胎動
——同時刻。
スクーターもかくやという速度での全力疾走。おまけに道ゆく人々には一切ぶつからず、針穴に糸を通す正確さで駆け抜けていく。人々は突風が起こったとしか思っていないだろう。
それほどまでに、常春のスピードと、足捌きの正確さは、常人離れしていた。
それほどまでに、常春は切迫した思いを抱いていた。
ずっと耳元に当てっぱなしのスマホから、
『
「「
『よし! なら次の信号を左折して「太平通り」へ入り、そのまま武久路駅めがけて一直線に北上しろ! 詳しい位置は追って出す!』
「はい!」
常春は信号に到達し、右の歩道から左の歩道へ移ろうとするが、歩行者信号がちょうど赤になってしまった。
走り出す車。……ここは道路が広くて交通量も多い。信号が変わるまで時間がかかる。
——待っていられない。今は一分一秒でも惜しい。
なので常春は、無茶をした。
手近な街頭を駆け上り、半ばまで達した瞬間、そこから跳躍。
放物線を描く形で道路の真ん中へ向かって落下し、タイミングよく足元へやってきた車の上にふわりと着地した。
それから、また別の車へと飛び移る。それは、左折する車だった。その車の運転手に気づかれぬまま便乗し、一気に武久路駅へと近づく。
右折しようとした瞬間、曲がった拍子に飛び降りて歩道に着地。そこからまた走り出した。
便乗したおかげで、ずいぶん早く駅前へ到着できた。
『よし! 次の情報が入った! 次は武久路駅北口から「開花通り」に入れ! そこから三つ目の十字路を右折するんだ!』
凌霄の指示に頷き、常春は走る。
——早く、早く、早く!
すでに全速力。しかし、それよりもさらに速く走りたいと常春は望む。
内から噴き上がるのは、焦燥感。
大事な『日常』が無くなるかもしれないという、強烈な危機感と恐怖感。
どくん、どくん、どくん、と、心の奥底に追いやった「古傷」が脈を打つ。
脳裏に蘇る——白金の髪。
彼女のもたらす笑顔、声、吐息、匂い、体温、素肌の感触……幸せで満たされた『日常』。
それが、誰かの悪意と害意で一瞬にして奪われた。
殴られ、嬲られ、弄ばれ、やがて飽きて殺された。
——『日常』を喪失する痛み。
それを、再び味わうことになるかもしれない。
嫌だ。あんな思いは二度とゴメンだ。
もう二度と、自分の『日常』を、喪失させはしない。
彼女を……レーナを失った痛みからどうにか回復し、また新たに得た『日常』。
その一部である、頼子。
失わせない。
奪わせない。
絶対に。
常春は、風のごとく走り続けた。
さっき殴り飛ばしたのはマグレだ。
こっちはあの乳のでかい女よりガタイが良いのが、自分を加えて十二人もいるのだ。
何か格闘技でもやっているのかもしれないが、所詮は女だ。脆弱で、男の力で獲得されるしかない、女という非力な性だ。
おまけに、この狭いとは言えぬが決して広いとも言えない室内。その中はすべて敵だらけ。密室ゆえの自由の利かなさが足枷となり、敵の密度に押し潰されるは
梶田は、自分があの女を力で屈服させ、『ウロボロス』の新たな顧客にする未来を疑っていなかった。
——しかし。
その少女…………
まず、出だしから、頼子が自分の有利をかっさらった。
頼子を捕まえんと男達が動き出した瞬間——それらが乗っていたカーペットを思いっきり引っ張ったのだ。
梶田を含む多くの男がそれに足を取られ、一斉に転んだ。床が一瞬大きく揺れる。
しかし、カーペットを踏んでいない者もいた。そいつらが頼子へ向かって押し迫る。
——落ち着け。落ち着け。落ち着け。
早鐘をけたたましく打つ心臓に、頼子は必死に鞭を打つ。
どんなにガタイが良くても、性別が違っても、自分と同じ人間だ。打たれれば死ぬ部位だって変わらない。
それに、常春は教えてくれたのは拳法だけではない。
必要なら、周りにある道具も上手く使えと。
「わぷっ!?」
頼子は持っていたカーペットを広げて、向かってきた二人の男へ投げた。包み込まれる二人。視界はカーペットに覆われている。
