突。


 右眼球を狙ったその攻撃を常春は頭の動きだけで回避。そのまま後方へ跳んで距離を取ろうとしたが、それを読んでいたかのように蓮の刃がそのまま首筋へ近づく。……この状態で後退すればこの刃との摩擦で頸動脈を斬られてしまうと判断。なので常春は刀を振り抜いた右腕の肘を持ち上げて蓮の刀身のを小突き、カチ上げた。


 それによって出来たわずかな隙を利用して、常春は再び瞬時に遠間へ移動。


 蓮はそれを見て楽しげに笑う。


「はは、すげぇなぁ。それがお前のトップスピードってわけかい。マジで全然見えねぇ。「気」を読めなかったらとっくに首チョンパだったわ」


 答えない。代わりに再び距離を瞬く間に詰め、己の刀が届くギリギリの位置から蓮の首を狙って軽く薙ぐ。無論、蓮はそれを顎の動きだけで躱す。さらに返す刀で刺突を疾らせるが、それも蓮は己の刀で受け流しつつ、もう片方の手で懐から拳銃——ブローニング・ハイパワーを取り出し、発砲。


 常春は回避。


 二発目、三発目と撃ち出されるが、それも回避。


 銃は確かに強力な武器だが、やはり機械だ。引き金を引いてから銃弾が弾き出されるまでの時間は、どれほど速くとも必ず。機械の働きゆえ、その終始のルーチンに人の介入する余地は無い。


 ゆえに引き金を引く直前のタイミングさえ読めてしまえば、回避は難しくない。あとは度胸の問題だ。


「弾切れになるまで避け続けようって? させねぇよ?」


 しかし、同じく弾を避けられる蓮もまた、その道理を心得ているのは自明の理。


 ゆえに、その「道理」を逆手に取った攻撃を仕掛けてくる。


 蓮は動いた。


タンッ!!」


 間合いまで雷光のごとく踏み入ってくる。


 右手には懐深くに構えたハイパワー拳銃。左手には首に巻きつけるように構えた日本刀。


 刀を防いでも撃たれ、弾を避けても斬られる、防御をいっさい許さぬ二段構え。


 後退しても、横へズレても避けようが無い。


 なら、だ。


「何っ……?」


 放たれた太刀筋と銃弾。しかし常春はすでにそこにはおらず、蓮の斜め上の虚空に浮いていた。太刀筋のちょうど真上を跳んだ形で。


 なおかつ


「っぐっ……」


 右足で蓮の顔面を蹴り、それによって怯んだ一瞬の隙に左足で拳銃を蹴り落とす。


 蓮が後方へ数歩たたらを踏んでいる間に、着地。それから、床に落ちた拳銃をひと踏みで粉々に粉砕した。


「やってくれんじゃねぇかよっ! ははっ!!」


 蓮は苛立っていつつもどこか愉快そうに一笑し、再び歩と刃を進めてきた。


 常春もそれに応じる形で身と白刃を踊らせる。


 姿が霞むほどの速度をもって、嵐のごとく猛然と放たれる常春の斬撃。

 

 不要な動きをいっさいせず、精密機械じみた最低限かつ正確な動きで放たれる蓮の斬撃。


 互いの刀身が、それぞれ異なった文目あやめを虚空に描き、ぶつかり合う。


 蓮の笑みが、愉快そうな色を増した。


「ははははっ!! すげぇすげぇ!! 俺とここまで切り結べた奴ぁ初めてだ!! 体に巻きつけるようなその振り方が、中国武術の刀術かぁ!?」


 やはり常春は答えない。


 しかし、心中では、蓮の動きを「脅威」と冷静にとらえていた。

 

