仁の迷い

 伊勢志摩いせしま常春とこはるを抹殺せよ——


 『唯蓮会ゆいれんかい』幹部全員の元へ届いたそんな指令は、当然、三番隊隊長の東恩納ひがおんなじんも受け取っていた。


 すでに陽は落ち、沈殿物のような闇が降り、それをネオンや電灯がカラフルに照らす夜の武久路ぶくろの街中。


 仁と「もう一人」の足は、武久路駅南方面にあるオフィス街へと向かっていた。もうじきそのオフィス街は多くの社が終業時間になって人が減る。……伊勢志摩常春は心根が善良な人間だ。爆弾や銃火器を平気で使う連中からの巻き添えを喰らう他人を気遣って、比較的人気の少ない場所へと逃げるはず。それゆえ、その候補地の一つであろう夜のオフィス街へと先回りしている途中だった。


 その道中、仁は少し前を歩く「もう一人」へ視線を向けた。


 ——彼を特徴を一言で言い表すなら「」だった。


 東洋人とも西洋人とも中東人とも呼べない、端正ともおとことも呼べない、若いとも老いているとも呼べない、おまけに髪も坊主に剃り落としているし髭も無い。あらゆる顔の特徴のカテゴリーを同時にグラフで測り、その中で徹底して「中庸ちゅうよう」を追求したような顔だ。


 そこそこ長身で、仁より少し低い程度。体格も細身。着ているものは灰色のジャージ。


 特徴がなさ過ぎて不気味なくらいだ。……強いて特徴を挙げるなら、左手にだけ黒革の手袋を嵌めている点だろうか。


 しかし、それゆえに。まるで枯葉に擬態するカレハカマキリのように。


 ——「伝説の殺し屋」だというからどれほど剣呑な人間を連れて来るのかと思ったが、思ったよりも地味で、そしてプラグマティックな人物だった。


 この男は『唯蓮会』の構成員ではない。れんに金を積まれて雇われた者だ。

 

 『ガデューカ』——主にロシアで活動している、伝説級の暗殺者。


 ロシアは東スラヴ人が大半だが、それでもあらゆる民族が暮らす多民族国家だ。ゆえに、このような人種の判別がつきにくい人間も生まれたのだろう。その容姿をさらに無個性で飾り、あらゆる人種の人混みの中に紛れ込み、依頼された暗殺対象を粛々と殺害してきた。……その中には、大統領の依頼で殺した者もいるという噂だ。


 常春は怪物だ。あの蓮と互角に渡り合えるほどの強さを誇り、その上同じ『戈牙かがもの』だ。半端な戦力では返り討ちにされるのがオチだ。


 確かに、これほどの戦力がいれば心強いだろう。


 しかし、こんな大物を駆り出したということは、逆に、仁たちだけでは力不足であるということを無言で蓮に突きつけられているようなものだ。


 確かに仁一人では常春に敵わない。それは認める他ない事実だ。


 しかしそれでも面白くない。助っ人の力を借りなければならないというのは。

 

 自分でもチンケだと思うそんなプライドゆえに、思わず『ガデューカ』に言ってしまった。


「お前さんはあくまで助っ人だ。主戦力はあくまで俺達三番隊と他の隊の混成部隊。お前さんはサポートだけしてくれればいい」


неニェ нужноヌズナ。お前達の助力など熊の親切」


 返ってきた言葉に、仁は思わずカッと目を剥く。


 「熊の親切」とはロシアのことわざだ。元ネタはイワン・クルイロフの寓話「隠者と熊」。友である隠者の顔に付いたハエを払おうとした熊が、力加減を誤って隠者を殴り殺してしまうという話に由来した諺。


 要するに「ありがた迷惑」という意味だ。

 

 これは流石に武を振るう人間として聞き流せなかった。

 

「……俺達をあまり見くびるなよ。俺達とて、それなりに修羅場はくぐってきているプロだ。足手まとい扱いするのは——」


 言い切る前に、仁の眼球の寸前にが突きつけられた。


「っ!?」


 思わず身を飛び退かせる仁。


 ——針を持つ左手の動きが、全く見えなかった。


 もしもこの男が「刺そう」と少しでも思っていたなら、この針は自分の眼球を貫いて脳まで達し、絶命させていただろう。


 裁縫用より少し長い針を袖の内へ引っ込め、『ガデューカ』は音もなく歩き出した。


「私が経験してきたのは、お前達のような狂犬サバーカの喧嘩ごっこではない。本物の殺しだ。その伊勢志摩常春という子供を本気で殺そうというのなら、お前達の方が私の邪魔をせず粛々と傍観していることだ。その方が、成功率は上がる」


 無感情な響きを持つその声に、仁はほぞを噛んだ。……悔しいが、今ので思い知った。この男は、自分など及びもつかないほどに、強い。加勢はむしろ足を引っ張ることになりかねない。


「あの化け物じみた安西蓮と同等だという者と対するのだ。そのために私は呼ばれた。これはなのだ。お前達「人間」の出る幕ではない」


 化け物。


 その通りだ。


 しかし、それ以前に——常春は普通の学生ではないか。


 武術の腕は確かに異常だ。しかし、それだけだ。それ以外は普通の高校生とほとんど変わらないはずだ。


 まして、『唯蓮会』と敵対したわけでもない少年を、なぜ殺し屋まで雇って消さなければならないのだろう?


 ……蓮はその理由を、全く話してくれない。「とにかく殺せ」の一点張り。


 そのために、蓮は全戦力を常春へ向けて動かしている。


 仁は迷っていた。その命令に、唯々諾々と従うことに。


 自分とて裏社会の人間だ。そこそこ手は汚してきたつもりだ。そんな人間が、寄ってたかって一人の少年を虐め殺そうとする行為を、卑劣と断ずる資格は無い。まして、武術家としての好奇心ゆえに、常春にふっかけたこともあるくらいだ。


 それは分かっていても、仁はやはり割りきれないものを感じていた。


 しかし、仁は従う他無かった。


 そも、仁が蓮の軍門に下ったのは、織恵おりえが営むバー『郷愁きょうしゅう』を守るための後ろ盾を得るためだ。


 彼女のために、自分は蓮には逆らえない。


 ——やるしか、ないのか。


 仁は、蓮と出会った時と似たような感情……己の無力さに対する嫌悪を禁じ得なかった。


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