そのうちの一人へ向かって頼子はダッシュ。走行の勢いを乗せた踏むような蹴りを叩き込んだ。
吹っ飛んだ。
しかし、敵もいつまでもカーペットに邪魔されてばかりではない。掴んで持ち、今度は頼子を包み込まんとしてくる。
後ろへ退がるが、すぐに壁が背中に来る。追い詰められた。
どうする? 包まれたらそこから一気に押さえつけられて終わりだ。
……その答えは、頼子の体が勝手に導き出した。
「かふっ——」
気がつくと、前足で深く踏み込んでの頼子の拳が、カーペットの持つ男へと突き刺さっていた。
男は吹っ飛ばず、その場に崩れ落ちるようにして倒れた。
……以前、常春から聞いたことがある。大きく吹っ飛ぶよりも、吹っ飛ばなかった方が危険度が大きいと。打った衝撃が相手の表面ではなく、内部に浸透しているからであると。
しかし、そのことに驚く暇は無い。
すっ転んだ男達が、起き上がったのだ。
頼子はもう一度カーペットを使おうとしたが、今さっき倒した男が重しになっているため、なかなか引き抜けない。そうこうしているうちに、新たな敵が近づいてくる。
周りに武器が無い。仕方なく、頼子は素手で応戦しようとする。
だが、相手は殴るでもつかみかかるでなく、両腕を広げて飛び込んできた。タックルだ。……両腕が開いているため有効範囲が広く、なおかつ全体重を前のめりにかけているため多少殴られても止まらない。
「はぐっ……!」
頼子は抱きつかれたまま勢いよく押され、壁へと背中から叩きつけられた。
衝撃を堪え、必死にもがく。しかし、男の腕力にモノを言わせた抱擁は、頼子の非力な腕では全く解けなかった。まるで極太の綱に巻き付かれた気分だ。
間近に迫った、男のいかつい顔。奇妙な臭気をハフハフ吐き出すその唇が、頼子の薄紅色の唇へ近づく。
「お嬢ちゃんさぁ、ファーストキスってまだっ? お兄さんとしちゃおうか? え?」
——気持ち悪い。
身の毛がよだつ生理的嫌悪と、カッと爆ぜるような怒気の混合物のような激情が、頼子の体を動かした。
外側へ広げるようにして腕を働かせるのをやめ、左腕を口から吐くように伸ばす。その左腕を男の左側頭部へあてがい、そのまま腰ごと回して巻き込んだ。
「おおっ……?」
そう、巻き込んだのだ。
あれだけ全力を出しても振り解けなかった男を、軽々と腕の回転で巻き取り、重心を崩して床に転ばせたのだ。……頭部という重い部位を傾けることで、些細な腕力でも大男を簡単に転ばせられる、人間工学の理にかなった動き。
それは、頼子が今日常春から学んだばかりの
起きあがろうとするその男。
——顔面踏めばいいんじゃないかしら。
「ほごぉ!?」
そう思った時には、すでに頼子はそいつの顔面を踏みつけていた。靴を履いたままこの部屋へ引き摺り込まれたので、その衝撃は硬く痛々しいだろう。
戦意を失ったその男からふいっと視線を外した時だった。
「——っぐっ!?」
左頬に、硬く重い衝撃がぶち当たった。視界に星が散り、鼻の奥がキナ臭くなる。
拳で殴られたのだ。
派手に横倒しになる頼子。鼻からはぬるりとしたモノが流れる感触。触ってみた指が血まみれになった。
殴った本人である梶田の、蔑みのこもった声が聞こえる。
「調子乗ってんじゃねぇぞ
男達が色めき立つ。
——どくん。
重厚な脈動が、全身に響く。
——どくん。
しかし、それは恐怖ゆえではない。
——どくん。
いや、むしろ心音ですらない。
——どくん。
それは、自分の中でずっと眠っていた「何か」が目覚める、胎動のようなもの。
——どくん。
己の身に宿った武を振るう機会に恵まれたことを悦ぶ、闘争本能。
——どくん。
頼子の唇に浮かんだのは、
——どくん。
獣のように歯を剥き出しにした、笑みだった。
——どくん。
体の中心から湧き立つ熱に突き動かされるまま、頼子は突然に立ち上がった。
「な……なんだよ? まだやんのかよ」
そう投げかける梶田の声は、かすかに、狼狽を孕んでいた。