 徹底して無駄の無い動き。

 無駄が無いゆえに最短。

 最短ゆえに最速。

 最速ゆえに鋭利。

 鋭利ゆえに必殺。


 一太刀でもまともに浴びれば、その部位が豆腐のごとく容易く斬り分けられて地に落ちる。それをひしひしと感じさせた。


 彼が雲林院うじい弥彦やひこを見て盗んだ、「最強の動き」だ。


「面白ぇ! んじゃ——はどうよぉ!?」


 そう蓮が叫んだ次の瞬間。


 常春の周囲を、


 まるで、たくさんの剣士に群がられ、刀を振るわれているような感覚。


 これは、「気」だ。


 常春も蓮も、目だけで相手の太刀筋を見て応じているわけではない。相手の「気」を読み、一瞬後の太刀筋の軌道を予測し、ワンテンポ早くソレに対処しているのだ。


 であれば、相手が読んでくる自分の「気」の中に、


 袈裟、逆袈裟、刺突、唐竹割り、薙ぎ払い——多種多様に織り交ぜた「気」のブラフ。その中から当たりを引かなければならない究極のロシアンルーレットを突きつけられた常春。おまけに返答までの猶予は一秒未満。


 しかし、それでも数多の経験によって鍛え抜かれた常春の勘は、刀の位置、蓮の手足の配置、呼吸の緩急、筋肉の収縮バランスなどといった要素を統合して計算し、瞬時に「答え」を割り出した。


 蓮の姿が目の前から消える。常春は一歩退がる。……次の瞬間、常春の喉があった位置を、斜め下から突き出された蓮の刺突が貫いた。


「ご名答ぉ! んじゃ、第二問だ!」


 再び常春のあらゆる方向から、無数の「気」の太刀筋が襲いかかる。

 

 常春はそれもどうにか見破って回避するが、すぐにまた同じように「ブラフ」の嵐が覆い尽くす。


 次々と蓮の攻撃を回避していく常春だが、やがて右まぶたのすぐ下のあたりに一太刀をかすめてしまう。

 

「次は目ン玉いくかぁ!? ひゃはははっ!!」


 アドレナリンの過剰分泌か、テンションが上がった様子の蓮がさらなる攻勢を見せる。


 このまま真面目に立ち合っていたらいずれ斬られる。敵と同じ土俵で戦うべからず。


 以降も何度かやってくる、「気」のブラフを織り交ぜた太刀筋を何度か避けてから、常春は隙を見つけ、風のように後退して大きく間を開く。


 どう攻めたものかと、常春は刀を後方へ隠すように構えながら高速で思案する。


 まず問題なのは、自分の使う刀術と、蓮の剣術は、動きや性質が異なるという点だ。


 日本剣術の強みは「速さ」だ。


 それは物理的な速さだけでなく、も含まれる。


 たとえ一太刀を受け止められたとしても、我が刀身の鋒が相手の顔を向いていれば刺突へ変じ、それを避けられたとしても刃が首の近くにあるならば頚動脈を引き斬ったりと……その場その場で「最短かつ最速」の手を打ってくる。


