アニオタ、突き放す

 ——賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。


 知識人を気取った人間がよく得意げにうそぶく言葉だ。


 しかし、歴史が「貴」であり、経験が「賤」であるとは限らないと、宗方頼子むなかたよりこは思う。


 歴史とは所詮、他人が培ったり体験したりしたモノだ。その時の気分や心境は、当時にその歴史を作った人間にしか完全には理解できない。


 歴史とは所詮、「他人の経験」だ。


 しかし、経験とは「自分のもの」だ。


 自分がその目で見て、耳で聞き、鼻で嗅ぎ、肌で触れ、舌で味わったモノ。


 それは、自分という、この世でたった一人しか存在しない個体の人生をより良いモノにするための、良い教科書となる。


 成功したのなら、次もその方法を続ければいい。


 それで次に失敗したのなら、次からはその失敗を避ける形で事を成せばいい。


 人の一生は、そうして構築されていくものだ。


 それを愚者と断ずるならば、人は一体、どうやって生きていけばいいのか。


 ……この世の中には、大して頭も知識も想像力も足りないくせに「賢者」ぶる人間が多い。

 

 頼子はつい最近、そんな「ニセ賢者」を見た。


 校長だ。


 暴力はいけない。何事も話し合いで穏便に解決しましょう——その現場を見てもなければ居合わせてもいなかった分際で、聞き飽きた寝惚けた主張で他人の勇敢を粗暴と切り捨てる。


 反吐が出る。


 安西蓮あんざいれんといったか。あの男の部下に校長が暴行を受けたと聞いた時、正直「ざまあみろ」と思った。


 ……一昨日、自分は理恵にホイホイ付いていき、その卑劣な罠に間抜けに引っかかった。


 あの時は本当に生きた心地がしなかった。


 薬を無理やり吸わされ、男達の無骨な手で弄ばれ、薬の依存性で無限地獄をさまよい続ける…………もしも常春から武術を学んでいなければ、今頃そうなっていただろう。


 しかし、そうはならなかった。


 常春の武術を使い、自分で自分の身を守ってみせたのだ。


 正直、護身術程度にしか考えていなかった武術だったが、その威力は想像以上だった。


 たった数日習っただけで、十人以上の大の男を倒せたのだから。


 この手には残っている。筋肉の鎧のような男の胴体を打ち抜く感覚が。

 この足には残っている。男の顔面を蹴り潰した時の心地よい感触が。


 夢などではない。自分はやったのだ。勝ったのだ。


 常春の力を借りず、自らの手で自らの『日常』を守ったのだ。


 自分は強くなった。もう、黙って殴られ、犯されるだけの小娘ではない。


 ざまをみろ、クソ校長。常春とウチの方が、お前よりも正しいんだ。病院のベッドで己の家畜根性を悔い改めるがいい。


 朝の九時まであと少しという時間帯——十喜とき珠神社たまじんじゃへ向かうまでの道のりを、頼子はずっとスキップしっぱなしだった。


 頬の打撲痕はすでに何事も無かったように引いている。右手のナイフ傷も。まだ少しだけチクチク痛むが、武術の練習ができないほどじゃない。


 昨日、怪我と傷ができたため常春は強引に自分を休ませたが、頼子は昨日にでも練習をしたかった。


 ——もっと強くなりたい。


 今度は、一発も殴られる事なく、鮮やかに敵を全滅させられるようになりたい。


 もっと残酷で効果的な技を教えてもらいたい。


 自分を傷つけようとしてくる奴らに、片っ端から地獄を見せられるようになりたい。


 明日の自分は、今日よりもっと強くなっているだろう。


 頼子の中には、そんな確信にも似た予感があった。

 

 








「お待たせー!」


 そう元気よく十喜珠神社の鳥居をくぐった頼子の姿を見た伊勢志摩常春の表情は、だった。

 

 にこやかな笑みと一緒にその頭上で振られている右手には、一昨日に常春が施した応急処置の痕跡が無い。


 傷が塞がりかけていた。


 


 それを見た常春の意識が、さらに緊張感を強める。


 驚異的な自然治癒力の高さ——それもまた『戈牙者』の恩恵の一つだ。


 常春は、何度か銃弾を喰らったことがある。いずれも弾丸がきちんと体を貫通していたが、それでも痛々しく、血が大量に出るのは変わらない。しかしそんな軽傷とはいえない傷跡も、一週間足らずでほぼ完治していた。……それを見た師が、化け物を見るような目を自分に向けたことを、今でも忘れない。


 矢や鉄砲に一回二回射られた程度で活動を停止していては、雑兵と変わらない。だからこそ『戈牙かがもの』は、人外じみた打たれ強さと回復力を得られるように自分達を「品種改良」させていったのだ。たくさんの矢が突き刺さった状態でも、ほとんど動きにを見せる事なく人を殺し続ける鬼神のごとき戦いぶりは、古い文献に書き遺されている。


