豚ではなく、猪であれ

 「穴場のブティックがある」という理恵りえの誘いについていく形で、頼子よりこは見知らぬ三階建てのビルディングへと到着した。


 外壁が無数の四角い白タイルを並べた網目のような模様となっており、あまりお堅い雰囲気が無い。確かにここになら、ブティックの一つはありそうだ。


 最上階である三階まで達する。


 そこがブティックなのかと思ったが、それらしい看板が無かった。


 あるのはただ、妙に生活感のあるドアのみ。


 それを見て、頼子は自分の中に妙なが生まれるのを実感する。


 理恵はそんな頼子へ構わず、そのドア横のインターホンを鳴らしていた。


 インターホン——そんなものを押さないと入れないブティックってどんなのだ。


 不穏な気配はさらに強まった。


「あ……あの、やっぱりウチ、家に——」


「——帰る前に、お兄さんとちょっと遊んでくんなぁい?」


 知らない野太い男の声。開いたドアからだった。


 見るからにな男だった。


 ガタイの良い体格には、ノーネクタイに赤いワイシャツ、その上にピンストライプのビジネススーツを着ていた。四角い顔には耳から耳まで繋がった顎髭あごひげと、大きなサングラス。鼻につく香水の匂い。


 頼子は逃げ出そうとした。


「きゃぁっ!? いやっ! 離してよ! この変態っ!」


 しかしその反応を読んでいたのであろう男に、抱きつかれるように拘束された。


 その太く毛深い腕が遺憾無く発揮する男の腕力。頼子はジタバタと腕を動かすが、右手に持っていた空っぽのエコバッグが指から滑り落ちて階下の地面に落下しただけで、ロクな抵抗にはならなかった。叫ぼうとしたら、今度は口を塞がれる。


 為す術もなく、頼子はドアの中へと引きずり込まれてしまった。


 ドアを閉めて内側から施錠をしたのは、ここへ自分を連れてきた理恵である。


 頼子が暴れるのも虚しく、なおも部屋の奥へと運ばれ、広い場所へと投げ込まれた。


「ぐっ……!」


 呻く頼子だが、こんな痛みなど些事だ。


 カーペット以外何も無い、ひどく殺風景なフローリング部屋。その真ん中に横たわる頼子を、周囲にいる数人の男が見下ろしていた。その眼差しは、嗜虐と情欲で濁っていた。


 ひっ、と頼子は恐怖のあまり喉を鳴らす。


 密室に連れ込まれ、複数の見知らぬ男。


 そんな危機的状況に、心臓が早鐘を打つ。


 発狂を起こさなかったのは、次に発せられた理恵の言葉を聞いたからだ。


「ねぇっ、梶田かじたさんっ! ? ね? あたし成果出したよ? だから、ね? はやく。おねがい。おねがい。おねがい。おねがい」


 サングラスの男——梶田というらしい——に、理恵はしがみつき、何かを懇願していた。


「もうそろそろげんかいなの! ほしい! ほしいのぉ!! ごほうびの『ウロボロス』をあたしにちょうだいよぉっ!! 『ウロボロス』、『ウロボロス』、『ウロボロス』、ウロボロスウロボロスウロボロスウロボロス——」


 その懇願ぶりがだんだんと強まってくる。明らかに異常なほどに。まるで息継ぎしたいから水面から顔を出させて欲しいと言わんばかりに。見ると、彼女の口角からはダラダラとよだれが垂れていた。


 まるで病に狂った犬のようである。


 梶田はそんな理恵を手で突き離すと、懐から小さなチャック袋を取り出す。……中にはベーキングパウダーを紫に染めたような粉が少量。


「ほーれ、ご褒美だぞ取ってこぉい!!」


 それを楽しげに部屋の端へと放り投げる梶田。


 途端、理恵がものすごい勢いでチャック袋へと飛び込んだ。


 あたふたしながらも、震えた手で袋を掴み取った理恵は、目をギラギラさせながらソレを見つめる。まるで川から砂金を掴み取ったがごとく。


 理恵は震えた手つきでポケットから細いストローを取り出すと、袋のチャックを開け、そこにストローを突っ込んだ。


 そのストローを鼻の穴に入れ、袋の中の粉を


 貪るように荒い鼻息を何度か繰り返すと、あっという間に袋の中の紫色の粉が無くなった。


「…………はあああああああ」


 途端、理恵は力を抜ききったようにばたぁん、と横倒しとなった。


 その瞳には強い恍惚が浮かんでいて、視点が定まっていない。半開きとなった口からは舌がとまろび出て、唾液が床に垂れていた。


 アンモニアじみた異臭。スカートの裾が濡れ跡を広げ、そこから伸びる素足の下に水溜まりを作っていた。しかし彼女はそんな恥辱を一切気にも留めず、ひたすらに夢見心地に浸っていた。