 そして弥彦譲りの彼の剣技は、動きから一切の無駄を省くことでその「速さ」を極限まで高めたもの。


 一方、中国武術の刀術は、攻撃よりも防御に優れている。


 体に巻きつけるような太刀筋は防御力が高く、なおかつ一対多数の戦いに適したものだ。


 それでいて拳法の動きを織り交ぜているため、巧妙かつ柔軟。


 しかし、今目の前にいる剣士よりは「速さ」が劣る。無闇に刀術に蹴りや掌を混ぜられない。


 中国刀術の法則通りに拳法混じりの戦い方を無闇にしようものなら、腕や脚が斬り落とされかねない。


 さらに、蓮の武器はそれだけではない。


「チョロチョロチョロチョロ動き回りやがって。そういうゴキブリは——こうだ」


 言いながら、蓮は正眼の構えを取った。


 次の瞬間——常春の全身の筋肉が、意思とは関係なく凝り固まった。


「っ……!?」


 正眼に構えられた蓮の剣尖から、圧力のようなものがほとばしり、それによって否応無く全身が緊張させられたのだ。「気」が発せられたのだ。


 ヘソの裏側にある命門穴めいもんけつから分かれた「気」が、上下を周ってヘソにある経穴で合流、そこからさらに剣尖へと波及し、弾けたのだ——


 別に害は無い。全身の筋肉が一瞬、極度に緊張して動かなくなっただけだ。


 しかし今、ゼロコンマ数秒の油断さえ命取りとなり得る戦いの最中にある今、ソレは大きな隙になった。


 硬直の隙を突く形で、蓮が間合いへと達していた。


 すでに振り下ろされかかっていた唐竹割りの一太刀を、常春はやむなく刀で受けた。


 さらに、刃同士がぶつかり合ったのと同じタイミングで、靴裏で押し飛ばすような蹴りを蓮の手元へ素早く叩き込んだ。中国武術では蹬脚とうきゃくと呼ばれる蹴りだ。


 蹴りの勢いに押されて引き下がる蓮。


 それに追い討ちをかけるべく接近を試みる常春だが、


「——はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!!」


 それよりも早く、蓮が『気迫』を爆発させた。


 雷が落ちたような衝撃。しかも頼子に向けたソレよりもはるかに強力な『気迫』。常春の胆力がなければ失神していただろうが、それでも常春をも一瞬ながら竦ませた。


 その「一瞬」を使い、蓮は持ち直した。


 再び、お互いに遠間とおまの位置関係に回帰する。


「……その「気」の技も、雲林院先生から習ったのか」


 常春の言葉に、蓮はニヤリと笑った。


「ようやく口を開いてくれたねぇ。……ご名答。というか、あのジジイの猿真似してたら自然と身に付いた技術だよ。ジジイのように「気」だけでショック死させたりっていうレベルではまだねぇが、それでも十分殺し合いに足りる技術だよ。たいていの相手はコレで失神するからなぁ。お前にも効果的みてぇだし」


 その言葉と、先ほどの見事な技の腕前の数々を思い出し、常春は心底残念な気持ちになった。


「……これほどの腕がありながら、どうしてこんな事をする」


「これほどの力があるから、って言い換えろやボケ。世の中は力が全てだ。力がある奴が全てを握り、そうでない奴は奪われるだけ。世界の警察気取ってるどっかの大国とか、世界の皇帝になりたがってるどっかの大国とか見りゃ分かんだろ? 力を振りかざすのは、力のある奴の義務であり権利だ。これは、人ごときが作った法ですら覆しようのない、古来からの真実だよ」


「やっぱり……君とは分かり合えないみたいだ」


「奇遇だなぁ? 俺もお前に対してそんな感情を抱いていたところだ。がありながら豚の群れで豚のフリをしてのうのうと生き腐り、強者の権利も放棄したテメェとは、根本的に価値観が合わねぇようだ。——俺達は「選ばれし者」だ。狂気的な護国の意思が生み出した最強の人間凶器の末裔だ。連中とは住む世界が違うんだよ。なぜそれが理解できねぇ?」


「それでも、。君のように、「血」に振り回されての選択じゃない。自分で考え、選んだ道だ」


 確かに、この生き方は、師が施した「洗脳」ゆえなのかもしれない。


 しかし、常春は師から受けた教育が「洗脳」であることを自覚している。


 


 だが、目の前の男はどうだ?