ブラウンの混じった黒髪が乱れて広がり、鼻血をこんこんと流しながらこちらを鋭く睨み据える頼子の姿。——まるで、自分を殺した相手を祟らんとする、幽鬼のようだった。
梶田だけではない。仲間もまた、同様に気圧されていた。
たった一人の、傷ついた少女を相手に。
その傷ついた少女の姿が、突如消失したと思った瞬間——梶田の視界が激痛とともに暗転した。
「ごぅっ!?」
それは、頼子が梶田へ一瞬に飛び込み、顔面へ跳び膝を叩き込んだからだ。帰宅部でありながら陸上部の短距離選手に舌を巻かせた瞬発力を乗せた一撃。ムエタイのティーカオに酷似していた蹴り。
鼻血を散らして天井を仰ぐ梶田からはすでに目を離し、頼子は次の相手を睨む。
鼻の穴の片方を塞ぎ、もう片方の穴から勢いよく鼻血を飛ばした。
「っ……!?」
それは、次に潰す予定の敵の目に、正確に当たった。
血というのは粘度が高く、擦っても早くは落ちにくい。そして擦り落とすだけの時間を頼子は与えるつもりはなかった。
踏み込んで、正拳。
相手は先ほど同様、ほとんどその場から押し流されることなく崩れ落ちた。拳にこめられた勁が浸透したのだ。
すでに頼子は、次の「潰す敵」へ目星をつけていた。
「調子乗ってんじゃねぇぞコラァ!!」
その「潰す的」は、すでに右フックを交えて急接近していた。そのフックは鋭く慣れた感じがする。ボクシング経験者だろう。
——あくびが出る。
頼子は前にスッと進んだ。円弧軌道で迫るパンチの内側へ入ることで後頭部後ろの虚空を打たせ、同時に敵の顔面へ額を叩き込んだ。……ボクシングを知り尽くし、なおかつ対人戦に熟練していなければ成立し得ないカウンター。素人に産毛が一本生えた程度の武道歴しか無い頼子が、狙ってそれをやったのだ。
鼻っ面を潰された男は仰向けに崩れ落ちる。それをすぐに捨て置き、こちらを捕まえんと手を伸ばしてきた男の腕を取り、足腰を捻りを加えた。その勢いを用い、関節とは逆方向に男の腕を曲げる。
こきゃん。
「ぎゃあああぁぁぁぁぁぁ!?」
絶叫が轟く。
耳障りなので、髪の毛を引っ張り込み、膝を叩き込む。すると全身から力を抜き、
ふいっと視線を動かす。
残りは六人。今なお数の優位は向こうにある。
にもかかわらず、その六人の表情は優れない。
ただのか弱い小娘が、非情とも呼べるやり口で抵抗し、半減までさせてしまった事実を、いまだに受け入れられずにいた。
「っ……くくっ」
頼子は、
「ふふっ……くくくっ……」
たった一人の小娘に、あそこまでうろたえているのが面白い。
「くっくっくっ…………ふふっ……ふふふふふっ」
まだ踏み潰せるゴキブリが、六匹も残っているのが嬉しくてたまらない。
「ふふふっ、ふふふふふ。ふはははっ、あははははっ」
まだ戦えることが、楽しくて仕方がない。
「————あっははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」
哄笑。
六人の男は、それを見て、ぞっとした顔で一歩退く。
頼子はひとしきり笑い終えると、犬のように歯を剥き出しにした破顔のまま、煽った。
「——早く来ればぁ? ウチにその
普段の頼子なら絶対に言わないであろう、品の無い挑発。
それがすんなりと、我が口から出て来た。
一番驚いていたのは頼子だった。
どうして自分はこんなふうに戦えているのだ。男とケンカなどしたこと無いというのに。
どうして自分は、あんな恐ろしい攻撃ができたのだ。
しかし、止まらない。止められない。自分で自分を制御できない。
あいつら全員の悲鳴を聞かなければ、満足出来ない。
もっと闘争を。
もっと血を。
「……テメェ、マジで犯すぞ?」
挑発が効いたようで、残った男六人は驚愕を怒りに転化させた。
濃密な殺気を皮膚にちりちりと感じ、心地が良い。
そうでなければ、潰し甲斐が無い。
「——上等じゃない。とっとと来なさいよ、
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