 今日も頼子の体調をおもんばかって練習は中止にしようと思っていたが、頼子の強い希望で練習が決まった。


 今の頼子を見る限り、武術の練習をする上で支障があるようには見えない。


 そう。


 やはり頼子は、『戈牙者』なのだ。


 だとするならば、頼子に武術を教えることに対する意味が、


 ——えん封祈ふうきが、常春に本格的な武術を教えることを決意したのも、常春が『戈牙者』だと気付いたからだ。


 師は最初、虚弱体質だった常春に健康法的な武功だけを教えて去ろうと思っていた。しかし、常春の成長の飛躍的スピードを目にした師は、その計画を変更せざるを得なくなった。


 ……師は、『戈牙者』の真の恐ろしさを知る、数少ない生き証人だった。


 日中戦争期、師が抗日パルチザンとして戦っていた河北省かほくしょう滄州そうしゅうは、最大の激戦区の一つだった。


 ゆえに日本軍側も、を滄州へと送り込んだ。


 すなわち、『戈牙者』で構成された精鋭部隊である。


 その鬼神のごとき白兵戦術によって、多くのパルチザンが殺された。


 若くして天才的な武術の腕ともてはやされた師も、『戈牙者』の兵士相手には手も足も出なかった。倒すなどとんでもない。自分の命を守ることで精一杯だった。


 やがて日本の敗戦とともに大陸侵攻軍も撤退していき、中国は事実上の勝利を得た。しかし『戈牙者』の人外じみた強さは、師の心にトラウマを残した。


 ——常春という『戈牙者』を正式に弟子にとったのも、そのトラウマゆえだった。


 自分自身の稀有な才能を自覚させたまま野に放てば、どんな怪物が出来上がるのか分かったものではない。


 ゆえに、師弟関係というある種の「檻」で囲い込み、伊勢志摩常春という『戈牙者』の心身の成長の方向性を操作していくことに決めた。いわば「洗脳」だ。


 そうして出来上がったのが、超人的な強さを誇りながらもそれを身勝手に振るうことを良しとせず、日常系アニメに耽溺しながら人生を消費していくアニオタである。


 そうなったことに、常春は後悔は無いし、師を恨んでもいない。


 ——そんな常春は、目の前にいる『戈牙者』に対し、無責任でいることはできない。


 今の頼子は、『戈牙者』としてはほとんど無垢な状態だ。


 白にも染まれば黒にも染まる。


 今、この段階で教える方向性を誤ってしまえば、取り返しのつかないことになってしまいかねない。


 あの安西蓮のような、地上最強の化け物を生み出してしまう。


 単なる護身の術を教えるためと安請け合いした武術指導だが、思わぬ大役となってしまった。


 そんな常春の内心の苦悩を知る由もなく、頼子は常春に駆け寄り、嬉々として尋ねてきた。


「ねぇっ。今日はさ、何教えてくれるのっ?」


 学習熱心な生徒を、教える側は普通喜ばしく思うものだ。しかし、常春はそんな気分には到底なれなかった。


 それでも常春は普段通り振る舞った。


「……そうだなぁ。まだ弾腿だんたいの一路から三路までやり始めたばっかりだし、もう少しそれを掘り下げようかな」


「えぇ? ウチ、新しいの習いたいなぁ」


「着実に身につけていくものだよ。功夫コンフーっていうのは」


「けちなんだから。でもまぁ、常春がそう言うんならいいかな」


 不満そうに頬を膨らましつつも、どこか楽しげな頼子。


 今までは緊張感を持って稽古を受けていたが、今日はやけに機嫌良さげだ。


 それが逆に怖かった。


 やはり、一昨日の勝利の余韻が、させているのか?


 おそらく、頼子が『戈牙者』の血に本格的に目覚めたのは、それがきっかけだろう。


 男の腕力による拘束と、殴打の痛み。それらが怒りと危機感と闘争心を生み、それが引き金になり、彼女の中にずっと眠っていた「血」が蘇った。


 その「血」のもたらす卓越した戦闘センスは、まともにケンカなどしたことがないであろう頼子に、勝利をもたらした。

 その「血」のもたらす驚異的な自然治癒力は、その時に負った怪我すら二日でほぼ完治させた。

 その「血」のもたらす獣のような闘争本能は、

 

「……頼子は、そんなに武術が好きかい?」


「好き」


 思わず発した常春の問いかけに、頼子は即答した。


 魂に染みついた答えであるかのように、迷いなく。


「もしも一昨日、ウチがあんたから武術を習っていなかったら、ウチは今頃ウチじゃなくなってた。あんたが教えてくれた武術が、ウチをウチのままでいさせてくれたの。感謝してもしきれないくらい」


「頼子……」


「ウチ、分かったんだ。自分の我を通すには、力が必要だって。あのクソ校長が言ってたような、話し合いでの解決なんてものは妄想でしかないって。力さえあれば、ウチを傷つけようと近づいてきた奴を、片っ端からぶっ殺してやれる。力の無い奴には、自分の主張を口にする権利すらないんだって。だからクソ校長は足の骨を折ったのよ。はっ、良い気味!」