 この男は、自分勝手に生きているように見えて、自分の意思で生きていない。


 「血」がもたらす本能に、振り回され、流されているだけ。


 己が『戈牙者』であると自覚してはいても、


 子供のまま時間が止まったままだ。


 だから常春は、怒りよりも、憐憫を覚えた。


 そんな感情を読んだのか、蓮は冷たい殺気を顔面に表層化させた。


「そうかい。じゃあ————死ねよ」


 再び正眼の構えを取った蓮の鋒から、鋭い「気」が貫くように迫った。


 その「気」に反応し、全身が先ほどのように硬直しそうになるが、


「——ッ!!」


 常春は内から外へ爆ぜるような勢いで「気」を張り、蓮の剣気を撥ね退けた。


 しかし、その「気」の防御の暇すらも隙として扱い、蓮は瞬時に常春を己の間合いへと納めた。


 その途端に常春の周囲に殺到する、無数の「気」のブラフ。常春は瞬時に計算し、本物の「気」を読み、それを防ぎつつ反撃。しかし躱される。それから再びブラフの嵐。


 まるで針穴に糸を通すような高難度の防御を再び強いられ、常春はそれに手一杯で上手く攻められずにいた。反撃できたとしても、ほぼ苦し紛れであるため簡単に防がれる。


 それどころか。


「っ……!」


 ときおり蓮の一太刀が、浅くだが常春の体を傷つける。火の粉のごとく血の滴が跳ねる。


 もう一度遠間に退がらねば。それから軽身功のスピードを生かしたヒットアンドアウェイの戦法に切り替える。刀と腕のリーチを合わせて上手く利用し、常春に届いて蓮にはギリギリ届かない距離で攻める。その戦法の方が危なげが無いだろう——


「——な」


 だが、それは出来なかった。


 蓮の猛攻を懸命に避け続けているうちに、常春はポーカーテーブルの一つに背中を打った。——しまった、後方の退路を絶たれた!


 急速に迫る蓮と、横薙ぎの太刀筋。


 常春は今まで、立ち位置を変えながら攻撃を防いできた。一瞬とはいえ動きが止まり、なおかつ後ろへ退がれなくなった今は願ってもない好機だろう。


 しかし、逆に考えれば、攻め時であるがゆえに、攻撃が単純になりやすい。ナポレオン・ボナパルト曰く——最大の危険は勝利の瞬間にあり。


 常春は、姿


「!?」


 蓮が息を呑む声が聞こえた頃には、常春はすでにポーカーテーブルの下を転がり、くぐっていた。


 テーブルの縁の下でしゃがんだ状態から、勢いよく跳ねる。その勢いを乗せた靴裏で、テーブルの縁を大きく前へ蹴り飛ばした。


「っぐ……!?」


 前へ投げ出されたそのポーカーテーブルの面に、蓮がぶつかる。


 それを小さな呻きを聞いて確認した常春は、四脚を手前へさらけ出したテーブルへ瞬時に移動。テーブルに指先を添え、コンパクトに、しかし鋭い重心移動とともに、その指先から空気を圧し潰すように掌を打ち込んだ。


 どぅんっ。


 まるでテーブル表面ではなく、その向こう側が加重されたような鈍い音。


 テーブルは、さほど前へ押されなかった。


 「重さ」としては、大した威力はない。


 しかし、その「質」は別だ。


 蹴られた慣性が消えて、重力の赴くまま落ちて倒れ、四つ足を真上へ向けたテーブル。それによって、その向こう側にいた蓮の姿も露わになった。


「っ……テメェっ……!」


 蓮は、軽く膝を屈しながら立っていた。刀を握っていない右手は胴体を押さえ、その表情には狼狽と苦痛と脂汗が浮かんでいた。


 呪詛を吐くように、蓮は口走った。


「クソがっ……浸透勁しんとうけいか……っ!!」


 浸透勁。


 相手の外部ではなく、内部に響き渡るような衝撃を放つ打法。


 その衝撃波は、くらいならば容易く突き抜けて、接している相手の体内をエコーのように冒す。


 蓮とて、常春の「気」を読みながら回避と防御を行なっている。しかし、彼は中国武術にはさほど明るくはない。打撃を打ってくることは分かっていても、までは読めない。テーブルによって視界を奪われていた状況ならばなおのこと。