「————っ」


 ソレを見て、頼子は戦慄した。


 いったい何が起こっているのか、まだ把握できていない。


 しかし、今の理恵からは、


 人類というのは、かくも堕落できるのか……そう思わせるほどに。


「どうだ? いい感じにラリってんだろ?」


 そんな理恵を見て、可笑しそうに笑う梶田。


 頼子はかろうじて声を出せた。


「なによ、これ……」


「『ウロボロス』だよ。聞いたことなぁい? 君くらいのバカな若い子の間で大流行中の、魔法のさぁ。夢の世界への片道切符。吸った途端、ああやってションベン漏らすくらいの極楽へ達しちゃうワケ。どう? 素敵なアイテムだろぉ?」


 おちゃらけた梶田の口調だが、頼子はそこに内包される意味を理解した。したくなかったが、してしまった。


 ——薬物。


 先ほどの理恵の懇願ぶりを見れば、説明されずとも分かる。『ウロボロス』とかいうあの薬は、依存性が半端ではない。


 なるほど、文字通りの意味で「片道切符」だ。

 

「あそこのションベン漏らしはさぁ、君みたいなバカな女の子を呼び寄せてくれる、キラキラした「誘蛾灯」なのさ。——今を耀く人気読者モデルが現れました! そのキラキラモデルがキラキラ笑顔で言いました! 「あなたも読モにならない!? あたしと一緒にキラキラしましょ!!」 そうすれば頭の沸いたバカな小娘は目をキラキラさせてノコノコついて行って、そして俺らが『ウロボロス』をプレゼント! 結果、俺らの「お得意様」のいっちょ上がりぃ!! ——って感じ? いやー今のガキはちょろいちょろい! こんなドデカい釣り針でもう十匹は釣れちゃったよぉ! おじさん商売繁盛で万々歳だよぉ!」


 言葉が出ない。


 大人が撒き散らす、ドロドロとした悪意、害意、欲望。


 それを初めて目のあたりにした。


 安西蓮あんざいれんという少年が常春の家へ押し入って銃を乱射した時でさえ、こんな汚泥を飲み込んだような不快感は感じなかった。


 世の中には、こんなひどいことができる連中がいるのだ。


「というわけで、のお魚ちゃぁん。君にも「お得意様」になってもらうよぉ。末長くよろしくなぁ。……おいテメェら! この女取り押さえろ!」


 梶田が部屋の端に控えていた男達へそう命じる。


 その中の一人が梶田に訊いてきた。……梶田へではなく、頼子の女らしい肢体へギラギラと目を向けながら。


「あ、あのっ、その女っ……『ウロボロス』で大人しくしたら、そのあとはっ……!」


「ははっ。発情してんじゃねぇよ変態野郎。——


 ふぉうぅ!! と歓喜する男達。


 追い立てられるような恐怖に駆られた頼子は、入ってきた出入り口へ走ろうとした。


 しかし、それを読んでいたようだ。先回りされ、取り囲まれた。頼子の足が止まる。


 男の一人が、頼子の右腕を掴んだ。


「いやぁっ! 離して! 離せよぉっ!!」


「ダイジョブだよ。すぐにイヤって気すら起こらなくなるからさぁ!」


 もう片方の手を、頼子の豊かな胸部へと伸ばす。


 ——どくん。


 頼子の頭が、真っ白になる。


 恐怖で、ではない。


 で、だ。


「……いい加減に、しろぉっ!!」


 ——そこからは、ほぼで体が動いた。


 まず、右腕を大きくぐるりと回し、掴んでくる男の腕ごと持ち上げる。


 ガラ空きとなった男の胴体。左かかとでフローリングを蹴り出し、それによって自重を右足へ勢いよく運び、その重心の流れに付随させた左拳を男の胴体へと突き刺した。


「ごぉっ!?」


 瞬間、男の体が、頼子の左拳の刺さった一点を中心に「く」の字に折れ、吹っ飛んだ。


 ばたがしゃぁん!! と、男が吹っ飛んだ拍子にぶつかった窓ガラスが割れる。


 その音が響いてから、しばらく室内が無音となる。


 誰一人、言葉を発さず、動きもしない。ただ、自分よりも大柄な男を鮮やかな手際で返り討ちにしてみせた頼子を呆然と見つめ、唖然としていた。


 しかし、それは嵐の前の静けさである。


 すぐに嵐がやってきた。


 戦意と敵意と害意の匂いが、この広間にむっと充満した。


 意識を飲み込まれそうになる。


 しかし、頼子は奥歯を強く噛み合わせて、内の震えを押し殺す。


 ——やられてたまるか。負けてたまるか。屈してたまるか。食い物にされてたまるか。

 

 常春は武術という強力な力に、「『日常』の守護」という願いを託した。


 であれば、そんな彼から武術を学んだ自分もまた、同じ願いを抱くべきだろう。


 自分はもう、無抵抗で食われるのを待っている豚ではない。


 他者を突き殺し、噛み殺す牙を手に入れたいのししだ。


 戦ってやる。足掻いてやる。ここからなんとしても逃げてやる。


 今なお夢見心地で横たわっている理恵を一瞥いちべつする。——に、なってやるものか。


 頼子は梶田を始めとする多くの男を睨み据え、孤独な戦いに身を投じた。

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