 頼子の口調が、皮肉っぽさを強めてくる。


 常春は絶句していた。


「安西蓮って奴は正しかった。力が無い奴も、そんな自分を肯定する奴も、みんなみんなクズよ。自分が「そういう目」に遭わないって高を括って、いざ「そういう事態」を前にしたら何もできずに食われるだけの、救いようの無い豚だわ」


 いつにも増して過激だが、決して間違ってはいない頼子の主張。


 それを述べている時の頼子の顔は、わらっていた。





 美貌に浮かぶその歪な笑みが——西





 常春は「良くない兆候」を、今度こそ明確に感じた。


「だからさ常春、早く教えてよ。弾腿の他の套路かたでも、それ以外の技でもなんでも良いから、武術をさ。あ、そうだ! こないだ東恩納ひがおんなって人の心臓止めたあの技を教えてよ! あれがあればわざわざ立ち回りとか工夫しなくても速攻で相手を殺せて便利——」


「——


 頼子の嬉々とした語り口が、途切れた。


 かと思えば、すがるように、おそるおそる訊いてきた。


「……え? 今……なんて?」


「君に武術は教えない。そう言ったんだ」


 常春は大きく息を吸って気持ちを落ち着け、厳命した。


「——宗方頼子。君に。今後しばらく、僕は君に一切の指導をしない」


「は…………はぁっ!?」


 驚愕と怒鳴り声の間のような声を張り上げ、常春の胸ぐらを掴んでくる頼子。


「なんでよっ!? なんで教えてくんないのよ!? ウチ、何か悪いことしたっ!?」


「……いいや。君は何も悪いことはしていない」


「じゃあなんで謹慎!? 意味不明なんだけど!! 理由くらいあるんでしょ!! 答えてよ!! 答えなさいよっ!!」


 噛み付かんばかりに詰問してくる頼子。その必死さと憤りぶりが、武術という殺人技術への執着と渇望を物語っていた。


 最初は純粋な「護身」のために武術を求めた頼子。


 しかし、今の彼女には、それを適切に運用する精神的基盤が存在しない。


 自らの「血」の本能に、心を呑まれている。


 そんな状態で武術を託しても、彼女のためにはならない。


 自らの安全と『日常』を守るための技術で、かえって自分の身を滅ぼしかねない。


「——今の君がとても危ういからだ。今の君に武術を教えても、適切な扱い方は出来ないだろう。


 ハッキリとした拒絶の言葉に、頼子は大きく目を剥いて言葉を失った。


 そんな頼子の横を、常春は無言で通り過ぎ、鳥居へ向かう。


「…………なによ、それ」


 後ろから震えた声が聞こえてくるが、構わず境内を出るべく足を進める。


 だが、頼子の存在がものすごい勢いで常春の背後へ近づいてきた。


 常春は身をかがめながら、横へ大きく飛び退いた。一瞬後に、頼子の右腕が鞭のごとく常春の残像の首を割いた。


 向き直った頼子の目には、憤りがギラついていた。


 再度接近。


「あんたが教えたんだろ!? 力が無きゃ『日常』は守れないって!! だからウチは頑張ったんじゃないのっ!! それなのに今更教えない!? ざっけんなよこの人でなしっ!! アニオタっ!!」


 腕刀、正拳、足先蹴り……知り得る限りの攻撃方法で常春に攻めかかる頼子。


 その全ての動きに、常春の教えた技の「法則」が癖レベルでしっかりと宿っていた。……この超短期間でそれほどまでにモノにしている事実がまた恐ろしい。


 常春はそれらを避ける。ひたすら避けに徹する。


 まだ武術家として成熟しきっていない今の頼子を組み伏せることは簡単だ。


 


 もしもそれをすれば、その動きも彼女の能力で習得してしまいかねないからだ。


 一切の指導をしないというのは、そういうことだった。


 その一方的なやり取りはしばらくの間続き、やがて頼子の息が上がって両者の足が止まった。


「……とにかく、しばらくは君に何も教える気は無い。頭をゆっくり冷やすといい」


 いまだに敵意を込めた瞳をギラつかせる頼子を捨て置き、常春は境内を今度こそ後にした。


 今度は追ってくる気配が無かった。


 自分から突き放しておいて、今度は後ろ髪を引かれる思いを味わった。


 ——教えたい。君は『戈牙者』だと、頼子に教えたい。


 そうすれば、常春が言い渡した謹慎の意味も、納得させられる力を持つだろう。その上で、彼女を指導すればいい。


 けれど、今の頼子には


 もしも自分が最強の戦闘集団の血筋であることを知れば、それによって彼女の中にさらなる「おごり」が生まれかねない。


 今の常春にできるのは、彼女の中にある勝利への驕りの熱が冷めるのを待つことのみである。


 

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