 常春は、さっき捨てた己の剣の柄を蹴り上げた。回転しながら跳ねた刀の柄をキャッチ。


 蓮へ向かって真っ直ぐ突進しようとした。


「——うぜぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ!!」


 が、それよりも早く、蓮の『気迫』が激発した。


「っ……!」


 まるで超大型台風の瞬間最大風速のごとし。今まで以上に凄まじいその『気迫』に、常春も押し飛ばされて後ろへ転がる。


 立ち上がると、爛々と不気味に輝いた、虎のような蓮の瞳と視線がぶつかった。


「よくもやってくれたなぁぁっ…………クソが……こんな気持ち悪い思いしたのは、久しぶりだぜ…………!!」


 その瞳と、荒いだ呼吸、割れんばかりに食い縛られた歯……手負いの獣を連想させた。


 手負いの獣が、しかし歯を剥いたまま獰猛に笑った。


「だが……敬意を表するぜ。俺をサシでここまで追い詰めた奴は……テメェが初めてだよ。伊勢志摩いせしま常春よぉ」


 憤怒で荒ぶっていた蓮の「気」が、突然神妙なものに変化した。


「だから————俺の「とっておき」でテメェを殺してやる」


 蓮は、おもむろに刀を振りかぶった。


 日本剣術ではありふれた、上段構え。


 しかし、そのありふれた動作には、恐ろしいくらいに細く整然とした「力の流れ」が備わっていて、まるで定規で線を引くような正確さで刀身と一致していた。


「っ……」


 常春は我知らず唾を呑む。


 教えられずとも、蓮がこれから何をしようとしているのかが理解できた。


 ——『波羅蜜多之太刀はらみたのたち』。


 雲林院弥彦が唯一持つ「技」。


 師から受け継いだ技を捨てて捨てて捨て尽くし、最後に残った唯一の「技」。


 「これだけあれば問題ない」と弥彦が判断した、基本にして絶対奥義。


 見えているのに、絶対に避けられない——そう言われている、文字通りの意味での「必殺技」。


 側からは見たことがあるが、この技を直接向けられるのは初めてだった。


 確かに、物理的なスピードは大したものではなかった。しかし、木刀ですら切れ味を得てしまうほどの整然とした「力の流れ」があり、当たればたいていのモノは両断できてしまう。おそらく——「それ以外の何か」も、あの『波羅蜜多之太刀』には宿っている。


 何が起こるか、分からない。想像もつかない。


 しかし、これと戦わなければならない。


 であれば、最善を尽くす他無い。

 

 そう思い、覚悟を決めた次の瞬間だった。






 






 両の二の腕から先。


 そこから先の姿形も、感覚も無い。


 消滅していた。


 いや、斬られていた。


 途切れた服と、綺麗な断面から垂れ流されている赤黒い血が、それを証明していた。


 ……太刀筋が、全く見えなかった。


 これが、『波羅蜜多之太刀』。


 雲林院弥彦の持つ唯一の技にして奥義。


 どういう理屈を秘めた技であるのかは、分からない。


 けれどその奥義は、常春の驚異的な「読み」をも突き抜けるほどの速度で迫り、このような惨劇を作り出した。


 生まれて初めて体感する、欠損という感覚。


 腕が無い。


 万物の霊長たるヒトの最大の武器の一つである「手」を失った今、常春にできることは大きく限られてしまった。


 武器を持つどころか、拳法ですら満足に戦えない。


 まだ足があるため、軽身功を活かした高速移動は可能だ。しかし、それも手が使えてこそ輝く技量。


 手を失った常春の勝ち目は、かなり薄いと言っていい。




 ——




 腕が無くなったなら、足で戦えばいい。


 足も無くなれば、魚のように飛び込んで歯で喉元を食いちぎる。


 歯を抜かれたならば、殺意を込めた睥睨で相手の心に傷を負わせる。


 自分が戦うのをやめるのは、死して、魂が砕け散った時。


 ——僕は知っている。


 腕を失うよりも、もっと苦しい気持ちを知っている。


 愛し、愛され、心身を交わし合った相手が、目の前で好き放題に弄ばれ、奪われる苦しみを知っている。


 その時の、我が身を半分に引き裂かれるような絶望は、一日たりとも忘れたことはない。


 『日常』を失う怖さを、自分は知っている。


 レーナ。






 ——








 その時、信じられないものを見た。


 


 あれだけ垂れ流されていた血が、一滴たりとも残っていない。


 くっついて治ったのではない。「腕を切られた」という事実そのものが、無かったことにされたかのようだ。


 ……いや。そもそもなんかじゃなかったんだ。


 常春は悟った。


 ——これが、「絶対に避けられない」と言われた『波羅蜜多之太刀』の秘密。


 凄烈で、清冽で、整然とした太刀筋。


 その太刀筋のとして発せられる、凄烈で、清冽で、整然とした『気迫』。


 太刀筋同様に研ぎ澄まされた『気迫』によって「死のイメージ」の見せられ、それによって発狂しているところへ本命の一太刀。


 虚像に斬られ、それに気を取られているところへ「本物の一太刀」に斬られて死ぬ。まさに嘘から出るまこと


 その「本物の一太刀」が迫っていた。すでに頭部の寸前まで達していた。


 常春はその一太刀と自身との間へ、己の刀身を割り込ませた。


 極限まで研ぎ澄まされた蓮の一太刀は、熱したナイフでバターを切るがごとく、常春の刀身を斬り進めてくる。


 刀は両断された。


 しかし、鉄で鉄を斬り進むその僅かな猶予の中で、常春は我が身を小さく横へ逃すことができた。


 必殺の縦一閃が常春のすぐ真横を降りる。


 降りきった瞬間、常春は電光の速度で両手を動かし、蓮の両腕を掴んだ。


「何ぃっ……!?」


 蓮は、掴まれた事に抵抗することも忘れ、技を避けられたことに驚愕する。


「『波羅蜜多之太刀こいつ』を、避けやがっただと……!? テメェ……一体何しやがったっ!」


 常春は歯を食いしばる。


「……軽いんだよ」


「んだとぉっ……?」


——!!」


 斧刃脚ふじんきゃく


 中国武術の基本的な蹴りの一つ。相手の脛を素早く靴裏で蹴り付ける、いわゆるローキックだ。


 しかし常春の斧刃脚は、レンガ十枚をひと蹴りで粉砕するほどの威力を誇る。


 それを左脚に食らった蓮は、足元を引っ張られるような勢いで後方へ滑り、両膝を付いた体勢で止まった。


 足は折れていないようだ。寸前で勘付き、少しでも威力を減らそうと足を後退させたからだ。この期に及んで流石の判断力だ。


「が……ぐぅっ……!?」


 しかし、それでも、満足に立って戦えるような負傷ではない。


 苦痛を隠しもせず露わにする蓮に、常春は告げた。


「君の負けだ。そんな足じゃ、もう戦えない」


「るせぇ、よっ……!! テメェが、俺の限界を、決めんな……!!」


 蓮は重いモノを持ち上げるような顔で、我が身を立たせる。しかし、左脚がやはり痛むのか、重心が右脚に偏っている。


 折れてはいない。しかしヒビくらいは入っている。とても満足に動けまい。常春のような俊足の相手と闘うには、もはや力不足は否めない。武術の要は足だ。


 形勢逆転。


 しかし、蓮は微塵も戦意を失う様子を見せない。


「この世は、力が全てだ…………暴力。権力。財力。俺は……そのうちの「暴力」を持って生まれてきた。その生まれ持った力を、使って……残る二つも、俺は手に入れた。これからも、そうだ。だから…………テメェごとき障害物なんざ、またぶち壊して、超えてやる……!!」


「……力が全て、か」


 常春は一区切り置いてから、淡々とした口調で続けた。


「これまで君のスタンスは批判してきたけど、その意見には僕も同感だ。……優しさ。思いやり。分かり合い。それが大事だと言われているのが今の世の中だけど、それも結局、力という堅牢な壁に囲われた『日常』の中でこそ価値を持つものだ。その『日常』の外側の事象に立ち向かうなら、やはり力がモノを言う。……僕は、それをこの目でたくさん見てきた。だけど、」


 蓮を見る目を、常春は憐れむソレに変えた。


「君の『日常』には、君一人しかいない。…………他者を愛せない。愛することを知らない。掴んで引き寄せて、牙と爪を肌に立てて「俺を愛せ」と下知げちすることしか知らない怪物。。どれほど手に入れても常に独り。——安西蓮、それが君の正体だよ」


 







 それを聞いた瞬間、蓮は内から迫り上がるような激情のまま、吐き出すようにまくし立てた。


「——るせぇなぁっ!! じゃあ他にどうすりゃ良かったんだよっ!?」


 怒り、悲しみ、羞恥、危機感、焦り、戸惑い……いろんな思いが混ざって変色した、混沌の激情のまま。


「俺は「このやり方」しか知らねぇし、信用できねぇんだよ!! 欲しいモノがあったら掴んで捻じ伏せて引きずり込んで、逃げられないようにしてモノにする「このやり方」しか出来ねぇんだよぉっ!!」

 

 怒号にも悲嘆にも聞こえる叫びだった。


「テメェらみてぇに、愛をささやいてそれを行動として捧げろって!? クソが! 遠回しだし気持ちが悪い!! おまけに報われるかどうかも分からねぇ!! そんな不確実で回りくどいやり方より、力づくで引きずり込んで言うこと聞かせる方が確実だしコスパ良いし手っ取り早いだろうが!! 俺には、それができる力があるんだからよぉっ!!」


 蓮とて、子供の時分には、愛で成り立つ絆があると信じていた。


 何かあるとすぐにタバコの火を押し付けたり、引っ叩いたりしてきた母。


 最初は、自分に何か至らぬ点があるのかと思っていた。


 だからがんばった。


 ひとりでも家事ができるようにしたり、

 箸の持ち方を上手にしたり、

 おねしょをしないようにしたり、

 家の外では「いい子」に見られるように演じたり、

 わがままも一切言わないようにしたり——


 そうして尽くしていれば、おかあさんはいつか自分をあいしてくれる。

 タバコの火ではなく、抱擁ほうようをくれる。

 悪罵あくばではなく、愛の言葉をくれる。


 そうしんじて、がんばった。——借金のカタに、ヤクザに身柄を売り飛ばされるまでは。


 どんなに愛情と行動で尽くしても、結局、蓮の欲しかったモノは手に入らなかった。


 母から見捨てられ、住む家も無い、守ってくれる大人もいない。


 そんな蓮に唯一残されたモノは、『戈牙者』の「血」だけだった。



 すがったから、生き延びられた。


 すがったから、母から押し付けられた借金を返せた。


 すがったから、手下がたくさん出来た。


 すがったから、金も食い物も女も好きなだけ手に入った。


 すがったから、裏社会における強固な地位を手に入れられた。


 だから、これからもずっとソレにすがっていればいいじゃないか。


 欲しい人やモノがあれば、強引に奪えばいい。

 相手の心が自分への服従を拒むなら、服従するまで痛めつければいい。

 それでもダメなら、もういらない。勝手に死ね。


 いまさら。


 いまさら「ソレ」以外など、どうして認められようか。


 今までの自分を否定することなど、どうしてできようか。


 『戈牙者』である事が、自分にとってたった一つ残された誇りだった。


 「ソレ」を否定することは、「ソレ」によって築き上げてきたもの全てを否定する事に繋がる。


 そんなこと——どうしてできようか!


 だから、ここで屈することなどできない。


 まだ戦える。戦わなければならないのだ。


 戦うことをやめれば、それは安西蓮という人間の「死」を意味するのだから。


 だが、そんな蓮の矜持を嘲笑うかのごとく。


「——がっ!?」


 とともに、蓮の脇腹にあなが穿たれた。


 硝煙臭しょうえんしゅうとともに、広大なカジノ跡に静寂が訪れる。


 先ほどの撃発音——銃声が聞こえてきたのは、常春の後方。つまり入ってきた両開きの扉。


 ゆっくりと振り向く。


 そこには。


「——ご苦労だったな。伊勢志摩常春。その猛獣を弱らせてくれて」


 蓮に向けて拳銃を構えた、神野かんのがいた。



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